安岡良亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安岡 良亮
安岡 良亮
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代初期
生誕 文政8年4月1825年
死没 1876年明治9年)10月27日
改名 初名:良徴、号:十洲
別名 字:士徴、通称:亮太郎
幕府 江戸幕府
土佐藩
父母 父:安岡故五郎
安岡婦美(安岡盛治娘)
雄吉、次男、3男:秀夫(明治4年生)、長女:熊子(熊本での愛妾・お喜美との間の子)
テンプレートを表示

安岡 良亮(やすおか りょうすけ、1825年文政8年) - 1876年明治9年))は、江戸時代後期(幕末)の土佐藩郷士迅衝隊士明治時代前期の官僚、白川県令熊本県令である。戊辰戦争の際、近藤勇を捕縛し斬首した功がある。神風連の乱で殺害された。大東亜戦争の際、終戦詔勅の起草文を刪修した陽明学者安岡正篤の曾祖父にあたる。

経歴[編集]

幕末[編集]

薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)

文政8年(1825年)4月、土佐藩中村の郷士・安岡故五郎の長子として誕生。

雄邁で文武の才があり、土佐藩士・外池武左衛門に従って日置流の弓術を、西川楠弥太に馬術と刀槍の術とを習い、土方謙吉に砲学を学んだ。文学は初め同郷・遠近鶴鳴に学び、壯年になると筑前・亀井鐵太郞の門に入る。漢学に長じ、詩文をよくすることをもって聞こえた。

文久元治の頃、樋口真吉に従って幡多勤王党を組織して国事に奔走、慶応3年(1867年京都小松帯刀邸において、薩摩西郷隆盛土佐乾(板垣)退助の間で交わされた「薩土討幕の密約(薩土密約)」の締結にも参画した。

戊辰戦争には迅衝隊半隊長として出征し、抜擢されて扈従格に進む。小監察となった。また、土佐藩士・谷干城らとともに近藤勇の処刑にあたった。

明治[編集]

新政府に仕え、明治2年1869年弾正少忠、弾正大忠、明治3年1870年)集議員判官、明治4年1871年)民部少丞、8月以降、高崎県大参事群馬県権参事、群馬県参事、渡会県参事を歴任。

明治6年(1873年)、白川県権令に就任して熊本(現 熊本市二本木)に着任、明治8年(1875年)には白川県令、明治9年(1876年)熊本県令になる。

このとき太田黒伴雄の敬神党(神風連)の人々の人心調和に努め、佐賀の乱に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良政を施したが、明治9年(1876年10月24日神風連が挙兵(神風連の乱)、自宅で参事・警部ら4人と対策会議中に神風連・吉村義節らの襲撃にあって重傷をおった。このときは裏の畑に隠れて助かったが、3日後に鎮台病院で死去した。

年譜[編集]

家系[編集]

【安岡家歴代】

参考文献[編集]

  • 鈴木 喬/監修『神風連資料館収蔵品図録』(神風連資料館、1987年)
  • 別冊歴史読本『サムライ古写真帖―武士道に生きた男たちの肖像』(新人物往来社、2004年)
  • 尾崎吸江/著『仁尾惟茂先生傳』(仁尾翁頌徳事業実行委員会、1933年)

関連項目[編集]

  • 尾崎行雄 - 行雄の父・尾崎彦四郎(行正)は幕末からの安岡の部下で、生涯付き従った。