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[[プロイセン王国]]の[[ベルリン]]に生まれた。当初、[[ローベルト・ブンゼン]]が教鞭をとっていた[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で学んだ後、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]でアドルフ・フォン・バイヤーの研究室に入り、そこで1865年に博士号を取得した。 |
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1868年に、[[カール・グレーベ]]とともに橙色・赤色の染料である[[アリザリン]]を合成した。1870年に教授資格試験に合格し、[[ストラスブール大学|シュトラスブルク大学]]に移ったバイヤーの跡を継いでベルリン大学の教授となった。 |
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2015年1月11日 (日) 15:08時点における版
カール・テオドール・リーバーマン Carl Theodor Liebermann | |
---|---|
生誕 |
1842年2月23日 プロイセン王国 ベルリン |
死没 |
1914年12月28日 (72歳) ドイツ帝国 ベルリン |
研究機関 | ベルリン大学 |
出身校 | ベルリン大学 |
博士課程 指導教員 | ローベルト・ブンゼン、アドルフ・フォン・バイヤー |
主な業績 | アリザリンの合成 |
プロジェクト:人物伝 |
カール・テオドール・リーバーマン(Carl Theodor Liebermann, 1842年2月23日 - 1914年12月28日)は、ドイツの化学者である。アドルフ・フォン・バイヤーの弟子。
生涯
プロイセン王国のベルリンに生まれた。当初、ローベルト・ブンゼンが教鞭をとっていたハイデルベルク大学で学んだ後、ベルリン大学でアドルフ・フォン・バイヤーの研究室に入り、そこで1865年に博士号を取得した。
1868年に、カール・グレーベとともに橙色・赤色の染料であるアリザリンを合成した。1870年に教授資格試験に合格し、シュトラスブルク大学に移ったバイヤーの跡を継いでベルリン大学の教授となった。
1914年に教授を退職すると、すぐにベルリンで死去した[1][2]。
業績
1826年、フランスの化学者ピエール・ジャン・ロビケは、アカネの根から鮮やかな赤色の染料であるアリザリンを単離し、その構造を決定した。1868年、リーバーマンは、アリザリンを還元すると、コールタールに大量に含まれるアントラセンになることを発見し、アリザリン合成への道を拓いた[3][4]。アントラセンからのアリザリンの合成に関するリーバーマンとグレーベの特許は、ウィリアム・パーキンの出願よりも1日だけ早かった。この合成法では、アントラセンを塩素化または臭素化して、次に酸化することでアリザリンが得られる[5]。
出典
- ^ P. Jocobson (1918). “Nekrolog: Carl Liebermann”. Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 51 (2): 1135–1204. doi:10.1002/cber.19180510202.
- ^ Giesel, F. (1915). “Carl Liebermann †”. Zeitschrift für Angewandte Chemie 28 (8–9): 25. doi:10.1002/ange.19150280802.
- ^ C. Gräbe, C. Liebermann (1868). “Ueber Alizarin und Anthracen”. Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 1 (1): 41–56. doi:10.1002/cber.18680010142.
- ^ C. Gräbe, C. Liebermann (1868). “Ueber Farbstoffe aus der Anthracengruppe”. Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 1 (1): 104–106. doi:10.1002/cber.18680010142.
- ^ C. Graebe, C. Liebermann (1869). “Ueber künstliche Bildung von Alizarin”. Berichte der deutschen chemischen Gesellschaft 2 (1): 14. doi:10.1002/cber.18690020106.