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'''十一代目 片岡 仁左衛門'''(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、[[安政]]4年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1858年]][[1月18日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[10月16日]])は[[歌舞伎役者]]。明治から昭和初期にかけての名優で主に[[立役]]。屋号松屋、俳名我麿。
'''十一代目 片岡 仁左衛門'''(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、[[安政]]4年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1858年]][[1月18日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[10月16日]])は[[歌舞伎役者]]。明治から昭和初期にかけての名優で主に[[立役]]。屋号は[[]]、俳名麿。


実子に[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]、門人に二代目[[河原崎権十郎]]、映画界に転じた[[阪東妻三郎]]、[[片岡千恵蔵]]がいる。
実子に[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]、門人に二代目[[河原崎権十郎]]、映画界に転じた[[阪東妻三郎]]、[[片岡千恵蔵]]がいる。
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==来歴・人物==
==来歴・人物==


{{和暦|1858}}、[[片岡仁左衛門 (8代目)|八代目片岡仁左衛門]]の四男として江戸猿若町に生まれる。
{{和暦|1858}}、[[片岡仁左衛門 (8代目)|八代目片岡仁左衛門]]の四男として江戸[[猿若町]]に生まれる。


{{和暦|1861}}、3歳。 '''片岡秀太郎'''の名で初舞台。
{{和暦|1861}}、<!--3歳(此れは満年齢?戦前はみな数えで歳を言ったので、却って混乱を招くことになるかと)。 -->[[片岡秀太郎]]の名で初舞台。


{{和暦|1862}}、4歳。父、および兄・我童(のち[[片岡仁左衛門 (10代目)|代目仁左衛門]]とともに大へ移る。
{{和暦|1862}}、<!--4歳。-->父、および兄・[[片岡仁左衛門 (10代目)|代目片岡我童]]とともに大へ移る。


{{和暦|1863}}、5歳。父去。「[[ちんこ芝居]]子供芝居)」で修業を続ける。
{{和暦|1863}}、<!--5歳。-->が死去。<!--「[[ちんこ芝居]]」-->子供芝居で修業を続ける。


{{和暦|1872}}、14歳。大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められる。
{{和暦|1872}}、<!--14歳。-->大阪[[竹田の芝居]]などに出演、その才能が認められる。


{{和暦|1874}}、16歳。東京へ兄・我童とともに戻る。
{{和暦|1874}}、<!--16歳。東京へ兄・我童とともに戻る。


{{和暦|1876}}、18歳。3月に、中村座で[[片岡我當|三代目片岡我当]]襲名。その後東京と大阪を往復しながら活躍。
{{和暦|1876}}、<!--18歳。-->3月[[中村座]]三代目[[片岡我當]]襲名。その後東京と大阪を往復しながら活躍。


{{和暦|1895}}、37歳。兄の死後、松屋の芸の後継者として認められる。
{{和暦|1895}}、<!--37歳。-->兄の死後、松屋の芸の後継者として認められる。


{{和暦|1907}}、49歳。大阪角座で「'''十一代目片岡仁左衛門'''」を襲名する。
{{和暦|1907}}、<!--49歳。-->大阪[[角座]]で十一代目[[片岡仁左衛門]]を襲名する。


その後は東京に腰を据えて、歌舞伎座の座頭となり、[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目中村歌右衛門]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]とともに「[[三衛門]]」として君臨。「[[團菊左]]」亡き後の東京歌舞伎を支えた。
その後は東京に腰を据えて、歌舞伎座の座頭となり、[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目中村歌右衛門]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]とともに「[[三衛門]]」と謳われ、「[[團菊左]]」亡き後の東京歌舞伎を支えた。


の上京に関しては、当時歌右衛門名を巡って大阪の[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]と東京の[[中村芝翫]]との間に争いが起こり、仁左衛門芝翫を支持したために鴈治郎係者反発って居辛くなったという説がある。
十一代目の上京は、当時「五代目中村歌右衛門」のを巡って大阪の[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]と東京の[[中村歌右衛門 (5代目)|四代目中村芝翫]]との間に争いが起こり、仁左衛門芝翫を支持したために西では飛ぶ鳥を落とすほど人気た鴈治郎の支持者に囲まれ日々が日増しに居辛くなったからだといわれている。


{{和暦|1912}}、55歳。嗣子千代之助([[片岡仁左衛門 (13代目)|十三目仁左衛門]]のために私財を投じて片岡少年俳優養成所を設立。後継者を育成し、若手俳優への芸の伝承にも尽くした。 
{{和暦|1912}}、<!--55歳。-->長男の[[片岡仁左衛門 (13代目)|片岡千之助]]のためにもなるからと、私財を投じて片岡少年俳優養成所を設立。後継者を育成し、若手俳優への芸の伝承にも尽くした。 


同年、[[坪内逍遥]]作『桐一葉』をはじめ、力を入れ、『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演。
同年、[[坪内逍遥]]作『[[桐一葉]]』を初演。以後[[歌舞伎]]に力を入れ、『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演した


人形浄瑠璃のみの狂言であった大文字屋」「鰻谷を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る才能秀でていた。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のライバルとして張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台に競演プライベートの面でも仲が良かったとる。
また従前[[人形浄瑠璃]]においてのみの演目だった大文字屋』や『鰻谷を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る独創性長けていた。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のしのぎを削り合う相手として張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台を共にし、公私にわたって仲が良かったと書いている。


天才肌の名人であったが、個性が強く、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]や鴈治郎と衝突をくり返すトラブルメーカーであった。團十郎の態度がいらずと團十郎の前に立って傘を開いて見得をして関係者を怒らせる。気に入らぬこがあれば台本を持ってきて舞台にる。落ちていゴミをひらいながら演技り、『熊谷陣屋』の弥陀六で、上手から刀を投げて舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っているので下手から出て芝居をぶちこわす。『国姓爺・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の高さが気に入らないので化粧を落として帰宅する、などのエピソードが無数残って
天才肌の名人ったが、個性が強く、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]や鴈治郎と衝突をくり返す問題児あった。團十郎の態度が團十郎の前傘を開いて[[助六]]の見得を(『助六』は市川宗家の[[お家芸]])相方の口跡が気に入らない、嫌みに台本を手に舞台に上がる。舞台に不要な物でも落ちていようものなら、これ見よがしにゴミをしながら舞台つとめ『熊谷陣屋』の弥陀六で、上手から刀を投げて舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っていると言ってはわざわざ下手から出て芝居をぶちこわす。『[[国姓爺合戦]]・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の欄干の高さが気に入らないと言っては化粧を落として帰宅する。こうした逸話は枚挙に暇がない。


[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]が関西で芝居を行った際、上方の主だった役者が團十郎に同座する中、仁左衛門だけは同座せず、一人、無人芝居に加わり、劇場の前で「大敵とて恐るるなかれ。小敵とて侮るなかれ」と大書した幟を立てて、士気を鼓舞するなど、負けず嫌いな面もあれば、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するなどの義侠心に富む面もあり、父に死に別れた[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]や七代目村宗十郎に目をかけ名優への道を歩ませた。
<!--[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]が関西で芝居を行った際、上方の主だった役者が團十郎に同座する中、仁左衛門だけは同座せず、一人、無人芝居に加わり、劇場の前で「大敵とて恐るるなかれ。小敵とて侮るなかれ」と大書した幟を立てて、士気を鼓舞するなど、負けず嫌いな面もあれば、-->そうした反面、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するという義侠心に富む面もあり、父に死に別れた[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]や[[澤村宗十郎 (7代目)|七代目村宗十郎]]に特に目をかけて大成させたのも十一代目の功績である


当り役は、丸本時代物では、『[[仮名手本忠臣蔵]]』九段目の本蔵、『[[菅原伝授手習鑑]]』「道明寺」の[[菅丞相]]並びに「寺子屋」の松王丸、『[[妹背山女庭訓]]』の大判事、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の弥陀六、『伊賀越道中双六』「沼津」の平作。和事、辛抱立役では『吉田屋』の伊左衛門、『近頃河原の達引』「堀川」の与次郎、「鰻谷」の八郎兵衛、「帯屋」の長右衛門、「吃又」の又平。新作では『桐一葉』の[[片桐且元]]、『桜時雨』の紹由、『名工柿右衛門』の柿右衛門。また『伽羅先代萩』の政岡などの女役こなした。
当り役は、丸本時代物では、『[[仮名手本忠臣蔵]]』九段目の本蔵、『[[菅原伝授手習鑑]]』「道明寺」の菅丞相「寺子屋」の松王丸、『[[妹背山女庭訓]]』の大判事、『[[一谷嫩軍記]]』「熊谷陣屋」の弥陀六、『[[伊賀越道中双六]]』「沼津」の平作。和事、辛抱立役では『吉田屋』の伊左衛門、『近頃河原の達引』「堀川」の与次郎、「鰻谷」の八郎兵衛、「帯屋」の長右衛門、「吃又」の又平。新作では『[[桐一葉]]』の[[片桐且元]]、『桜時雨』の紹由、『名工柿右衛門』の柿右衛門。『[[伽羅先代萩]]』の政岡も当たり役だった。


どの役も至芸と呼ばれるもので、文字通り一代の名優であった。[[三宅周太郎]]の片岡仁左衛門の中に、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]のとして、「團菊没後の本当の名人は十一代目仁左衛門だよ」と説明している。[[岡本綺堂]]は妹背山の大判事を評して「いざ段切れのノリになって『倅清舟承れ』以下となると、そのめりはりのうまいいいノドは歌舞伎座の隅々迄鳴り響いた」(大正6年3月)と絶賛している。
どの役も至芸と呼ばれるもので、文字通り一代の名優った。[[三宅周太郎]]の片岡仁左衛門の中に、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]のことばとして、「團菊没後の本当の名人は十一代目仁左衛門だよ」と記されている。[[岡本綺堂]]は妹背山の大判事を評して「いざ段切れのノリになって『倅清舟承れ』以下となると、そのめりはりのうまいいいノドは歌舞伎座の隅々迄鳴り響いた」(大正6年3月)と絶賛している。


<blockquote>'''「あれは父のなくなる前の年でしたか、父が近々引退するらしいと言ううわさがたったことがありました。それを大阪で聞いたおじさん(初代鴈治郎)は、(中略)すぐその足で明舟町の家へ来られ『引退するてほんまか。引退なんかしたらあかん。体もよわるし、今からやめてどうするのや。もっともっと働いてくれな、どもならん』とまるで怒っているような語気で父に説いていられた姿が、今もまぶたに残っています。『せえへんせえへん』と笑いながら答える父に、やっと安どしたように四方山の話をして、定宿の築地の細川に帰られたのは十時近かったと思います」'''(十三代目片岡仁左衛門著 『仁左衛門楽我記』 昭和57年 三月書房)
:「あれは父のなくなる前の年でしたか、父が近々引退するらしいと言ううわさがたったことがありました。それを大阪で聞いたおじさん(初代鴈治郎)は、(中略)すぐその足で明舟町の家へ来られ『引退するてほんまか。引退なんかしたらあかん。体もよわるし、今からやめてどうするのや。もっともっと働いてくれな、どもならん』とまるで怒っているような語気で父に説いていられた姿が、今もまぶたに残っています。『せえへんせえへん』と笑いながら答える父に、やっと安どしたように四方山の話をして、定宿の築地の細川に帰られたのは十時近かったと思います」(十三代目片岡仁左衛門著 『仁左衛門楽我記』 昭和57年 三月書房)
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{{和暦|1934}}、甥の四代目片岡我童([[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡仁左衛門]])の子、五代目片岡芦燕([[片岡我童 (13代目)|十三代目片岡我童]]、死後十四代目片岡仁左衛門追贈)襲名披露出演中倒れ、大阪で死去。76歳。 墓所は[[池上本門寺]](東京都)。
{{和暦|1934}}、甥の四代目片岡我童([[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡仁左衛門]])の子、五代目片岡芦燕([[片岡我童 (13代目)|十三代目片岡我童]]、死後十四代目片岡仁左衛門追贈)襲名披露出演中倒れ、大阪で死去。76歳。墓所は[[池上本門寺]](東京都)。


なお、得意芸を選び'''[[片岡十二集]]'''にまとめている。
得意芸を選び[[片岡十二集]]にまとめている。<!--
*「石田局」「赤垣源蔵」「菅公」「清玄庵室」「吃又」「和気清麿」「木村長門守血判取」「馬切り」「一条大蔵卿」「堀川」「大文字屋」「鰻谷」
*「石田局」「赤垣源蔵」「菅公」「清玄庵室」「吃又」「和気清麿」「木村長門守血判取」「馬切り」「一条大蔵卿」「堀川」「大文字屋」「鰻谷」


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|次代名 = [[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡仁左衛門]]
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2009年9月20日 (日) 15:22時点における版

十一代目 片岡 仁左衛門(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、安政4年12月4日1858年1月18日) - 昭和9年(1934年10月16日)は歌舞伎役者。明治から昭和初期にかけての名優で主に立役。屋号は松嶋屋、俳名に我當、萬麿。

実子に十三代目片岡仁左衛門、門人に二代目河原崎権十郎、映画界に転じた阪東妻三郎片岡千恵蔵がいる。

来歴・人物

1858年(安政5年)、八代目片岡仁左衛門の四男として江戸猿若町に生まれる。

1861年(文久元年)、片岡秀太郎の名で初舞台。

1862年(文久2年)、父、および兄・三代目片岡我童とともに大坂へ移る。

1863年(文久3年)、父が死去。子供芝居で修業を続ける。

1872年(明治5年)、大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められる。

1874年(明治7年)、3月中村座で三代目片岡我當襲名。その後東京と大阪を往復しながら活躍。

1895年(明治28年)、兄の死後、松嶋屋の芸の後継者として認められる。

1907年(明治40年)、大阪角座で十一代目片岡仁左衛門を襲名する。

その後は東京に腰を据えて、歌舞伎座の座頭となり、五代目中村歌右衛門十五代目市村羽左衛門とともに「三衛門」と謳われ、「團菊左」亡き後の東京歌舞伎を支えた。

十一代目の上京は、当時「五代目中村歌右衛門」の名跡を巡って大阪の初代中村鴈治郎と東京の四代目中村芝翫との間に争いが起こり、仁左衛門は芝翫を支持したために、関西では飛ぶ鳥を落とすほどの人気を誇った鴈治郎の支持者に囲まれて日々が日増しに居辛くなったからだといわれている。

1912年(大正元年)エラー:和暦テンプレートの解説ページを参照してください。[元号要検証]、長男の片岡千代之助のためにもなるからと、私財を投じて片岡少年俳優養成所を設立。後継者を育成し、若手俳優への芸の伝承にも尽くした。 

同年、坪内逍遥作『桐一葉』を初演。以後新歌舞伎に力を入れ、『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演した。

また従前人形浄瑠璃においてのみの演目だった『大文字屋』や『鰻谷』を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る独創性に長けていた。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のしのぎを削り合う相手として張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台を共にし、公私にわたって仲が良かったと書いている。

天才肌の名人だったが、個性が強く、九代目市川團十郎や鴈治郎と衝突をくり返す問題児でもあった。團十郎の態度が癪にさわると、團十郎の前で傘を開いて助六の見得を切る(『助六』は市川宗家のお家芸)。相方の口跡が気に入らないと、嫌みに台本を手に舞台に上がる。舞台に不要な物でも落ちていようものなら、これ見よがしにゴミ拾いをしながら舞台をつとめた。『熊谷陣屋』の弥陀六では、上手から刀を投げて舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っていると言ってはわざわざ下手から出て芝居をぶちこわす。『国姓爺合戦・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の欄干の高さが気に入らないと言っては化粧を落として帰宅する。こうした逸話には枚挙に暇がない。

そうした反面、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するという義侠心に富む面もあり、父に死に別れた二代目實川延若七代目澤村宗十郎に特に目をかけて大成させたのも十一代目の功績である。

当り役は、丸本時代物では、『仮名手本忠臣蔵』九段目の本蔵、『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の菅丞相と「寺子屋」の松王丸、『妹背山女庭訓』の大判事、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の弥陀六、『伊賀越道中双六』「沼津」の平作。和事、辛抱立役では『吉田屋』の伊左衛門、『近頃河原の達引』「堀川」の与次郎、「鰻谷」の八郎兵衛、「帯屋」の長右衛門、「吃又」の又平。新作では『桐一葉』の片桐且元、『桜時雨』の紹由、『名工柿右衛門』の柿右衛門。『伽羅先代萩』の政岡も当たり役だった。

どの役も至芸と呼ばれるもので、文字通り一代の名優だった。三宅周太郎の『片岡仁左衛門』の中に、六代目尾上菊五郎のことばとして、「團菊没後の本当の名人は十一代目仁左衛門だよ」と記されている。岡本綺堂は『妹背山』の大判事を評して「いざ段切れのノリになって『倅清舟承れ』以下となると、そのめりはりのうまいいいノドは歌舞伎座の隅々迄鳴り響いた」(大正6年3月)と絶賛している。

「あれは父のなくなる前の年でしたか、父が近々引退するらしいと言ううわさがたったことがありました。それを大阪で聞いたおじさん(初代鴈治郎)は、(中略)すぐその足で明舟町の家へ来られ『引退するてほんまか。引退なんかしたらあかん。体もよわるし、今からやめてどうするのや。もっともっと働いてくれな、どもならん』とまるで怒っているような語気で父に説いていられた姿が、今もまぶたに残っています。『せえへん、せえへん』と笑いながら答える父に、やっと安どしたように四方山の話をして、定宿の築地の細川に帰られたのは十時近かったと思います」(十三代目片岡仁左衛門著 『仁左衛門楽我記』 昭和57年 三月書房)

1934年(昭和9年)、甥の四代目片岡我童(十二代目片岡仁左衛門)の子、五代目片岡芦燕(十三代目片岡我童、死後十四代目片岡仁左衛門追贈)襲名披露出演中倒れ、大阪で死去。76歳。墓所は池上本門寺(東京都)。

得意芸を選び「片岡十二集」にまとめている。