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「仏日契嵩」の版間の差分

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19歳の時に遊方に出て、[[神鼎洪イン|神鼎洪諲]]、[[洞山暁聡]]らに参じる。暁聡の法を嗣ぎ、[[銭塘県|銭塘]]([[浙江省]][[杭州市]])に行き、霊隠山(武林山)にある永安精舎、仏日山、龍山などに住して、著述に専心する。
19歳の時に遊方に出て、[[神鼎洪イン|神鼎洪諲]]、[[洞山暁聡]]らに参じる。暁聡の法を嗣ぎ、[[銭塘県|銭塘]]([[浙江省]][[杭州市]])に行き、霊隠山(武林山)にある永安精舎、仏日山、龍山などに住して、著述に専心する。


従来の[[史]]の整理を行い、[[欧陽脩]]らの排仏論者に対抗して三教一致論を展開した。また、『[[六祖壇経]]』の刊行にも携わる。
従来の[[史]]の整理を行い、[[欧陽脩]]らの排仏論者に対抗して三教一致論を展開した。また、『[[六祖壇経]]』の刊行にも携わる。


『[[伝法正宗記]]』『[[輔教編]]』が[[大蔵経]]に入蔵され、'''明教大師'''の[[大師]]号を賜った。永安精舎で没する。
『[[伝法正宗記]]』『[[輔教編]]』が[[大蔵経]]に入蔵され、'''明教大師'''の[[大師]]号を賜った。永安精舎で没する。

2023年9月19日 (火) 23:14時点における版

仏日契嵩
景徳4年 - 熙寧5年6月4日
1007年 - 1072年6月22日
尊称 明教大師
生地 藤州鐔津県(広西チワン族自治区梧州市藤県
没地 霊隠山永安精舎
宗派 雲門宗
寺院 永安精舎、仏日山、龍山
洞山暁聡
著作伝法正宗記』『輔教編』『鐔津文集
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仏日契嵩(ぶつにち かいすう、景徳4年(1007年) - 熙寧5年6月4日1072年6月22日))は、中国北宋禅僧。号は明教大師。俗姓は李。藤州鐔津県(広西チワン族自治区梧州市藤県)の出身。

7歳で出家、13歳で得度し、14歳で具足戒を受ける。

19歳の時に遊方に出て、神鼎洪諲洞山暁聡らに参じる。暁聡の法を嗣ぎ、銭塘浙江省杭州市)に行き、霊隠山(武林山)にある永安精舎、仏日山、龍山などに住して、著述に専心する。

従来の灯史の整理を行い、欧陽脩らの排仏論者に対抗して三教一致論を展開した。また、『六祖壇経』の刊行にも携わる。

伝法正宗記』『輔教編』が大蔵経に入蔵され、明教大師大師号を賜った。永安精舎で没する。

著書

参考文献