「二子玉川園」の版間の差分

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== 歴史 ==
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;[[1909年]]:玉川電気鉄道の手により、同社の集客施設として東京郊外の荏原郡玉川村瀬田に玉川遊園地を開設。[[浅草花やしき|浅草花屋敷]]に業務を委託。<br>[[久遠寺|身延山]]東京別院が誘致され、また「玉川閣」と名付けられた演芸娯楽施設があった。遊戯施設は少ない代わりに大運動場があった。
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;[[1922年]] 7月:多摩川沿いに玉川第二遊園地(玉川児童園)を開設。従来の遊園地は玉川第一遊園地(または瀬田遊園地)と呼ばれるようになる。
;[[1922年]] 7月:多摩川沿いに玉川第二遊園地(玉川児童園)を開設。従来の遊園地は玉川第一遊園地(または瀬田遊園地)と呼ばれるようになる。
;[[1925年]] 6月:玉川第二遊園地に隣接して玉川プールを開場。
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;[[1939年]]:玉川第二遊園地は[[読売新聞]]と提携し、読売遊園と改称。のちにパラシュート練習塔が設けられる。(戦後、[[江ノ島]]に灯台として移築)
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;[[1944年]]:玉川第一遊園地を閉鎖。また、読売遊園も休業。東急社員向けの農場に転用される。
;[[1944年]]:玉川第一遊園地を閉鎖。また、読売遊園も休業。東急社員向けの農場に転用される。
;[[1954年]][[3月27日]]:[[東急不動産]]の手により、二子玉川園として再開。
;[[1954年]][[3月27日]]:玉川第二遊園地が、[[東急不動産]]の手により、二子玉川園として再開。
;[[1955年]][[4月1日]]:東京急行電鉄が経営を受託。
;[[1955年]][[4月1日]]:東京急行電鉄が経営を受託。
;[[1956年]][[4月20日]]:名物となるフライングコースターを設置。(閉園時まで稼働)
;[[1956年]][[4月20日]]:名物となるフライングコースターを設置。(閉園時まで稼働)

2007年7月22日 (日) 03:10時点における版

二子玉川園(ふたこたまがわえん)は東京都世田谷区にあった遊園地である。

歴史

1909年
玉川電気鉄道の手により、同社の集客施設として東京郊外の荏原郡玉川村瀬田に玉川遊園地を開設。浅草花屋敷に業務を委託。
身延山東京別院が誘致され、また「玉川閣」と名付けられた演芸娯楽施設があった。遊戯施設は少ない代わりに大運動場があった。
1922年 7月
多摩川沿いに玉川第二遊園地(玉川児童園)を開設。従来の遊園地は玉川第一遊園地(または瀬田遊園地)と呼ばれるようになる。
1925年 6月
玉川第二遊園地に隣接して玉川プールを開場。
1927年
玉川プールに隣接してテニスコートを設置。
1929年
委託経営を取りやめ、玉川電気鉄道の直営となる。
1939年
玉川第二遊園地は読売新聞と提携し、読売遊園と改称。のちにパラシュート練習塔が設けられる。(戦後、江ノ島に灯台として移築)
1944年
玉川第一遊園地を閉鎖。また、読売遊園も休業。東急社員向けの農場に転用される。
1954年3月27日
玉川第二遊園地が、東急不動産の手により、二子玉川園として再開。
1955年4月1日
東京急行電鉄が経営を受託。
1956年4月20日
名物となるフライングコースターを設置。(閉園時まで稼働)
1957年9月30日
映画館・二子東急を開館。
1957年12月1日
五島ローズガーデンを開園。
1985年3月31日
閉園。跡地は二子玉川タイムスパークになる。

アクセス

東急大井町線東急田園都市線・東急新玉川線(現:東急田園都市線の一部) 二子玉川園駅(現:二子玉川駅)下車


関連項目