「グラスノスチ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Rei-bot (会話 | 投稿記録)
m robot Adding: la:Glasnost
m編集の要約なし
3行目: 3行目:
ペレストロイカ推進のためには、従来の[[社会主義]]的[[イデオロギー]]の枠を超えた発想が求められた。そのため、今まで抑圧され続けていた[[改革]]派の[[知識人]]、[[学者]]をペレストロイカに巻き込む必要があった。
ペレストロイカ推進のためには、従来の[[社会主義]]的[[イデオロギー]]の枠を超えた発想が求められた。そのため、今まで抑圧され続けていた[[改革]]派の[[知識人]]、[[学者]]をペレストロイカに巻き込む必要があった。


[[1986年]][[4月]]に起こった[[チェルノブイリ原発事故]]をきっかけに、種々の社会問題を解決するために、[[言論]]・[[思想]]・[[集会]]・[[出版]]・[[報道]]などの[[自由化]]・[[民主化]]が行われた。1986年末までには、一部の[[テレビ]]・[[新聞]]がソ連社会の問題点を率直に批判するようになった。また、[[ブレジネフ]]政権の[[アフガニスタン]]侵攻を批判してゴーリキー(現・[[ニジニ・ノヴゴロド]])に幽閉されていた科学者[[アンドレイ・サハロフ]]も釈放された。
[[1986年]][[4月]]に起こった[[チェルノブイリ原子力発電所|チェルノブイリ原発事故]]をきっかけに、種々の社会問題を解決するために、[[言論]]・[[思想]]・[[集会]]・[[出版]]・[[報道]]などの[[自由化]]・[[民主化]]が行われた。1986年末までには、一部の[[テレビ]]・[[新聞]]がソ連社会の問題点を率直に批判するようになった。また、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]政権の[[アフガニスタン侵攻 (1979)|アフガニスタン侵攻]]を批判してゴーリキー(現・[[ニジニ・ノヴゴロド]])に幽閉されていた科学者[[アンドレイ・サハロフ]]も釈放された。


[[1987年]]頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた[[映画]]が次々と公開された。党の統制下にかれない市民団体の結成などもみられた。歴史学においても、[[ネップ]](新経済政策)の再評価、[[1930年代]]の大飢饉の考察など、それまでタブー視されていたテーマが扱われ始めた。
[[1987年]]頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた[[映画]]が次々と公開された。党の[[統制]]下にかれない市民団体の結成などもみられた。[[歴史学]]においても、[[ネップ]](新経済政策)の再評価、[[1930年代]]の大飢饉の考察など、それまで[[タブー]]視されていたテーマが扱われ始めた。


一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部の豪華絢爛な暮らしや汚職も暴かれ、国民の反共産党感情を一気に高め、[[ソ連解体]]へと国家をすすめていく結果となった。
一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような[[ソビエト連邦共産党|共産党]]幹部の豪華絢爛な暮らしや[[汚職]]も暴かれ、国民の反共産党感情を一気に高め、[[ソ連崩壊|ソ連解体]]へと国家をめていく結果となった。


[[Category:ソビエト社会主義共和国連邦|くらすのすち]]
[[Category:ソビエト社会主義共和国連邦|くらすのすち]]

2007年4月23日 (月) 15:28時点における版

グラスノスチгласность, glasnost' ru-glasnost.ogg listen[ヘルプ/ファイル]publicity)は、ゴルバチョフ時代のソビエト連邦で、ペレストロイカ(perestroika 改革)の重要な一環として展開された情報政策。日本語では「情報公開」「公開制(公開性)」などと訳される。

ペレストロイカ推進のためには、従来の社会主義イデオロギーの枠を超えた発想が求められた。そのため、今まで抑圧され続けていた改革派の知識人学者をペレストロイカに巻き込む必要があった。

1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故をきっかけに、種々の社会問題を解決するために、言論思想集会出版報道などの自由化民主化が行われた。1986年末までには、一部のテレビ新聞がソ連社会の問題点を率直に批判するようになった。また、ブレジネフ政権のアフガニスタン侵攻を批判してゴーリキー(現・ニジニ・ノヴゴロド)に幽閉されていた科学者アンドレイ・サハロフも釈放された。

1987年頃より、ブレジネフ時代に上映を禁止されていた映画が次々と公開された。党の統制下に置かれない市民団体の結成などもみられた。歴史学においても、ネップ(新経済政策)の再評価、1930年代の大飢饉の考察など、それまでタブー視されていたテーマが扱われ始めた。

一方で、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部の豪華絢爛な暮らしや汚職も暴かれ、国民の反共産党感情を一気に高め、ソ連解体へと国家を進めていく結果となった。