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'''坊城 俊克'''(ぼうじょう としかつ、[[享和]]2年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]([[1802年]][[10月7日]]) - [[慶応]]元年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1865年]][[9月9日]]))は、[[幕末]]の[[公家]]。[[坊城俊明]]の子、母は[[勧修寺経逸]]の娘。 |
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[[京都]]で誕生する。[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])叙爵。[[蔵人頭]]、[[弁官|右大弁]]を歴任し、[[嘉永]]3年([[1850年]])[[参議]]、左大弁。安政4年([[1857年]])[[中納言|権中納言]]となる。また[[議奏]]となり、安政6年([[1859年]])には[[武家伝奏]]として、条約勅許問題、[[水戸藩|水戸]]降勅、[[将軍継嗣問題]]、[[和宮親子内親王|和宮]]降嫁など、朝幕調停に大きく関与した。また[[文久]]元年([[1861年]])[[勅使]]として和宮降嫁に従って[[江戸]]に入り、武家伝奏任命の際の血誓を廃止する事に成功した。文久2年([[1862年]])[[権大納言|大納言]]、[[元治]]元年([[1864年]])[[大宰権帥]]を兼任。[[慶応]]元年([[1865年]])[[従一位]]となるも、同年没。 |
[[京都]]で誕生する。[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])叙爵。[[蔵人頭]]、[[弁官|右大弁]]を歴任し、[[嘉永]]3年([[1850年]])[[参議]]、左大弁。安政4年([[1857年]])[[中納言|権中納言]]となる。また[[議奏]]となり、安政6年([[1859年]])には[[武家伝奏]]として、条約勅許問題、[[水戸藩|水戸]]降勅、[[将軍継嗣問題]]、[[和宮親子内親王|和宮]][[降嫁]]など、朝幕調停に大きく関与した。また[[文久]]元年([[1861年]])[[勅使]]として和宮降嫁に従って[[江戸]]に入り、武家伝奏任命の際の血誓を廃止する事に成功した。文久2年([[1862年]])[[権大納言|大納言]]、[[元治]]元年([[1864年]])[[大宰権帥]]を兼任。[[慶応]]元年([[1865年]])[[従一位]]となるも、同年没。 |
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2009年5月17日 (日) 04:11時点における版
坊城 俊克(ぼうじょう としかつ、享和2年9月11日(1802年10月7日) - 慶応元年7月20日(1865年9月9日))は、幕末の公家。坊城俊明の子、母は勧修寺経逸の娘。
京都で誕生する。文化10年(1813年)叙爵。蔵人頭、右大弁を歴任し、嘉永3年(1850年)参議、左大弁。安政4年(1857年)権中納言となる。また議奏となり、安政6年(1859年)には武家伝奏として、条約勅許問題、水戸降勅、将軍継嗣問題、和宮降嫁など、朝幕調停に大きく関与した。また文久元年(1861年)勅使として和宮降嫁に従って江戸に入り、武家伝奏任命の際の血誓を廃止する事に成功した。文久2年(1862年)大納言、元治元年(1864年)大宰権帥を兼任。慶応元年(1865年)従一位となるも、同年没。