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「マニシュトゥシュ」の版間の差分

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[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]の息子として生まれ、弟(異説あり)の王[[リムシュ]]が暗殺されるとその跡を継いでアッカド王となった。父サルゴンや息子[[ナラム・シン]]に比較して注目されることが少ない王であるが、彼も征服者として各地に遠征を行ったとされている。
[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]の息子として生まれ、弟(異説あり)の王[[リムシュ]]が暗殺されるとその跡を継いでアッカド王となった。父サルゴンや息子[[ナラム・シン]]に比較して注目されることが少ない王であるが、彼も征服者として各地に遠征を行ったとされている。


即位に伴う反乱を鎮圧した後、彼は下の海([[ペルシア湾]])を船で超えて遠征を行い、また[[エラム]]へも遠征を行ったという。また北へ向かって[[アッシュール]]市や[[ニネヴェ_(メソポタミア)|ニネヴェ]]市にも痕跡を残した。後代の[[アッシリア]]王[[シャムシ・アダド1世]]の記録では、マニシュトゥシュはニネヴェの神殿を創建したとされている。
即位に伴う反乱を鎮圧した後、彼は下の海([[ペルシア湾]])を船で超えて遠征を行い、また[[エラム]]へも遠征を行ったという。また北へ向かって[[アッシュール]]市や[[ニネヴェ]]市にも痕跡を残した。後代の[[アッシリア]]王[[シャムシ・アダド1世]]の記録では、マニシュトゥシュはニネヴェの神殿を創建したとされている。


しかし、彼もリムシュと同じく粘土板で撲殺されるという方法で[[暗殺]]されたという。死後、息子のナラム・シンが跡を継いだ。
しかし、彼もリムシュと同じく粘土板で撲殺されるという方法で[[暗殺]]されたという。死後、息子のナラム・シンが跡を継いだ。

2023年12月4日 (月) 21:52時点における最新版

マニシュトゥシュ
アッカド
マニシュトゥシュのオベリスク
在位 紀元前23世紀頃?

子女 ナラム・シン
父親 サルゴン
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マニシュトゥシュManishtushu、在位:紀元前23世紀頃?)は、古代メソポタミアアッカド王朝の

来歴[編集]

サルゴンの息子として生まれ、弟(異説あり)の王リムシュが暗殺されるとその跡を継いでアッカド王となった。父サルゴンや息子ナラム・シンに比較して注目されることが少ない王であるが、彼も征服者として各地に遠征を行ったとされている。

即位に伴う反乱を鎮圧した後、彼は下の海(ペルシア湾)を船で超えて遠征を行い、またエラムへも遠征を行ったという。また北へ向かってアッシュール市やニネヴェ市にも痕跡を残した。後代のアッシリアシャムシ・アダド1世の記録では、マニシュトゥシュはニネヴェの神殿を創建したとされている。

しかし、彼もリムシュと同じく粘土板で撲殺されるという方法で暗殺されたという。死後、息子のナラム・シンが跡を継いだ。

先代
リムシュ
アッカド王
紀元前23世紀頃?
次代
ナラム・シン