「島津綱久」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''島津 綱久'''(しまづ つなひさ、[[1632年]][[5月19日]]([[寛永]]9年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[1673年]][[4月6日]]([[延宝]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]))は、[[薩摩藩]]の世嗣。
'''島津 綱久'''(しまづ つなひさ、[[1632年]][[5月19日]]([[寛永]]9年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[1673年]][[4月6日]]([[延宝]]元年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]))は、[[薩摩藩]]の世嗣。


第2代藩主・[[島津光久]]の長男。母は伊勢貞豊の娘(曹源院殿、[[薩摩藩]]家老[[伊勢貞昌]]の孫)。正室は[[伊予松山藩]]第2代藩主・久松[[松平定頼]]の娘(眞修院殿)。[[側室]]は記録に残っていない。子に[[島津綱貴]](長男、第3代藩主)、[[島津久季]](三男、[[加治木家|加治木島津家]]へ養子)、娘([[酒井忠隆]]正室)、娘([[鳥居忠英]]正室)ら。幼名は虎寿丸、又三郎。初名は'''久平'''(ひさひら)。後に将軍[[徳川家綱]]より[[偏諱]]を賜って'''綱久'''と称する
第2代藩主・[[島津光久]]の長男。母は伊勢貞豊の娘(曹源院殿、[[薩摩藩]]家老[[伊勢貞昌]]の孫)。正室は[[伊予松山藩]]第2代藩主・久松[[松平定頼]]の娘(眞修院殿)。[[側室]]は記録に残っていない。子に[[島津綱貴]](長男、第3代藩主)、[[島津久季]](三男、[[加治木家|加治木島津家]]へ養子)、娘([[酒井忠隆]]正室)、娘([[鳥居忠英]]正室)ら。幼名は虎寿丸、又三郎。初名は'''久平'''(ひさひら)。
 慶安4年(1651年)、将軍[[徳川家綱]]より、「松平」の名字と、「綱」の一字(偏諱)を賜って'''松平薩摩守綱久'''と称する(村川浩平「島津氏への松平氏下賜」)。


寛永9年(1632年)4月、島津光久の長男として生まれ、その後継者と目されていたが、延宝元年(1673年)2月、父に先立って42歳で早世した。代わって長男・綱貴が祖父・光久の後継者となって[[家督]]を継いだ。法名は泰清院殿観山良無大居士。<!-- 小説などでは幕府隠密に毒殺されたとされることもあるが、真偽は不明である。 -->
寛永9年(1632年)4月、島津光久の長男として生まれ、その後継者と目されていたが、延宝元年(1673年)2月、父に先立って42歳で早世した。代わって長男・綱貴が祖父・光久の後継者となって[[家督]]を継いだ。法名は泰清院殿観山良無大居士。<!-- 小説などでは幕府隠密に毒殺されたとされることもあるが、真偽は不明である。 -->

2012年11月10日 (土) 08:07時点における版

島津 綱久(しまづ つなひさ、1632年5月19日寛永9年4月1日) - 1673年4月6日延宝元年2月19日))は、薩摩藩の世嗣。

第2代藩主・島津光久の長男。母は伊勢貞豊の娘(曹源院殿、薩摩藩家老伊勢貞昌の孫)。正室は伊予松山藩第2代藩主・久松松平定頼の娘(眞修院殿)。側室は記録に残っていない。子に島津綱貴(長男、第3代藩主)、島津久季(三男、加治木島津家へ養子)、娘(酒井忠隆正室)、娘(鳥居忠英正室)ら。幼名は虎寿丸、又三郎。初名は久平(ひさひら)。  慶安4年(1651年)、将軍徳川家綱より、「松平」の名字と、「綱」の一字(偏諱)を賜って松平薩摩守綱久と称する(村川浩平「島津氏への松平氏下賜」)。

寛永9年(1632年)4月、島津光久の長男として生まれ、その後継者と目されていたが、延宝元年(1673年)2月、父に先立って42歳で早世した。代わって長男・綱貴が祖父・光久の後継者となって家督を継いだ。法名は泰清院殿観山良無大居士。

人物、逸話

  • 剣術示現流宗家師範家の東郷氏と関係があり、東郷重利の子の東郷実満が誕生した時には祝福し、実満を見たがっていたが、叶うことなく綱久は死去したという(示現流聞書喫緊録付録系図)。