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'''耶律 雅里'''(やりつ がり 契丹音:ヤリュートヤーリ、[[1093年]] - [[1123年]][[10月]])は、[[遼]]の[[皇族]]。[[天祚帝]]の次男で、生母は蕭元妃(蕭貴哥)。[[北遼]]の2代[[皇帝]]。漢名は不詳。[[字]]は'''撒鸞'''(さんらん)。 |
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幼いころに父帝から梁王に冊封される。 |
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幼いころから父に溺愛され、梁王に冊封される。大臣の[[蕭奉先]]は梁王の生母の蕭元妃の兄か叔父にあたるため、その傅役となった。[[皇太子]]候補である異母兄の晋王・[[耶律傲盧斡]]がいたが、彼は素質に優れおり、[[余ケン|余覩]]という側近がいた。蕭奉先はその余覩の政敵であり、梁王を[[太子]]にする構想を持っていた。 |
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1121年、蕭奉先は天祚帝に拝謁し、「余覩は晋王・傲盧斡を擁立する陰謀の疑いあり」と讒言した。天祚帝自身も梁王を可愛がっていたこともあり、蕭奉先の[[冤罪]]の言葉をすっかり信じてしまった。そのために、余覩は[[謀反|謀反人]]として[[処刑]]され、晋王は[[廃嫡]]され、生母の蕭文妃とともに[[賜死]]を命じられてしまった。こうして、蕭奉先の思惑通りに梁王が太子となった。 |
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同年5月、天祚帝に絶望した遼の大臣たちは、再び「北遼」を建てて、父帝から自立した梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、梁王は同年10月に病没した。享年31。 |
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そのため、大臣たちは天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を擁立した。 |
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1125年春に、再び金と[[北宋]]連合軍に大敗した天祚帝は[[雲州|雲中]]([[山西省]][[大同市]])にある陰山に逃れた。間もなく、天祚帝は金軍に包囲されしまい、ついに金に降った。こうして遼は滅亡した。 |
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同年5月、遼の遺臣たちは、再び「北遼」を建てて、天祚帝の太子の梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、同時に天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を支える遺臣たちも擁立に動き出し、こうして北遼は内紛に発展した。同年10月に梁王は英宗(耶律朮烈)派の遺臣たちに殺害された。享年31。 |
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2008年6月7日 (土) 03:33時点における版
耶律 雅里(やりつ がり 契丹音:ヤリュートヤーリ、1093年 - 1123年10月)は、遼の皇族。天祚帝の次男で、生母は蕭元妃(蕭貴哥)。北遼の2代皇帝。漢名は不詳。字は撒鸞(さんらん)。
幼いころに父帝から梁王に冊封される。
1122年2月に父・天祚帝が、入來山で金の太祖と戦って大敗し、長春に逃れた。すると翌3月、皇族の耶律大石が李処温らとともに、雅里の従大叔父の耶律淳を擁立し、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げして「北遼」を建国してしまった(天錫帝)。しかし、天錫帝は6月に61歳で病没し、その未亡人の蕭徳妃普賢女が摂政となり、異母弟で皇太子の秦王・耶律定(天祚帝の五男)が擁立された。
しかし、翌1123年正月に金の太祖は都の燕京を陥落させ、大石らは蕭徳妃普賢女を奉じて、長春から、山西雲中の陰山に移動した天祚帝のもとへ頼った。だが、天祚帝は自分に無断で、天錫帝を擁立し、「湘陰王」に格下げした理由で「おば」の蕭徳妃普賢女を翌月に処刑してしまった。
同年5月、天祚帝に絶望した遼の大臣たちは、再び「北遼」を建てて、父帝から自立した梁王・雅里をその皇帝に擁立した。しかし、梁王は同年10月に病没した。享年31。
そのため、大臣たちは天錫帝の太子だった耶律朮烈(英宗)を擁立した。