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「セント・オールバンズの戦い (1461年)」の版間の差分

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== 戦闘の結果 ==
== 戦闘の結果 ==
この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](戦場にいたといっても恐らく木の下で歌でも歌っていたのであろうが)はランカスター派に連れ戻された。だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。明確な理由は不明だが、ロドンで強うといううわさが先にロンドンに届いていたためロンドン市民によって城門が閉ざされていたのかもれない。
この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]](戦場にいたといっても恐らく木の下で歌でも歌っていたのであろうが)はランカスター派に連れ戻された。だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。カスター派による略奪行為のうわさためロンドン市民がその城門が閉ざようで、こため王妃は躊躇た。またマーチ公エドワードがモーティマーズ・クロスの戦で勝利したニュースもその原因となった

マーチ公エドワードとウォリック伯は3月2日にロンドンに入り、マーチ公エドワードがイングランド王として宣告された。


[[Category:薔薇戦争の戦闘|せんとおるはんすのたたかい1461]]
[[Category:薔薇戦争の戦闘|せんとおるはんすのたたかい1461]]

2007年5月19日 (土) 04:32時点における版

セント・オールバーンズの戦い
戦争薔薇戦争
年月日1461年 2月22日
場所イングランドハートフォードシャーのセント・オールバーンズ
北緯51度45分18秒 西経0度20分9.6秒 / 北緯51.75500度 西経0.336000度 / 51.75500; -0.336000
結果:ランカスター派の勝利
交戦勢力
ヨーク家 ランカスター家
指導者・指揮官
ウォリック伯 マーガレット・オブ・アンジュー
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
薔薇戦争
セント・オールバンズの戦い (1461年) の座標 TL147073
セント・オールバンズの戦い (1461年) 座標: TL147073)場所

(第2次)セント・オールバーンズの戦い(Second Battle of St Albans)は、薔薇戦争中の1461年2月22日、セント・オールバーンズの街の近くで行われた戦闘。

戦闘の背景

ヨーク公リチャード1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチ公エドワード(後のエドワード4世)は、その直前に西で行われたモーティマーズ・クロスの戦いに参加していて忙しかった。となるとマーガレット王妃率いるランカスター派にとってとるべき道は明確である。ランカスター派はロンドンを強襲するため、南進を開始した。

戦闘の様子

ランカスター派の進軍は、ウォリック伯指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバーンズの近くで妨げられた。ウォリックは防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。

戦闘の結果

この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王ヘンリー6世(戦場にいたといっても恐らく木の下で歌でも歌っていたのであろうが)はランカスター派に連れ戻された。だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為のうわさのためロンドン市民がその城門が閉ざしたようで、このため王妃は躊躇した。またマーチ公エドワードがモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となった。

マーチ公エドワードとウォリック伯は3月2日にロンドンに入り、マーチ公エドワードがイングランド王として宣告された。