「米田町 (加古川市)」の版間の差分

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'''米田町船頭'''は、[[1889年]]([[明治]]22年)まで印南郡船頭村であった。第12代[[加古川城|加古川城主]][[糟谷武則]]の弟である糟谷武政が、[[大阪夏の陣]]の後、帰農した。当時加古川は、上流の益田で二つの流れに別れており、当地はその流れの間に位置していた。住民は主に、加古川を渡る旅人のための渡船業を営んでいた。[[江戸時代]]の治水事業により西側の流れがせき止められ、川跡は、開墾されたが、加古川に近い事から度々水害に悩まされ、農地開発は進まなかった{{Sfn|兵庫県印南郡|1916|p=19}}。</br>
'''米田町平津'''は、1889年(明治22年)まで印南郡平津村であった。名の由来は、その地にあった荘園の名による{{Sfn|兵庫県私立印南郡教育会|1906|p=19}}。[[1664年]]([[寛文]]4年)、福正寺が創建された{{Sfn|兵庫県印南郡|1916|p=147}}。</br>
1889年(明治22年)に印南郡米田村の一部となった。[[1918年]]([[大正]]7年)から加古川河川改修工事が開始され、1933年(昭和8年)に竣工した<ref>{{Cite web |last= |first= |author= 国土交通省 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所|authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.kkr.mlit.go.jp/himeji/outline/river/database/kako_scene/105.html|title= 加古川水の新百景 No.105 加古川改修記念碑|format= |doi= |work= |publisher= |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate=2014-01-03 |quote= |ref=}}</ref>。[[1919年]](大正8年)に[[日本毛織]]印南工場が操業を開始し<ref>{{Cite web |last= |first= |author= ニッケグループ|authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.nikke.co.jp/corporate/history/index2.html|title= ニッケグループ沿革|format= |doi= |work= |publisher= |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate=2014-01-01 |quote= |ref=}}</ref>、工場・社宅・休養施設が次々に建設された。[[1950年]]([[昭和]]25年)10月6日、国民健康保険直営宝殿病院(現 [[加古川西市民病院]])が開院した。[[1956年]](昭和31年)9月18日に兵庫県合併審議会の裁定の結果、米田町の船頭・平津地区は、加古川市に編入された{{Sfn|加古川市誌編集委員会|2000|pp=861-865}}{{Sfn|加古川市誌編集委員会|2000|pp=873-875}}。[[1980年]](昭和55年)4月1日、加古川夜間急病病院が、[[1995年]]([[平成]]7年)4月、 加古川歯科保健センターに設立された。[[2006年]](平成18年)には[[ロックタウン加古川]]が開業した<ref>{{Cite report |author= 日本毛織株式会社|authorlink= |coauthors= |date= |title= 2006ニッケレポート|url= http://www.nikke.co.jp/ir/enterprise/pdf/176jigyohoukoku.pdf|publisher= |page= 5|docket= |accessdate= 2014-01-11|quote= }}</ref>。
 
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