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2010年11月27日 (土) 13:16時点における版
信濃栗田氏
信濃栗田氏は、北信地方の武家氏族のひとつ。河内源氏、源為國の子寛覚が顕光寺別当となり水内郡栗田村に住居して栗田氏となった。(他に信濃村上氏の庶流とする説もある。)鎌倉時代から室町時代までは善光寺別当職をも世襲し、有力国人となる。
- 応安2年(1369年) 信濃国守護でもあった関東管領上杉朝房が善光寺(横山城?)に向けて出陣した。そして春山城から氷鉋(長野市川中島中氷鉋)、平柴(長野市安茂里平柴)へと陣を移して転戦したが栗田氏も従わないため攻められた。栗田氏は上杉軍を迎え撃って西木戸口での合戦となったが制圧された。
- 文明9年(1477年)8月に栗田氏は隣接する領主の漆田秀豊の館(長野駅付近)を攻めて漆田氏を打ち破ったとされている。
戦国時代初期には村上氏に従っていたが、川中島の戦いでは武田方(善光寺の里栗田)・上杉方(戸隠神社の山栗田)に分裂した。
- 天文22年(1553年)、宗家の村上義清が武田信玄に敗れて越後に逃れると栗田寛安は武田方に下る。そして武田方に属す60騎の足軽大将となっている。
- 弘治元年(1555年)、第二次川中島の戦いで栗田氏は武田方について旭山城にこもり、横山城の上杉謙信を牽制した。このため上杉方も葛山城を築いて対抗したとされる。今川義元の仲介で和睦した後、栗田氏は善光寺本尊を持ち出し、甲斐善光寺へ移った。そのため栗田城は破却された。
信濃栗田氏関連人物
- 栗田寺別当大法師範覚 治承4年(1180年)9月7日に信濃国市原(現在の長野市若里、市村神社南面の犀川渡河地域と考えられている)付近で市原合戦が行われた。平家に味方する信濃の豪族・笠原平五頼直が源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏方(信濃源氏の名門井上氏の一族)の村山七郎義直や栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間での戦闘だが決着がつかなかった。この後木曽方が参戦し笠原氏方には越後から城氏が大軍を率いて加勢に駆けつけて横田河原の戦いに発展した。
- 栗田寛安(くりた ひろやす、大永5年(1525年)- 慶長4年1月5日(1599年1月31日))里栗田ー武田氏に所属
- 栗田寛久(くりた ひろひさ、天文20年(1551年) - 天正9年3月22日(1581年4月25日))寛安の子ー高天神城で戦死
- 栗田国時(くりた くにとき、生年不詳 - 慶長5年(1600年))