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{{基礎情報 武士
'''小原 鑑元'''(おばら あきもと、生年不詳 - [[弘治 (日本)|弘治]]2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1556年]][[6月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[大友氏]]の家臣。通称、神五郎、四郎左衛門尉、遠江守、遠江入道宗惟。[[小原右並]](すけなみ、[[大友義右]]の代からの家臣と思われる)の子。[[阿南氏]]の庶流で阿南荘小原(現大分県[[由布市]])を本貫とする。初めは[[大友義鑑]]に仕え、その[[偏諱]]を賜って'''鑑元'''と名乗る。
| 氏名 = 小原鑑元
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| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[弘治 (日本)|弘治]]2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]([[1556年]][[6月15日]])
| 改名 =
| 別名 = 神五郎、四郎左衛門尉、遠江入道宗惟
| 諡号 =
| 神号 =
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| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[遠江国|遠江]][[国司|守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[大友義鑑]]→[[大友義鎮|義鎮]]
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| 氏族 = [[小原氏]]
| 父母 = 父:[[小原右並]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
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'''小原 鑑元'''(おばら あきもとは、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[大友氏]]の家臣。[[小原右並]](すけなみ、[[大友義右]]の代からの家臣と思われる)の子。初めは[[大友義鑑]]に仕え、その[[偏諱]]を賜って'''鑑元'''と名乗る。

[[小原氏]]は[[阿南氏]]庶流で阿南荘小原(現[[大分県]][[由布市]])を本貫とする。


== 大友氏の家臣として ==
== 大友氏の家臣として ==
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])[[二階崩れの変]]の際、義鑑の遺書に[[雄城治景]]・[[吉岡長増]]・[[田北鑑生]]・[[臼杵鑑続]]・[[志賀親守]]とともに連署。以後は[[大友義鎮]]の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて[[隈本城]]に入った[[菊池義武]]を[[佐伯惟教]]らとともに攻め[[肥後国]]を平定した。天文20年([[1551年]])[[南関城]]に入り肥後方分となる。
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])[[二階崩れの変]]の際、義鑑の遺書に[[雄城治景]]・[[吉岡長増]]・[[田北鑑生]]・[[臼杵鑑続]]・[[志賀親守]]とに連署。以後は[[大友義鎮]]の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて[[隈本城]]に入った[[菊池義武]]を[[佐伯惟教]]らとに攻め[[肥後国]]を平定した。20年([[1551年]])[[南関城]]に入り肥後方分となる。


== 姓氏対立事件 ==
== 姓氏対立事件 ==
しかし、弘治2年([[1556年]])5月、大友家中の他紋衆(大友氏が[[豊後国]]へ来る以前からここに領地を持って住んでいた武家)を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。
弘治2年([[1556年]])5月、大友家中の他紋衆(大友氏が[[豊後国]]へ来る以前からここに領地を持って住んでいた武家)を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。

他紋衆の挙兵は[[大友氏館]]のある[[府内 (豊後国)|府内]]でも発生し、一時は当主義鎮も要害の[[丹生島城]]へ避難する事態となったが、同紋衆の働きにより、ともに挙兵した[[本庄統綱|本庄新左衛門尉統綱]](むねつな)、[[中村長直]](ながなお)らは豊後で討ち取られ、[[佐伯惟教]]は[[伊予国]]に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるにおよんで妻子を手に掛け、城兵とともに城外に打って出て討死した。


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== 関連項目 ==
* [[大友氏]]
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2015年12月5日 (土) 05:57時点における版

 
小原鑑元
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 弘治2年5月8日1556年6月15日
別名 神五郎、四郎左衛門尉、遠江入道宗惟
官位 遠江
主君 大友義鑑義鎮
氏族 小原氏
父母 父:小原右並
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小原 鑑元(おばら あきもと)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。小原右並(すけなみ、大友義右の代からの家臣と思われる)の子。初めは大友義鑑に仕え、その偏諱を賜って鑑元と名乗る。

小原氏阿南氏庶流で阿南荘小原(現大分県由布市)を本貫とする。

大友氏の家臣として

天文19年(1550年)の二階崩れの変の際、義鑑の遺書に雄城治景吉岡長増田北鑑生臼杵鑑続志賀親守と共に連署。以後は大友義鎮の加判衆(家老)となる。同年、この大友家の混乱に乗じて隈本城に入った菊池義武佐伯惟教らと共に攻め肥後国を平定した。翌20年(1551年南関城に入り肥後方分となる。

姓氏対立事件

弘治2年(1556年)5月、大友家中の他紋衆(大友氏が豊後国へ来る以前からここに領地を持って住んでいた武家)を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。

他紋衆の挙兵は大友氏館のある府内でも発生し、一時は当主義鎮も要害の丹生島城へ避難する事態となったが、同紋衆の働きにより、共に挙兵した本庄新左衛門尉統綱中村長直らは豊後で討ち取られ、佐伯惟教伊予国に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるに及んで妻子を手に掛け、城兵と共に城外に打って出て討死した。