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「藤原政則」の版間の差分

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[[寛仁]]3年([[1019年]])の[[刀伊の入寇]]で戦功のあった[[大宰権帥]]藤原隆家の下で[[大宰府|大宰少弐]]であり、一説にはこの隆家が但馬国に流された時の子息ともしている<ref name="児玉幸多編 日本史年表・地図">[[児玉幸多]]編『日本史年表・地図』吉川弘文館版発行、2010年の藤原氏系図では政則を隆家の実子としている。</ref>。
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菊池氏は、隆家の孫とされる[[菊池則隆|則隆]]が[[肥後国]]に下向して土着したとして藤原姓([[藤原北家]])を自称し、各種系図もこれに沿った内容となっている<ref name="児玉幸多編 日本史年表・地図" />。だが[[昭和]]34年([[1959年]])、[[志方正和]]は公家が残した日記や『[[源氏物語]]』を研究した結果、隆家の後裔とするのは仮冒であり、政則について、肥後住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代([[延久]]2年([[1070年]])頃)に[[菊池市|菊池]]周辺に土着したとする説を発表し、この説が現在まで有力とされており、歴史学者の[[石井進 (歴史学者)|石井進]]もこの説を支持している。ただ一方では近年、政則の初名に「基定」と記された系図<ref>[https://zenkoku-kikuchinokai.jp/origin/ 菊池の起原(全国菊池の会)]</ref>の存在が公表され、これを[[尊卑分脈]]<ref>[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100000089/viewer/1034 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(新日本古典籍総合データベース)]</ref>にある隆家の五男・基定([[肥前守]][[従五位下]])のことではないかとする新説と共に、長男・[[菊池則隆|則隆]]に加え、[[従五位下]][[近衛府|右近将監]]「則忠」、[[従五位下]]武部少輔「則宗」、[[従五位下]][[肥前守]]「武重」という3人の子の存在が新たに浮上した。(詳しくは[[菊池氏]]の項も参照)
菊池氏は、隆家の孫とされる[[菊池則隆|則隆]]が[[肥後国]]に下向して土着したとして藤原姓([[藤原北家]])を自称し、各種系図もこれに沿った内容となっている<ref name="児玉幸多編 日本史年表・地図" />。だが[[昭和]]34年([[1959年]])、[[志方正和]]は公家が残した日記や『[[源氏物語]]』を研究した結果、隆家の後裔とするのは仮冒であり、政則について、肥後住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代([[延久]]2年([[1070年]])頃)に[[菊池市|菊池]]周辺に土着したとする説を発表し、この説が現在まで有力とされており、歴史学者の[[石井進]]もこの説を支持している。ただ一方では近年、政則の初名に「基定」と記された系図<ref>[https://zenkoku-kikuchinokai.jp/origin/ 菊池の起原(全国菊池の会)]</ref>の存在が公表され、これを[[尊卑分脈]]<ref>[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100000089/viewer/1034 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(新日本古典籍総合データベース)]</ref>にある隆家の五男・基定([[肥前守]][[従五位下]])のことではないかとする新説と共に、長男・[[菊池則隆|則隆]]に加え、[[従五位下]][[近衛府|右近将監]]「則忠」、[[従五位下]]武部少輔「則宗」、[[従五位下]][[肥前守]]「武重」という3人の子の存在が新たに浮上した。(詳しくは[[菊池氏]]の項も参照)


[[藤原実資]]の牧司や太宰大監・[[長和]]2年([[1013年]])に対馬守、長和4年([[1015年]])に肥前守などを歴任し、[[藤原定任]]殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。
[[藤原実資]]の牧司や太宰大監・[[長和]]2年([[1013年]])に対馬守、長和4年([[1015年]])に肥前守などを歴任し、[[藤原定任]]殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。

2023年8月11日 (金) 00:07時点における版

 
藤原政則
時代 平安時代中期
生誕 長徳3年(997年
死没 康平7年(1064年
改名 基定(初名)→政則
別名 正行、正則、蔵規
官位 大宰少弐肥前守対馬守
氏族 藤原北家中関白家?、紀氏?[1]
父母 父:藤原隆家?[2]藤原経輔?[3]高木文定(文貞)?[4]
菊池則隆、則忠、則宗、武重
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藤原 政則(ふじわら の まさのり)は、平安時代中期の武将藤原北家中関白家権大納言藤原経輔の子[3]、あるいは経輔の父・隆家の子[2]、さらに肥後守・高木文貞(文定)の子ともされている[4]菊池氏の祖菊池則隆の父。

略歴

長徳3年(997年)に但馬国にて誕生。初名は基定。別名は蔵規(まさのり)とも記述される。

寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇で戦功のあった大宰権帥藤原隆家の下で大宰少弐であり、一説にはこの隆家が但馬国に流された時の子息ともしている[2]

菊池氏は、隆家の孫とされる則隆肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図もこれに沿った内容となっている[2]。だが昭和34年(1959年)、志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、隆家の後裔とするのは仮冒であり、政則について、肥後住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代(延久2年(1070年)頃)に菊池周辺に土着したとする説を発表し、この説が現在まで有力とされており、歴史学者の石井進もこの説を支持している。ただ一方では近年、政則の初名に「基定」と記された系図[5]の存在が公表され、これを尊卑分脈[6]にある隆家の五男・基定(肥前守従五位下)のことではないかとする新説と共に、長男・則隆に加え、従五位下右近将監「則忠」、従五位下武部少輔「則宗」、従五位下肥前守「武重」という3人の子の存在が新たに浮上した。(詳しくは菊池氏の項も参照)

藤原実資の牧司や太宰大監・長和2年(1013年)に対馬守、長和4年(1015年)に肥前守などを歴任し、藤原定任殺害の嫌疑を受けて追捕をされたことも記述されている。

系譜

脚注

注釈・出典

  1. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店1963年刊行)による。また同書では菊池は古くは久々知と読まれていたことを根拠に久々智姓(『新撰姓氏録』摂津皇別では阿部氏と同祖とする)との関係も示唆している。
  2. ^ a b c d 児玉幸多編『日本史年表・地図』吉川弘文館版発行、2010年の藤原氏系図では政則を隆家の実子としている。
  3. ^ a b 経輔は寛弘3年(1006年) 生まれのため、長徳3年(997年)生まれの政則とは年代的に父子として一致しないため、系譜的に矛盾がある。
  4. ^ a b 尊卑分脈
  5. ^ 菊池の起原(全国菊池の会)
  6. ^ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(新日本古典籍総合データベース)

参考文献

  • 澁谷龍『探求 菊池一族 -古系圖に見える真実-』(ミヤオビパブリッシング、2014年)

関連項目