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'''山海関'''(さんかいかん)は[[中華人民共和国]][[河北省]]と[[遼寧省]]の省境に位置する[[万里の長城]]の東部に位置[[要塞]]。かつて永らく「長城の東端」とされてきたが、2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局により遼寧省虎山が東端と訂正された。[[明|明代]]は北方民族である[[女真]]の侵入に対する防衛の要とされた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す。
'''山海関'''(さんかいかん)は、[[万里の長城]]の一部を構成する[[要塞]]。[[中華人民共和国]][[河北省]]と[[遼寧省]]の省境[[渤海]]に会する位置にある。名のとおり、背後の山(燕山)が渤海に迫る山と海のあいだの狭隘な要地にあり、山海関から延びた城壁が海岸ら突き出た「老龍頭」が永らく「長城の東端」とされてきたが、2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局により遼寧省虎山が東端と訂正された。[[明|明代]]は北方民族である[[女真]]の侵入に対する防衛の要とされた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す。


山海関を越えて[[中原]]に向かうことを「入関」あるいは「関内に入る」と称し、満洲を「関外」もしくは「関東」という。かつて日本の租借地であった[[関東州]]や、そこに駐留した[[関東軍]]の名称もこれに由来する。
満州方面から山海関を越えて[[中原]]に向かうことを「入関」あるいは「関内に入る」と称し、満洲を「関外」もしくは「関東」という。かつて日本の租借地であった[[関東州]]や、そこに駐留した[[関東軍]]の名称もこれに由来する。


== 歴史 ==
== 歴史 ==

2012年7月14日 (土) 19:02時点における版

山海関
山海関
各種表記
繁体字 山海關
簡体字 山海关
拼音 Shānhăiguān
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山海関(さんかいかん)は、万里の長城の一部を構成する要塞中華人民共和国河北省遼寧省の省境が渤海に会する位置にある。名のとおり、背後の山(燕山)が渤海に迫る山と海のあいだの狭隘な要地にあり、山海関から延びた城壁が海岸から突き出た「老龍頭」が永らく「長城の東端」とされてきたが、2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局により遼寧省虎山が東端と訂正された。明代は北方民族である女真の侵入に対する防衛の要とされた。「天下第一関」と称されるが、これは山海関の著名性を表したものではなく、東から数えて最初の関所であったことを示す。

満州方面から山海関を越えて中原に向かうことを「入関」あるいは「関内に入る」と称し、満洲を「関外」もしくは「関東」という。かつて日本の租借地であった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する。

歴史

漢代臨楡関と称され、明代に山海衛が設置された後に山海関と称されるようになった。明末はヌルハチホンタイジによる満洲族の侵入を阻止し、守将であった呉三桂清朝に帰順するまで不落の要塞だった。清代以降は行政区画名は臨楡県と改称されたが、山海関の名称がそれ以降も使用され現在に至っている。

1931年柳条湖事件満洲事変勃発)、1932年満洲国建国と満洲地区の政治情勢が変化する中、1933年(昭和8)1月に関東軍は山海関を占領、これにより日本軍による北京攻略の東部回廊が確保され、2月に熱河作戦が遂行され、制圧後の熱河省は満洲国に併合された。