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2007年9月14日 (金) 13:35時点における版

甲府藩(こうふはん)は、甲斐国に存在したの一つ。

戦国時代

甲斐は戦国時代武田氏の本拠地であった。武田信玄は「人は城 人は石垣 人は堀」と述べたように、甲斐を他国の軍勢に攻め入らせたことは一度として無かった。これは、信玄が優れた戦略家であったことにもよるが、甲斐国が山に囲まれた天然の要害であり、攻め入りにくかったためでもある。しかし、信玄は存命中、甲斐に城らしい城を築きもしなかった。甲斐にあったのは、躑躅ヶ崎館という居館だけである。これは、戦国武将として異例のことであると言えよう。
しかし信玄の死後、後を継いだ武田勝頼長篠の戦い織田信長に敗れて大敗し、新府城を築城して再建を計ったものの、1582年3月には滅ぼされてしまった。

武田氏滅亡後、信長は重臣の河尻秀隆に甲斐一国を与えた。しかし同年6月、本能寺の変が起こって信長が横死すると、甲斐では旧武田氏の遺臣による一揆が勃発し、その混乱の中で秀隆は一揆衆に殺害されてしまった。信長・秀隆の死によって空白地帯となった甲斐は、その後に侵攻してきた徳川家康が支配するところとなり、家康は家臣の平岩親吉甲府城に入れて、甲斐の守備を任せた。

1590年、家康が関東に移ると、親吉もそれに従って関東に移る。その後、甲斐には豊臣氏の家臣である豊臣秀勝加藤光泰浅野長政浅野幸長父子が次々と入れられた。ちなみに、光泰以外は皆、豊臣秀吉の数少ない縁者たちである。それだけ、甲斐は豊臣政権下でも重要地域であったということであろう。

藩史

1600年関ヶ原の戦いで幸長は東軍に与して功を挙げたため、紀伊国和歌山藩へ加増移封された。その後、はじめは家康八男の松平仙千代が平岩親吉の後見のもとに入ったが、同年のうちに夭折。そのため、家康九男の徳川義直(五郎太丸)が25万石で入るが、幼少であったため、やはり親吉の後見を受けた。

幕藩体制下でも甲斐は重要拠点と見なされている。義直と親吉が尾張に加増移封された後、徳川秀忠の三男で徳川家光の弟・徳川忠長が入る。しかし忠長は駿河国遠江国も所領とされていたため、居城は駿河国府中にあった。忠長はやがて素行の悪さから改易される。

その後、甲府藩は廃藩されて天領となっていたが、家光の三男・徳川綱重が入ることで復活した。綱重は嗣子の無い兄・徳川家綱の後継者と目されていたが早世し、子の徳川家宣(当時は綱豊)が後を継ぐ。しかし、嗣子が無い徳川綱吉が娘婿である徳川綱教死後、綱豊を後継者と決め、家宣として江戸城西の丸に移ることとなった。

その後、綱吉政権下で有名な側用人柳沢吉保が15万石で入る。甲斐には将軍の一族以外が入るという例は無く、これは異例中の異例のことである。つまり、吉保はそれだけ綱吉からの信任を得ていたのであろう。吉保隠居後は、吉保の長男・柳沢吉里が家督を継ぐが、享保時代、徳川吉宗によって柳沢吉里大和国郡山藩に移封された。
以後、甲斐国は、甲府城に詰める甲府勤番の支配となり、再び天領となった。幕末の動乱期、甲府城は幕府軍と新政府軍激突の場となり、そして明治時代を迎えた。

幕藩体制下での甲斐の重要性

徳川家康は武田信玄と宿敵の間柄にあったが、その反面で信玄の戦略に尊敬の念を抱いていた。そのため、信玄の領国であった甲斐を重要拠点と見なしていた。
家康は、江戸城が窮地に陥ったとき、もしくは落城となったときは、内藤新宿から甲州街道を進み、八王子を経て甲府城に逃れるという防御体制を取っていた。つまり、甲府城は江戸城の詰城であり、何よりも重要な拠点だったというわけである。だからこそ、柳沢一族の例外を除いて、甲府は徳川一族か、天領による支配下としたのである。
しかしながら、大政奉還後は、甲府城が先に落城し、家康の目論みは生かせずに江戸城は無血開城された。

甲府勤番

享保9年(1724年)、柳沢吉里郡山移封後に将軍徳川吉宗享保の改革の一環として天領拡大のため、甲斐国直轄支配のために創設された江戸幕府の職制。老中支配下。定員二名で、役高は3000石。甲府城内大手と山手に配置され、配下に勤番士200名、与力20人、同心50人を付けられ、甲府城の守護と府中政務や訴訟の処理を務める。

幕府小普請組から多く任命されており、平均着任年齢は50代。勤番を機に要職から退くケースも多く、幕臣の素行不良の懲戒や仕事場を失った余剰幕臣の受け皿であり、勤番任命は「山流し」と言われ旗本御家人にとっては改易一歩寸前の左遷にも等しい職務であるとも評される。

甲府学問所を設立した滝川利雍(出羽守)や『甲斐国志』を編纂した松平定能(安房守)らがいる。

歴代藩主

河尻家(織田政権下)

  1. 河尻秀隆(ひでたか)(河尻秀長の父)

豊臣家(豊臣政権下)

  1. 豊臣秀勝(ひでかつ)(豊臣秀吉の養子)

加藤家(豊臣政権下)

  1. 加藤光泰(みつやす)(加藤貞泰の父)

浅野家(豊臣政権下)

  1. 浅野長政(ながまさ)(豊臣秀吉の義弟。浅野幸長・浅野長晟の父)
  2. 浅野幸長(よしなが)(浅野長政の子。浅野長晟の兄)

徳川家

25万石→23万8000石→35万石(親藩

  1. 徳川義直(よしなお)従四位下。右兵衛督。徳川家康の九男。徳川秀忠の弟。
  2. 徳川忠長(ただなが)従三位。権中納言。徳川秀忠の三男。徳川家光の弟。
  3. 徳川綱重(つなしげ)正三位。参議。徳川家光の三男。徳川家綱の弟。徳川綱吉の兄。
  4. 徳川家宣(綱豊)(いえのぶ)正三位。権中納言。徳川綱重の長男。

柳沢家

15万石(譜代

  1. 柳沢吉保(よしやす)従四位下。美濃守。左権少将。柳沢安忠の長男。
  2. 柳沢吉里(よしさと)従四位下。侍従。甲斐守。柳沢吉保の長男。

関連項目