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航空機関連の会社から童夢に転職後は、一貫して開発部門に在籍しており、童夢F104(F3000)、童夢F105(F1プロトタイプマシン)、[[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)|JTCC]][[ホンダ・アコード#モータースポーツ|アコード]]等数々の車両設計に携わってきた。
航空機関連の会社から童夢に転職後は、一貫して開発部門に在籍しており、童夢F104(F3000)、童夢F105(F1プロトタイプマシン)、[[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)|JTCC]][[ホンダ・アコード#モータースポーツ|アコード]]等数々の車両設計に携わってきた。


[[1997年]]から[[全日本GT選手権]]に[[エイベックス・グループ|avex]]童夢[[M-TEC|無限]][[ホンダ・NSX|NSX]]で参戦([[1998年]]から[[タカタ (企業)|TAKATA]]童夢無限NSX)した際は、監督として采配を振った。[[1999年]]から[[2002年]]までは、無限と童夢とが「無限×童夢プロジェクト」のチーム名で参戦しており、その際は無限の[[熊倉淳一]]が監督を務めていたが、[[2003年]]に無限と童夢とが独立し、それぞれが単独チームで参戦した際は、再度童夢レーシングチームの監督を務めることになった<ref>第5戦以降は無限社長の脱税事件により、無限がチームとしての参戦をとりやめ、再度16号車との2台体制となる。車名も[[ソフト99コーポレーション|G'ZOX]]無限NSXからG'ZOX NSXに改名</ref>。翌年は1台体制になったが、[[2005年]]よりホンダワークスとして[[Team Honda Racing]]の監督に就任。翌年は代表者・監督の兼任となる。
[[1997年]]から[[全日本GT選手権]]に[[エイベックス|avex]]童夢[[M-TEC|無限]][[ホンダ・NSX|NSX]]で参戦([[1998年]]から[[タカタ (企業)|TAKATA]]童夢無限NSX)した際は、監督として采配を振った。[[1999年]]から[[2002年]]までは、無限と童夢とが「無限×童夢プロジェクト」のチーム名で参戦しており、その際は無限の[[熊倉淳一]]が監督を務めていたが、[[2003年]]に無限と童夢とが独立し、それぞれが単独チームで参戦した際は、再度童夢レーシングチームの監督を務めることになった<ref>第5戦以降は無限社長の脱税事件により、無限がチームとしての参戦をとりやめ、再度16号車との2台体制となる。車名も[[ソフト99コーポレーション|G'ZOX]]無限NSXからG'ZOX NSXに改名</ref>。翌年は1台体制になったが、[[2005年]]よりホンダワークスとして[[Team Honda Racing]]の監督に就任。翌年は代表者・監督の兼任となる。


なお、[[2006年のSUPER GT]]第8戦において、[[小暮卓史]]に無線で「小暮、エンジンの調子が悪かったらペース落とせよ」とエンジン不調のためのペースダウンの指示をしている。しかし、その無線の話し方が明らかにHONDAチーム同士での順位調整を匂わす言い方であったため、その時の無線のやり取りを聞いた[[脇阪寿一]]に「中村さんは俳優にはなれない」と言われていた<ref>その際 小暮は「え?何か調子悪いんですか?全然問題ないですけど」とチーム戦略を全く理解できていなかったため、脇阪寿一からは「小暮は頭を使った職業は無理だと思う」と言われていた</ref>。
なお、[[2006年のSUPER GT]]第8戦において、[[小暮卓史]]に無線で「小暮、エンジンの調子が悪かったらペース落とせよ」とエンジン不調のためのペースダウンの指示をしている。しかし、その無線の話し方が明らかにHONDAチーム同士での順位調整を匂わす言い方であったため、その時の無線のやり取りを聞いた[[脇阪寿一]]に「中村さんは俳優にはなれない」と言われていた<ref>その際 小暮は「え?何か調子悪いんですか?全然問題ないですけど」とチーム戦略を全く理解できていなかったため、脇阪寿一からは「小暮は頭を使った職業は無理だと思う」と言われていた</ref>。

2023年9月12日 (火) 04:34時点における最新版

中村卓哉(なかむら たくや、1960年12月25日 - )は童夢の主要メンバーの一人であり、またSUPER GTなどのレーシング事業では監督を務めた。2015年に童夢の取締役に就任。兵庫県加古川市出身。

概要[編集]

航空機関連の会社から童夢に転職後は、一貫して開発部門に在籍しており、童夢F104(F3000)、童夢F105(F1プロトタイプマシン)、JTCCアコード等数々の車両設計に携わってきた。

1997年から全日本GT選手権avex童夢無限NSXで参戦(1998年からTAKATA童夢無限NSX)した際は、監督として采配を振った。1999年から2002年までは、無限と童夢とが「無限×童夢プロジェクト」のチーム名で参戦しており、その際は無限の熊倉淳一が監督を務めていたが、2003年に無限と童夢とが独立し、それぞれが単独チームで参戦した際は、再度童夢レーシングチームの監督を務めることになった[1]。翌年は1台体制になったが、2005年よりホンダワークスとしてTeam Honda Racingの監督に就任。翌年は代表者・監督の兼任となる。

なお、2006年のSUPER GT第8戦において、小暮卓史に無線で「小暮、エンジンの調子が悪かったらペース落とせよ」とエンジン不調のためのペースダウンの指示をしている。しかし、その無線の話し方が明らかにHONDAチーム同士での順位調整を匂わす言い方であったため、その時の無線のやり取りを聞いた脇阪寿一に「中村さんは俳優にはなれない」と言われていた[2]。 2013年のレースを最後にレーシングチームの監督を引退し、2014年からNSX CONCEPT-GTに車両切り替えと同時に同社の天澤天二郎に監業を引継いだ。

GTカーの設計開発能力に長けており、そこで培われた炭素繊維複合材料を用いた設計経験が豊富である。

脚注[編集]

  1. ^ 第5戦以降は無限社長の脱税事件により、無限がチームとしての参戦をとりやめ、再度16号車との2台体制となる。車名もG'ZOX無限NSXからG'ZOX NSXに改名
  2. ^ その際 小暮は「え?何か調子悪いんですか?全然問題ないですけど」とチーム戦略を全く理解できていなかったため、脇阪寿一からは「小暮は頭を使った職業は無理だと思う」と言われていた

外部リンク[編集]