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後に[[常陸国]][[鹿島郡]]200石を加増され450石となった。 |
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2007年6月15日 (金) 06:21時点における版
伊達 房実(だて ふさざね)、生年不詳 - 寛永3年(1626年))は戦国時代から江戸時代の武将。 与兵衛、伊達房成。妻は足利義氏の家臣相馬藤右衛門の娘。 太田氏、後北条氏の家臣で伊達城主、岩槻城主太田氏房の付家老。後に旗本。
略歴
太田氏の家老を務める。
太田氏房が岩槻城主となるのに伴い岩槻城付家老となる。
天正17年(1589年)、華林山慈恩寺に「南蛮鉄灯篭」(埼玉県さいたま市 市指定文化財)を寄進。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に際して、岩槻城主太田氏房が小田原城に篭った為、房実は2千人の兵と共に岩槻城に篭城した。1千人余の死傷者を出しながら奮闘したが2万人の豊臣軍に攻められ落城降伏した。
同年、徳川氏に召し抱えられ江戸三番町角屋敷を与えられた。
天正19年(1591年)、武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市見沼区)250石を与えられ旧領である大和田村を知行した。その頃に伊達城は破却され大和田陣屋を構えた。
寛永3年(1626年)5月19日死去し、江戸谷中瑞輪寺に葬られた。法名日受。