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雄邁で文武の才があり、土佐藩士・[[外池武左衛門]]に従って日置流の弓術を、[[西川楠弥太]]に馬術と刀槍の術とを習い、[[土方謙吉]]に砲学を学んだ。文学は初め同郷・[[遠近鶴鳴]]に学び、壯年になると筑前・[[亀井鐵太郞]]の門に入る。漢学に長じ、詩文をよくすることをもって聞こえた。
雄邁で文武の才があり、土佐藩士・[[外池武左衛門]]に従って日置流の弓術を、[[西川楠弥太]]に馬術と刀槍の術とを習い、[[土方謙吉]]に砲学を学んだ。文学は初め同郷・[[遠近鶴鳴]]に学び、壯年になると筑前・[[亀井鐵太郞]]の門に入る。漢学に長じ、詩文をよくすることをもって聞こえた。


[[文久]]・[[元治]]の頃、[[樋口真吉]]に従って[[幡多勤王党]]を組織して国事に奔走、[[慶応]]3年([[1867年]])[[薩土密約]]の締結にも参画した。
[[文久]]・[[元治]]の頃、[[樋口真吉]]に従って[[幡多勤王党]]を組織して国事に奔走、[[慶応]]3年([[1867年]])[[京都]]の[[小松帯刀]]邸において、[[薩摩]]の[[西郷隆盛]]と[[土佐]]の[[板垣退助|乾(板垣)退助]]の間で交わされた「薩土討幕の密約([[薩土密約]])」の締結にも参画した。


[[戊辰戦争]]には迅衝隊半隊長として出征し、抜擢されて扈従格に進む。小監察となった。また、土佐藩士・[[谷干城]]らとともに[[近藤勇]]の処刑にあたった。
[[戊辰戦争]]には[[迅衝隊]]半隊長として出征し、抜擢されて扈従格に進む。小監察となった。また、土佐藩士・[[谷干城]]らとともに[[近藤勇]]の処刑にあたった。


=== 明治 ===
=== 明治 ===
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 長女・[[熊子]]
 長女・[[熊子]]


る。
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== 関連項目 ==
* 「薩土討幕の密約([[薩土密約]])」
* [[迅衝隊]]
* [[神風連の乱]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2012年8月19日 (日) 07:36時点における版

安岡 良亮(やすおか りょうすけ、文政8年4月1825年) - 1876年明治9年)10月27日)は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩郷士明治時代前期の官僚、白川県令熊本県令である。初名は良徴。字は士徴。通称は亮太郎。号は十洲。

経歴

幕末

文政8年(1825年)4月、土佐藩中村の郷士・安岡故五郎の長子として誕生。

雄邁で文武の才があり、土佐藩士・外池武左衛門に従って日置流の弓術を、西川楠弥太に馬術と刀槍の術とを習い、土方謙吉に砲学を学んだ。文学は初め同郷・遠近鶴鳴に学び、壯年になると筑前・亀井鐵太郞の門に入る。漢学に長じ、詩文をよくすることをもって聞こえた。

文久元治の頃、樋口真吉に従って幡多勤王党を組織して国事に奔走、慶応3年(1867年京都小松帯刀邸において、薩摩西郷隆盛土佐乾(板垣)退助の間で交わされた「薩土討幕の密約(薩土密約)」の締結にも参画した。

戊辰戦争には迅衝隊半隊長として出征し、抜擢されて扈従格に進む。小監察となった。また、土佐藩士・谷干城らとともに近藤勇の処刑にあたった。

明治

新政府に仕え、明治2年1869年)弾正少忠、弾正大忠、明治3年1870年)集議員判官、明治4年1871年)民部少丞、8月以降、高崎県大参事、群馬県権参事、群馬県参事、渡会県参事を歴任。

明治6年(1873年)、白川県権令に就任して熊本に着任、明治8年(1875年)には白川県令、明治9年(1876年)熊本県令になる。

このとき太田黒伴雄の敬神党(神風連)の人々の人心調和に努め、佐賀の乱に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良政を施したが、明治9年(1876年10月24日神風連が挙兵(神風連の乱)、自宅で参事・警部ら4人と対策会議中に神風連・吉村義節らの襲撃にあって重傷をおった。このときは裏の畑に隠れて助かったが、3日後に鎮台病院で死去した。

年譜

家族

妻との間に

 長男・安岡雄吉    三男・安岡秀夫(明治4年生)

熊本での愛妾・お喜美との間に

 長女・熊子

がいる。

関連項目

参考文献

  • 鈴木 喬/監修『神風連資料館収蔵品図録』(神風連資料館、1987年)
  • 別冊歴史読本『サムライ古写真帖―武士道に生きた男たちの肖像』(新人物往来社、2004年)
  • 尾崎吸江/著『仁尾惟茂先生傳』(仁尾翁頌徳事業実行委員会、1933年)
公職
先代
安岡良亮
白川県令
熊本県令 熊本県の旗
官選初代:1876 - 1876
次代
富岡敬明