「藤原信実」の版間の差分

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'''藤原信実'''(ふじわら の のぶざね、[[治承]]元年([[1177年]])? - [[文永]]2年([[1265年]])?)は、[[鎌倉時代]]前期から中期にかけての[[公家]]・[[画家]]・[[歌人]]。父は[[藤原隆信]]。[[官位]]は正四位下左京権大夫。法号は寂西。娘に女流歌人の[[弁内侍]]がいる。
'''藤原信実'''(ふじわら の のぶざね、[[安元]]元年([[1175年]])? - [[文永]]3年([[1266年]])以降)は、[[鎌倉時代]]前期から中期にかけての[[公家]]・[[画家]]・[[歌人]]。父は[[藤原隆信]]。[[官位]]は正四位下左京権大夫。法号は寂西。娘に女流歌人の[[弁内侍]]がいる。


信実は、父隆信とともに[[絵画]]・[[和歌]]に秀で、大阪[[水無瀬神宮]]に伝わる「後鳥羽院像」は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねて、主体の面影を捉える技法が特色である。大蔵集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「[[三十六歌仙絵巻]]」などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の家系は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]頃まで続き、いわゆる[[似絵]]の家系として知られる。
信実は、父隆信とともに[[絵画]]・[[和歌]]に秀で、大阪[[水無瀬神宮]]に伝わる「[[後鳥羽院]]像」([[国宝]])は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねて、主体の面影を捉える技法が特色である。大蔵集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「[[三十六歌仙絵巻]]」などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の家系は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]頃まで続き、いわゆる[[似絵]]の家系として知られる。


自撰歌集に藤原信実朝臣集がある。
自撰歌集に藤原信実朝臣集』がある。また、信実が編纂し、[[延応]]2([[1240年]])前後に成立した説話集として『[[今物語]]』がある。

信実が編纂し、1240(延応2)年前後に成立した説話集として[[今物語]]がある。




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[[category:鎌倉時代の歌人]]
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2008年11月21日 (金) 10:00時点における版

藤原信実(ふじわら の のぶざね、安元元年(1175年)? - 文永3年(1266年)以降)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公家画家歌人。父は藤原隆信官位は正四位下左京権大夫。法号は寂西。娘に女流歌人の弁内侍がいる。

信実は、父隆信とともに絵画和歌に秀で、大阪水無瀬神宮に伝わる「後鳥羽院像」(国宝)は信実の作と考えられている。短い線を何本も重ねて、主体の面影を捉える技法が特色である。大蔵集古館所蔵の「随身庭騎絵巻」や佐竹本「三十六歌仙絵巻」などの作品は信実とその家系に連なる画家たちによって共同制作されたものと推測されている。信実の家系は南北朝時代頃まで続き、いわゆる似絵の家系として知られる。

自撰歌集に『藤原信実朝臣集』がある。また、信実が編纂し、延応2(1240年)前後に成立した説話集として『今物語』がある。