「ヴィルヘルム・フィーエトル」の版間の差分
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'''ヴィルヘルム・フィーエトル'''({{Lang-de-short|Wilhelm Viëtor}}、[[1850年]][[12月25日]] - [[1918年]][[9月22日]])は、[[ドイツ国|ドイツ]]の[[言語教育]]者、[[音声学|音声学者]]。[[外国語教育]]改革運動の中心人物。言語教育は音声を主とすべきであると主張した。また、そのために音声学の研究も行った。フィーエトルらの新しい教育法は'''直接教授法'''と呼ばれた。 |
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フィーエトルはプロテスタントの牧師の子として[[ナッサウ (ドイツ)|ナッサウ]]に生まれ、はじめは神学を学んだ。1872年から翌年にかけて[[イギリス]]で短期間[[ドイツ語]]を教えたあと、1874年に[[マールブルク大学]]に入学して[[英語]]を学んだ。1876年からデュッセルドルフで英語と[[フランス語]]を教えつつ、言語教育に関する論文を書いた。当時の言語教育は古典文学の読解や、例文の翻訳による方法([[:de:Grammatik-Übersetzungsmethode]])が主だったが、フィーエトルは文字ではなく口による話し言葉の教育の重要性を訴えた。 |
フィーエトルは[[プロテスタント]]の[[牧師]]の子として[[ナッサウ (ドイツ)|ナッサウ]]に生まれ、はじめは[[神学]]を学んだ。1872年から翌年にかけて[[イギリス]]で短期間[[ドイツ語]]を教えたあと、1874年に[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]に入学して[[英語]]を学んだ。1876年から[[デュッセルドルフ]]で英語と[[フランス語]]を教えつつ、言語教育に関する論文を書いた。当時の言語教育は古典文学の読解や、例文の翻訳による方法([[:de:Grammatik-Übersetzungsmethode]])が主だったが、フィーエトルは文字ではなく口による話し言葉の教育の重要性を訴えた。 |
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1882年に「Quousque Tandem」<ref>[[キケロー]]による[[カティリナ弾劾演説]]の最初の言葉より。</ref>の偽名で言語教育の刷新を訴えた小冊子『{{lang|de|Der Sprachunterricht muss umkehren!}}』は従来の教育を激しい言葉で批判して、大きな反響を呼んだ。フィーエトルの教育方法は後に{{仮リンク|直接教授法|en|Direct method (education)}}と呼ばれるようになった。 |
1882年に「Quousque Tandem」<ref>[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロー]]による[[カティリナ弾劾演説]]の最初の言葉より。</ref>の偽名で言語教育の刷新を訴えた小冊子『{{lang|de|Der Sprachunterricht muss umkehren!}}』は従来の教育を激しい言葉で批判して、大きな反響を呼んだ。フィーエトルの教育方法は後に{{仮リンク|直接教授法|en|Direct method (education)}}と呼ばれるようになった。 |
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イギリスの[[ヘンリー・スウィート]]、フランスの[[ポール・パシー]]、デンマークの[[オットー・イェスペルセン]]らがフィーエトルの主張に賛同した。 |
イギリスの[[ヘンリー・スウィート]]、フランスの[[ポール・パシー]]、デンマークの[[オットー・イェスペルセン]]らがフィーエトルの主張に賛同した。 |
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当時のドイツは[[比較言語学]]の最盛期であり、言語学は歴史的研究を主にしていた。現代の口語を中心とするフィーエトルはその正反対の方向へ進むものだった<ref>Collins & Mees (1998) p.475</ref>。 |
当時のドイツは[[比較言語学]]の最盛期であり、言語学は歴史的研究を主にしていた。現代の口語を中心とするフィーエトルはその正反対の方向へ進むものだった<ref>Collins & Mees (1998) p.475</ref>。 |
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1884年にマールブルク大学の英語文献学の教授になった。同年出版した音声学の概説書『{{lang|de|Elemente der Phonetik}}』は学問的にも優れた著作で、多くの版を重ねた。ドイツ語の発音をまとめた実用的な『{{lang|de|Die Aussprache des Schriftdeutschen}}』も1925年までに11版を重ねた。 |
1884年にマールブルク大学の英語[[文献学]]の教授になった。同年出版した音声学の概説書『{{lang|de|Elemente der Phonetik}}』は学問的にも優れた著作で、多くの版を重ねた。ドイツ語の発音をまとめた実用的な『{{lang|de|Die Aussprache des Schriftdeutschen}}』も1925年までに11版を重ねた。 |
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1886年にパシーが新しい言語教育のための「Phonetic Teachers' Association」(後に[[国際音声学会]]に発展)を作ると、初期から参加し、1888年にはパシーにかわって会長になった。1917年までその職にあった<ref>{{cite web |
1886年にパシーが新しい言語教育のための「Phonetic Teachers' Association」(後に[[国際音声学会]]に発展)を作ると、初期から参加し、1888年にはパシーにかわって会長になった。1917年までその職にあった<ref>{{cite web |
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2014年11月17日 (月) 06:18時点における版
ヴィルヘルム・フィーエトル(独: Wilhelm Viëtor、1850年12月25日 - 1918年9月22日)は、ドイツの言語教育者、音声学者。外国語教育改革運動の中心人物。言語教育は音声を主とすべきであると主張した。また、そのために音声学の研究も行った。フィーエトルらの新しい教育法は直接教授法と呼ばれた。
生涯
(主に外部リンクのウォーリック大学のページによる)
フィーエトルはプロテスタントの牧師の子としてナッサウに生まれ、はじめは神学を学んだ。1872年から翌年にかけてイギリスで短期間ドイツ語を教えたあと、1874年にマールブルク大学に入学して英語を学んだ。1876年からデュッセルドルフで英語とフランス語を教えつつ、言語教育に関する論文を書いた。当時の言語教育は古典文学の読解や、例文の翻訳による方法(de:Grammatik-Übersetzungsmethode)が主だったが、フィーエトルは文字ではなく口による話し言葉の教育の重要性を訴えた。
1882年に「Quousque Tandem」[1]の偽名で言語教育の刷新を訴えた小冊子『Der Sprachunterricht muss umkehren!』は従来の教育を激しい言葉で批判して、大きな反響を呼んだ。フィーエトルの教育方法は後に直接教授法と呼ばれるようになった。
イギリスのヘンリー・スウィート、フランスのポール・パシー、デンマークのオットー・イェスペルセンらがフィーエトルの主張に賛同した。
当時のドイツは比較言語学の最盛期であり、言語学は歴史的研究を主にしていた。現代の口語を中心とするフィーエトルはその正反対の方向へ進むものだった[2]。
1884年にマールブルク大学の英語文献学の教授になった。同年出版した音声学の概説書『Elemente der Phonetik』は学問的にも優れた著作で、多くの版を重ねた。ドイツ語の発音をまとめた実用的な『Die Aussprache des Schriftdeutschen』も1925年までに11版を重ねた。
1886年にパシーが新しい言語教育のための「Phonetic Teachers' Association」(後に国際音声学会に発展)を作ると、初期から参加し、1888年にはパシーにかわって会長になった。1917年までその職にあった[3]。
同年、「Phonetische Studien」という音声学の雑誌を創刊した。1894年にはより有名な「Die neuen Sprachen」を発行した[4]。
フィーエトルは教育者育成のための夏季講座をマールブルク大学内に開いた。
著作
- Englische Schulgrammatik. (1898) [1879]
- 英語教育用の文法書。ヘンリー・スウィートの影響を受け、音声学を教育の基礎においた点で革新的だった。
- Quousque Tandem (1886) [1882]. Der Sprachunterricht muss umkehren!: Ein Beitrag zur Überbürdungsfrage. Verlag von Gebr. Henninger
- 教育改革の口火を切った冊子。第二版では本当の著者名が書いてある。
- Elemente der Phonetik und Orthoepie des deutschen, englischen und französischen. Verlag von Gebr. Henninger. (1884)
- 音声学概説。
- Die Aussprache des Schriftdeutschen. Leipzig: O. R. Reisland. (1905) [1885]
- ドイツ語の発音。簡単な発音辞典と例文集つき(第6版)
- Deutsches Aussprachewörterbuch. Leipzig: O. R. Reisland. (1921) [1912]
- ドイツ語発音辞典(第3版)。Collins & Mees (1998) p.123 によると、ダニエル・ジョーンズの英語発音辞典はこの本の影響を受けたかも知れないという。
脚注
参考文献
- Collins, Beverley; Mees, Inger M. (1998). The Real Professor Higgins: The Life and Career of Daniel Jones. Mouton de Gruyter. ISBN 3110151243
外部リンク
- “Wilhelm Viëtor's life and career”. University of Warwick. 2014年11月14日閲覧。