ノート:甲府藩

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甲府藩の始期について[編集]

当ページは甲府藩の始期について記述が曖昧であり、歴代藩主の節においても織豊期の大名が名を列ねています。甲府藩として何時から成立したのか未検証のように思われます。徳川家康の家臣・平岩親吉と家康9男・徳川義直(五郎太)の在封時期の評価も含めて、改稿の可能性を再検討する必要があるようですが。--故城一片之月 2010年2月12日 (金) 18:13 (UTC)[返信]

全体についても加筆を予定していますが、甲府藩の成立期は綱重就封後になります。これは『山梨県史』通史編近世、同資料編『領主』においてもそのように定義され、また関係史料も編纂されているで、したがうべき定義であると思うのですが。--でここ 2010年2月12日 (金) 18:19 (UTC)[返信]
甲府藩の成立期は綱重就封の時とするが『山梨県史』での所論とあれば、もちろんWikipediaで披露されることは有ってしかるべきと存じます。
但し、あくまでも『山梨県史』の見解以外を排除というのでは、Wikipedia:中立的観点による編集を満足するものではありません。慶長8年(1603年)の徳川義直の甲斐府中入封=甲府藩成立も尾張藩・徳川義直の研究者(林 董一編『尾張藩家臣団の研究』、秦 達之の所論)を主に言及されている見解の1つとして軽視できないものです。慶長8年は徳川家康の征夷大将軍宣下の年であり、市販の歴史辞典等(『角川・日本史辞典』)でもこの年をもって江戸幕藩体制の始期とするのが通説的見方と言えるわけで、徳川五郎太義直はこの時、甲斐府中城主から甲府藩主(25万石)になったと解釈されるのです。
もっとも、でここさんの言われる『山梨県史』の該当所論を私は未見ですが、山梨県史がこの辺をどの様に論及・説明されているかが、もしこのページで分かるように記述されるのであれば、多言を要さずにその記述をもって代えることは可能でしょう。
徳川綱重就封で始期を定義とするかどうかは微妙であり、むしろ説明は「概要」節でするとして、定義部は「甲府藩とは、江戸時代に甲斐国(現・山梨県)国中地方を中心に存在した藩」ぐらいがよいのではないでしょうか。--故城一片之月 2010年2月14日 (日) 16:24 (UTC)[返信]

故城一片之月様、情報ありがとうございます。なるほど、義直領期から甲府藩の確立とする説もあるのですね。『県史』ですが、いま手元にあるのが資料編「領主」のみで、通史編の記述を確認するまでしばらくお待ち下さい。資料編「領主」の構成・解題部分を見ますと、まず同書では第一編を勤番支配確立以前の「大名領の時代」として第一章「豊臣大名」、第二章「江戸幕府確立期の領主・代官・旗本」として、徳川氏再領時代の代官頭大久保長安から四奉行、義直・忠長領、初期代官、および郡内領関係の資料を所載し、第三章・第四章では「甲府藩」として綱重以降の甲府徳川家と柳沢家の史料を編纂しています。史料解題は村上直氏ですが、解説部分を見ると甲府藩の成立は慶安4年に徳川綱吉・綱重領が設定されたことに求められているようですね。さらに解説部分を読んでみると、慶長8年に五郎太(義直)は確かに甲斐一国を拝領していますが、五郎太自身は甲斐へ入府したことはなく、実質的な在地支配は平岩親吉・大久保長安や四奉行によって担われていたことが指摘されています。この時期の甲斐統治を担ったのは「初期代官」として定義されていますが、資料編「領主」では義直・忠長領期に至るまで初期代官支配が連続しているものとする観点から、史料を編纂しているようです。

また、忠長や綱重も義直と同様に甲斐本国へ入府せず、解説部分では寛文元年に綱重が甲斐へ入国し、在地支配を行うための家臣団編制を行い、名実ともに甲府藩制が確立した、と説明されています。

資料編「領主」からわかる甲府藩政期の開始に関する説明はこのようなものでしたが、通史編ではもっと幕藩体制論の観点から説明されていたかどうか記憶にありませんので、確認するまでしばらくお待ち下さい。

取りあえず、豊臣系大名どころか川尻氏までも甲府藩政期に含めてしまうのは明らかな誤りでありますし早急に対処しておく必要があると思いますが、故城一片之月様もこの点につきましては異論がありませんでしょうか?

あと、ひとつ思うことは仮に義直・忠長期まで残すとしても、いまの形式ですと平岩氏から義直・忠長と領主変遷がしたように勘違いをされてしまうようにも思います。

以下は予断ですが、おそらく甲府藩に限らず幕藩体制下の諸藩記事も、何かの典拠文献には依拠しているのでしょうけど、幕藩体制論の観点から藩政開始期がいつであるかを、きちんと検討しないままに記事が存在しているのだろうなぁと思ってしまいました。そもそも「幕藩体制」そのものが記事として薄いですね。わたしの手が届くのは山梨県郷土史関係のみですが、そもそもの総説として「幕藩体制」できちんと研究史が確認できたりすると、併読することでより理解が深まり、有意義な辞典にできるのになぁと思います。--でここ 2010年2月15日 (月) 15:17 (UTC)[返信]


河尻氏から浅野氏までの織田・豊臣系大名は幕藩体制確立以前であって藩主というより、城主や領主と表現されるべきと私は思いますので、検索利用者の誤解を避けるためにも、藩主歴代からの除外による変更に同意致します。
平岩親吉については大名格待遇ながら、家康の腹臣かつ代官、義直の傳役・城代としての性格を指摘する向きが多いので、彼を含めた場合は記事構成が面倒になると予想されます。あとあと脚注解説をつける位の構えで良いと思うし、少なくとも慶長8年(1603年)で区切ってしまえば整理はし易いと考えられます。--故城一片之月 2010年2月15日 (月) 17:31 (UTC)[返信]
とりあえず、慶長8年以前の甲府城主(領主)たる大名はページ:甲府城で参照可能と判断し除外しておきました。あとは、でここさんの検討・編集に待ちたいと存じます。--故城一片之月 2010年2月15日 (月) 17:57 (UTC)[返信]
豊臣時代の大名を藩主と認めるのは、新人物往来社の『三百藩藩主人名事典』がそういう体裁(関ヶ原の合戦当時に存在した大名家を全て藩として認めている)を取っている影響もあると思われます。一応、気になったので念のため。--水野白楓 2010年2月15日 (月) 18:03 (UTC)[返信]
江戸幕藩体制始期を慶長5年(1600年)とする見方も存在するとの水野白楓さんの御指摘の点も考慮し、私の前言である平岩親吉の取扱いに関する部分及び慶長8年で区切って整理するとの部分は訂正いたします。平岩親吉も豊臣家から見て陪臣に相当するものの、「藩主」の扱いになる可能性もあり、その様に扱う書籍を実際に典拠とされる場合には、その事例についても言及が工夫されるべきであることを付言しておきます。--故城一片之月 2010年2月22日 (月) 15:05 (UTC)[返信]