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'''七大貴族'''(ななだいきぞく、[[英語|英]]:Seven Great Houses of Iran)は、中世イラン([[パルティア|アルシャク朝]]、[[サーサーン朝]])期の有力な[[貴族]]層を指して用いられる呼称{{sfn|Pourshariati|2008|p=44}}。特にサーサーン朝時代の貴族層を指して重要視する研究者がいる一方、サーサーン朝研究において常に使用される用語であるわけではない{{refnest|group="注釈"|イランの「Greate Houses」を重要視し、これに深く言及する学者には例えばPourshariati{{sfn|Pourshariati|2008|p=}}がいる。彼女はエンサイクロペディア・イラニカのカーレーン家(Kārin)の項目を担当しており、その説明においてこの用語を用いている{{sfn|Pourshariati|2017|p=}}。日本の学者では[[青木健 (歴史学者)|青木健]]などが著書『新ゾロアスター教史』([[刀水書房]] 2019年)等で「七大貴族」という用語を使用している。一方で、Eberhard W. Sauer『Sasanian Persia: Between Rome and the Steppes of Eurasia』(Edinburgh University Press2017)、[[足利惇氏]]『世界の歴史 9 ペルシア帝国』(講談社 1977年)や[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]]『世界の歴史 4 オリエント世界の発展』(中央公論社 1997)などはイラン史の概説を行うにあたって特にこの用語は使用していない。}}。
'''七大貴族'''(ななだいきぞく)は、7つのパルティア一族としても知られるイランの7つの大[[貴族]]{{sfn|Pourshariati|2008|p=44}}。[[サーサーン朝]]と同盟を結んだパルティア起源の7つの封建貴族であった。


== ハプタ(7) ==
七大貴族は、[[パルティア]]以来イランの政治に積極的な役割を果たしていた{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。しかし、スレン家とカレン家だけが、パルティア時代まで遡ることができる情報源で実際に証明されていない。七大貴族は、伝説のカヤニアン王Vishtaspaによってイランの領主として確認されたと主張した{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。
ハプタ、あるいはハフト(''hapta''/''haft''、7)という数字は3、5と並び、インド・イラン人(アーリヤ人)の文化において重要な意味を持った{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。[[ゾロアスター教]]や[[アフラ・マズダ]]の信仰に関わる伝承には随所にこの数字が登場する。聖典『[[アヴェスター]]』はそれぞれ7つの章でできた3つのグループからなる全21巻本として成立したと伝わり{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}、世界は人間界フワニラサ(xvaniraθa)とそれを取り囲む6つの領域という7つのカルシュワル(Haft karŠvar/keŠvar)からなると理解された{{sfn|ボイス|2010|p=37|ref=ボイス 2010}}{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。創世神話では神々は世界を7つの過程に分けて造り上げたとされ{{sfn|ボイス|2010|p=45|ref=ボイス 2010}}、最高神アフラ・マズダは自らの聖霊を通して6柱の神格を生み出し、アフラ・マズダ自身と合わせた7柱の神格が世界を構成する7つの創造物を創造した{{sfn|ボイス|2010|p=60|ref=ボイス 2010}}。そして預言者[[ザラスシュトラ]](ゾロアスター)とその弟子たちも併せて「7人」であった{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。[[サーサーン朝]]の創設者[[アルダシール1世]]がハフトバードの城を攻略した際にもまた、7人の有力者(メハーン, mehān)を伴っていたと伝わる{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。


この7という数字への神聖視は[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)時代には確固として存在した。『[[旧約聖書]]』「[[エズラ記]]」7:14には「あなた(ハカーマニシュ朝の王アルタシャスタ/アルタクセルクセス)は、自分の手にあるあなたの神の律法に照して、ユダとエルサレムの事情を調べるために、王および七人の議官によってつかわされるのである」という記載がある。また、[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』では、ハカーマニシュ朝の王位が簒奪者[[スメルディス]](バルディヤ)に奪われた際に、それを排除するために7人の同志が集まってスメルディスを排除し、最後は計略によって[[ダレイオス1世|ダーラヤワウ1世]](ダレイオス1世)が王位に就いたことが説明されている<ref name="ヘロドトス1971巻3§70">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻3§71, 松平訳 p, 331.</ref>。
[[サーサーン朝]]時代の宮廷では、七大貴族が重要な役割を果たした。[[ホルミズド4世]]の有名な軍司令官である[[バフラーム・チョービン]](在位:590年 - 591年)は、ミフラーン家出身である。


7という数字と実際の数は厳密に対応しない場合もあり、[[フェルドウスィー]]が伝えるイランの英雄[[ロスタム]]の伝説では、ロスタムと共に10人の仲間が[[トゥーラーン]]の英雄[[アフラースィヤーブ]]と戦っているが、彼らはたびたび''haft''(7)と呼ばれている{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。
== 一覧 ==
7家の家名と領土は以下の通り。
*[[アスパーフバド家]](Ispahbudhan)
**[[ゴルガーン]]{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}}
*[[ヴァラズ家]](Varaz)
**[[:en:Greater Khorasan]]
*[[カレン家]](Karen)
**[[ニハーヴァンド]]{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}}
*[[ミフラーン家]](Mihran)
**[[セムナーン]]
*[[スパンディアード家]](Spandiyadh)
**[[シャフレ・レイ]]
*[[ジク家]](Zik)
**[[:en:Adurbadagan]]
*[[スレン家]](Suren)
**[[:en:Sakastan]]{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}}


== アルシャク朝とサーサーン朝の貴族家系 ==
== 出典 ==
この「7」という数字は[[パルティア|アルシャク朝]](アルサケス朝、パルティア)・[[サーサーン朝]]時代の有力な貴族に対しても適用された。[[タバリー]]によれば彼らはカイ・ヴィシュタースプ(Kay Vištāsp)によって7つの邦の領主として定められたという{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}。

実際にその「7つ」の家系をどのように定義するのかは曖昧である。[[エンサイクロペディア・イラニカ]]においてはタバリーを引いてカイ・ヴィシュタースプに領主として認められたと主張した次の7つの家系を挙げている。
* [[スーレーン家|スーレーン]](''Surēn''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}/''Sūren''{{sfn|Lukonin|1983|p=703}})
* [[カーレーン家|カーレーン]](''Kāren''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}{{sfn|Lukonin|1983|p=703}}/''Karin''{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}})
* [[ジーク家|ジーク]](''Zig''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}/''Zīk''{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}})
* [[ミフラーン家|ミフラーン]](''Mehrān''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}/''Mihrān''{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}})
* [[アスパーフバド家|アスパーフバド]](''Spahbad''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}/''Ispahbudhān''{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}})
* [[スパンディアード家|スパンディアード]](''Spandiād''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}}/''Spandīyādh''{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}})またはイスファンディヤール(''Isfandīyār''{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}})
* [[ナハーバド家|ナハーバド]](''Nahābad''{{sfn|Shahbazi|2002|pp=511-515}})

「大貴族」として史料上に登場する家系/氏族は必ずしもこの一覧と合致せず、また全ての家系が常に同じように有力であったわけでもない。これらの家系のうち、アルシャク朝(前247年-後224年)時代の記録に確実に登場するのはスーレーン家とカーレーン家のみである{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}。[[プルタルコス]]の記録によれば、スーレーン家の構成員は貴族の中の第一位であり、アルシャク朝の戴冠式において王に王冠を授ける特権を有していたという{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}。アルシャク朝の「諸王の王」に近しいもう一つの家系であったカーレーン家についての記録を残しているのは[[タキトゥス]]であり、パルティア軍の軍司令官の一人としてカーレーン家の者が言及されている{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}。

アルシャク朝時代のローマ・ギリシアの記録に登場する上記の2家系に加えて、アルシャク朝後期には既に有力であったと考えられる一族もある。[[デンマーク]]の学者{{仮リンク|アーサー・クリステンセン|en|Arthur Christensen}}の見解(Pourshariatiのまとめに従う)によれば、アルシャク朝時代にもサーサーン朝(226年-651年)期と同じような高い地位にあった家系はスーレーン家、カーレーン家、アスパーフバド家の3つのみであった{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}}。この3家系はパフラヴィー(Pahlav)またはパルティア人という称号を帯びていた{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}}{{refnest|group="注釈"|5世紀の[[アルメニア]]の歴史家{{仮リンク|モウゼス・ホレナツィ|en|Movses Khorenatsi}}はこの3家系の起源をアルシャク朝の王室と結びつける記録を残している。彼によればアルシャク朝の王アルシャヴィル(Arshavir)の子供にスーレーン、カーレーン、アルタシェス(Artashes)、姉妹のコシェム(Koshm)がいたという{{sfn|Lukonin|1983|p=705}}。このアルシャヴィルは通常、[[フラーテス4世|フラハート4世]](プラアテス4世、在位:前40年/38年頃-紀元前2年)に同定される。そしてコシェムは「騎兵司令官([[スパーフベド]])」と結婚した。彼らは合意によってアルタシェスが王となり、カーレーン、スーレーン、そしてコシェム・アスパーフベドは東方の地を与えられたという{{sfn|Lukonin|1983|p=705}}。このモウゼスの記録は一連の時代錯誤と通俗的な語源説、作為的な系譜のためにほとんど史実性を見出すことはできない{{sfn|Lukonin|1983|p=705}}。}}。

サーサーン朝の初期の王([[アルダシール1世]]、[[シャープール1世]])が[[ナクシェ・ロスタム]]に残した碑文では{{仮リンク|ウズルガーン|en|Wuzurgan}}(''Wuzurgān''/''Buzurgān'')と呼ばれる貴族階級が現れる。これらの中で最上位と位置づけられていたのはヴァラーズ(''Varaz'')家、スーレーン家、カーレーン家の3家系と、アンディガーン(''Andigan'')家の支配者(''hwtwy'')たちであった。この「貴族」たちは''štld<nowiki>'</nowiki>ly''および''BR BYT<nowiki>'</nowiki>''と呼ばれる地位の直後に続いてリストされている{{sfn|Lukonin|1983|p=703}}。より後世の史料ではこのリストにスパンディアード家とミフラーン家が加えられており、彼らがアルシャク朝時代からその地位にあったものとしているが、これは恐らく事実ではない{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}。ミフラーン家への最初の言及はシャープール1世の碑文の宮廷人のリストの最後尾部分に「アルシャタト(''Arshtat'')、書記、レイ(Ray)のミフラーン」とあるものである{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}。ミフラーンは「ミフル(Mihr)の息子」と訳すことが可能であろう{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}{{refnest|group="注釈"|ナクシェ・ロスタムの碑文には、こうした最重要の貴族家系に加えて、20以上の貴族家系のメンバーが記載されている{{sfn|Lukonin|1983|p=705}}。}}。

彼らがサーサーン朝期に高位の人物を輩出していることは確かであり、[[ヤズデギルド2世]]の最初の宰相であった{{仮リンク|ミフル・ナルセ|en|Mihr Narseh}}はスパンディアード家{{refnest|group="注釈"|アルメニアの歴史家Łazar P'arpec'iは彼をスーレーン家と結びつけている{{sfn|Pourshariati|2008|p=60}}。また、タバリーによれば彼はミフラーン家の出身である。}}の出身であり、ホルミズド4世の時代に反乱を起こした著名な将軍{{仮リンク|バフラーム・チョービン|en|Bahram Chobin}}や、簒奪者として短期間王位を担った[[シャフルバラーズ]]はミフラーン家に属していた{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}{{sfn|Pourshariati|2008|p=181}}。恐らく彼らは自らの家系の由緒正しさを強調するために、より古い時代に遡る系譜を作成した{{sfn|Lukonin|1983|p=704}}。

これらの大貴族の性質を示すのが[[ペルシア|ペルシス]]の「王」[[パーパク]](サーサーン朝の建国者アルダシール1世の父)の宮廷における貴族とアルダシール1世の宮廷における貴族たちの顔ぶれである。パーパクの宮廷においては数多くのペルシス土着の高貴な家系が言及されているが、彼らはアルダシール1世の時代のリストではスーレーン、カーレーン、ヴァラーズ、そしてアンディガーンといった「大貴族」によってはじき出されている{{sfn|Lukonin|1983|p=706}}。これは[[メルヴ]]、[[ケルマーン州|ケルマーン]](カルマニア)、[[シースターン]](サカスターン)、[[イベリア王国|イベリア]](グルジア)、[[アディアベネ]]の王たちがサーサーン朝の最も名誉ある地位を持って言及されるようになったことと全く同じである{{sfn|Lukonin|1983|p=706}}。また、これらの大貴族は広大な所領を所持していたとされ、サーサーン朝期にはカーレーンは[[ニハーヴァンド]]([[メディア王国|メディア]])地域に、スーレーンは[[シースターン]]に、そしてアスパーフバドは[[ディヒスターン]]と[[ゴルガーン]]に居住していたことが知られている。よって、大貴族たちはサーサーン朝の建国に伴って自律性を維持したままその国家機構に加わったと考えられる{{sfn|Lukonin|1983|p=706}}{{sfn|Pourshariati|2008|p=49}}。サーサーン朝後期に帝国の東西南北の方位毎に置かれた軍司令官([[スパーフベド]])の地位もまたこれらの家系の出身者によって占められていた([[スパーフベド]]を参照)。

== 脚注 ==

=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=[[ヘロドトス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref=ヘロドトス 1971 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[メアリー・ボイス]] |translator=[[山本由美子 (歴史学者)|山本由美子]]| title=ゾロアスター教 |publisher=平凡社 |date=2010-2 |isbn=978-4-06-291980-7 |ref=ボイス 2010 }}
* {{citation|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge UP|location=London|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|chapter=Political, Social and Administrative Institutions|last=Lukonin|first=V. G.|pages=681–747}}
* {{citation|title=Cambridge History of Iran|volume=3.2|year=1983|publisher=Cambridge UP|location=London|editor-last=Yarshater|editor-first=Ehsan|chapter=Political, Social and Administrative Institutions|last=Lukonin|first=V. G.|pages=681–747}}
* {{citation|last=Yarshater|first=Ehsan|chapter=Esfandīār (2)|title=Encyclopedia Iranica, vol. 8|location=Costa Mesa|publisher=Mazda|year=1997|pages=592–593}}.
* {{citation|last=Yarshater|first=Ehsan|chapter=Esfandīār (2)|title=Encyclopedia Iranica, vol. 8|location=Costa Mesa|publisher=Mazda|year=1997|pages=592–593}}.
* {{citation|last=Pourshariati|first=Parvaneh|year=2008|title=Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran|location=London|publisher=I.B. Tauris}}.
* {{citation|last=Pourshariati|first=Parvaneh|year=2008|title=Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran|location=London|publisher=I.B. Tauris}}.
* {{cite encyclopedia | title = Kārin | last = Pourshariati | first = Parvaneh | authorlink = | url = http://www.iranicaonline.org/articles/karin | editor-last = | editor-first = | editor-link = | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica | pages = | location = | publisher = | year = 2017 | isbn = |ref=harv}}
* {{cite encyclopedia | title = Haft | last = Shahbazi | first = A. Shapur | authorlink = | url = http://www.iranicaonline.org/articles/haft | editor-last = | editor-first = | editor-link = | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica, Vol. XI, Fasc. 5 | pages = 511-515 | location = | publisher = | year = 2002 | isbn = |ref=harv}}
* {{cite encyclopedia | title = Haft | last = Shahbazi | first = A. Shapur | authorlink = | url = http://www.iranicaonline.org/articles/haft | editor-last = | editor-first = | editor-link = | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica, Vol. XI, Fasc. 5 | pages = 511-515 | location = | publisher = | year = 2002 | isbn = |ref=harv}}



2020年3月25日 (水) 11:31時点における版

七大貴族(ななだいきぞく、:Seven Great Houses of Iran)は、中世イラン(アルシャク朝サーサーン朝)期の有力な貴族層を指して用いられる呼称[1]。特にサーサーン朝時代の貴族層を指して重要視する研究者がいる一方、サーサーン朝研究において常に使用される用語であるわけではない[注釈 1]

ハプタ(7)

ハプタ、あるいはハフト(hapta/haft、7)という数字は3、5と並び、インド・イラン人(アーリヤ人)の文化において重要な意味を持った[4]ゾロアスター教アフラ・マズダの信仰に関わる伝承には随所にこの数字が登場する。聖典『アヴェスター』はそれぞれ7つの章でできた3つのグループからなる全21巻本として成立したと伝わり[4]、世界は人間界フワニラサ(xvaniraθa)とそれを取り囲む6つの領域という7つのカルシュワル(Haft karŠvar/keŠvar)からなると理解された[5][4]。創世神話では神々は世界を7つの過程に分けて造り上げたとされ[6]、最高神アフラ・マズダは自らの聖霊を通して6柱の神格を生み出し、アフラ・マズダ自身と合わせた7柱の神格が世界を構成する7つの創造物を創造した[7]。そして預言者ザラスシュトラ(ゾロアスター)とその弟子たちも併せて「7人」であった[4]サーサーン朝の創設者アルダシール1世がハフトバードの城を攻略した際にもまた、7人の有力者(メハーン, mehān)を伴っていたと伝わる[4]

この7という数字への神聖視はハカーマニシュ朝(アケメネス朝)時代には確固として存在した。『旧約聖書』「エズラ記」7:14には「あなた(ハカーマニシュ朝の王アルタシャスタ/アルタクセルクセス)は、自分の手にあるあなたの神の律法に照して、ユダとエルサレムの事情を調べるために、王および七人の議官によってつかわされるのである」という記載がある。また、ヘロドトスの『歴史』では、ハカーマニシュ朝の王位が簒奪者スメルディス(バルディヤ)に奪われた際に、それを排除するために7人の同志が集まってスメルディスを排除し、最後は計略によってダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)が王位に就いたことが説明されている[8]

7という数字と実際の数は厳密に対応しない場合もあり、フェルドウスィーが伝えるイランの英雄ロスタムの伝説では、ロスタムと共に10人の仲間がトゥーラーンの英雄アフラースィヤーブと戦っているが、彼らはたびたびhaft(7)と呼ばれている[4]

アルシャク朝とサーサーン朝の貴族家系

この「7」という数字はアルシャク朝(アルサケス朝、パルティア)・サーサーン朝時代の有力な貴族に対しても適用された。タバリーによれば彼らはカイ・ヴィシュタースプ(Kay Vištāsp)によって7つの邦の領主として定められたという[4]

実際にその「7つ」の家系をどのように定義するのかは曖昧である。エンサイクロペディア・イラニカにおいてはタバリーを引いてカイ・ヴィシュタースプに領主として認められたと主張した次の7つの家系を挙げている。

「大貴族」として史料上に登場する家系/氏族は必ずしもこの一覧と合致せず、また全ての家系が常に同じように有力であったわけでもない。これらの家系のうち、アルシャク朝(前247年-後224年)時代の記録に確実に登場するのはスーレーン家とカーレーン家のみである[11]プルタルコスの記録によれば、スーレーン家の構成員は貴族の中の第一位であり、アルシャク朝の戴冠式において王に王冠を授ける特権を有していたという[11]。アルシャク朝の「諸王の王」に近しいもう一つの家系であったカーレーン家についての記録を残しているのはタキトゥスであり、パルティア軍の軍司令官の一人としてカーレーン家の者が言及されている[11]

アルシャク朝時代のローマ・ギリシアの記録に登場する上記の2家系に加えて、アルシャク朝後期には既に有力であったと考えられる一族もある。デンマークの学者アーサー・クリステンセン英語版の見解(Pourshariatiのまとめに従う)によれば、アルシャク朝時代にもサーサーン朝(226年-651年)期と同じような高い地位にあった家系はスーレーン家、カーレーン家、アスパーフバド家の3つのみであった[10]。この3家系はパフラヴィー(Pahlav)またはパルティア人という称号を帯びていた[10][注釈 2]

サーサーン朝の初期の王(アルダシール1世シャープール1世)がナクシェ・ロスタムに残した碑文ではウズルガーン英語版Wuzurgān/Buzurgān)と呼ばれる貴族階級が現れる。これらの中で最上位と位置づけられていたのはヴァラーズ(Varaz)家、スーレーン家、カーレーン家の3家系と、アンディガーン(Andigan)家の支配者(hwtwy)たちであった。この「貴族」たちはštld'lyおよびBR BYT'と呼ばれる地位の直後に続いてリストされている[9]。より後世の史料ではこのリストにスパンディアード家とミフラーン家が加えられており、彼らがアルシャク朝時代からその地位にあったものとしているが、これは恐らく事実ではない[11]。ミフラーン家への最初の言及はシャープール1世の碑文の宮廷人のリストの最後尾部分に「アルシャタト(Arshtat)、書記、レイ(Ray)のミフラーン」とあるものである[11]。ミフラーンは「ミフル(Mihr)の息子」と訳すことが可能であろう[11][注釈 3]

彼らがサーサーン朝期に高位の人物を輩出していることは確かであり、ヤズデギルド2世の最初の宰相であったミフル・ナルセ英語版はスパンディアード家[注釈 4]の出身であり、ホルミズド4世の時代に反乱を起こした著名な将軍バフラーム・チョービン英語版や、簒奪者として短期間王位を担ったシャフルバラーズはミフラーン家に属していた[11][14]。恐らく彼らは自らの家系の由緒正しさを強調するために、より古い時代に遡る系譜を作成した[11]

これらの大貴族の性質を示すのがペルシスの「王」パーパク(サーサーン朝の建国者アルダシール1世の父)の宮廷における貴族とアルダシール1世の宮廷における貴族たちの顔ぶれである。パーパクの宮廷においては数多くのペルシス土着の高貴な家系が言及されているが、彼らはアルダシール1世の時代のリストではスーレーン、カーレーン、ヴァラーズ、そしてアンディガーンといった「大貴族」によってはじき出されている[15]。これはメルヴケルマーン(カルマニア)、シースターン(サカスターン)、イベリア(グルジア)、アディアベネの王たちがサーサーン朝の最も名誉ある地位を持って言及されるようになったことと全く同じである[15]。また、これらの大貴族は広大な所領を所持していたとされ、サーサーン朝期にはカーレーンはニハーヴァンドメディア)地域に、スーレーンはシースターンに、そしてアスパーフバドはディヒスターンゴルガーンに居住していたことが知られている。よって、大貴族たちはサーサーン朝の建国に伴って自律性を維持したままその国家機構に加わったと考えられる[15][10]。サーサーン朝後期に帝国の東西南北の方位毎に置かれた軍司令官(スパーフベド)の地位もまたこれらの家系の出身者によって占められていた(スパーフベドを参照)。

脚注

注釈

  1. ^ イランの「Greate Houses」を重要視し、これに深く言及する学者には例えばPourshariati[2]がいる。彼女はエンサイクロペディア・イラニカのカーレーン家(Kārin)の項目を担当しており、その説明においてこの用語を用いている[3]。日本の学者では青木健などが著書『新ゾロアスター教史』(刀水書房 2019年)等で「七大貴族」という用語を使用している。一方で、Eberhard W. Sauer『Sasanian Persia: Between Rome and the Steppes of Eurasia』(Edinburgh University Press2017)、足利惇氏『世界の歴史 9 ペルシア帝国』(講談社 1977年)や山本由美子『世界の歴史 4 オリエント世界の発展』(中央公論社 1997)などはイラン史の概説を行うにあたって特にこの用語は使用していない。
  2. ^ 5世紀のアルメニアの歴史家モウゼス・ホレナツィ英語版はこの3家系の起源をアルシャク朝の王室と結びつける記録を残している。彼によればアルシャク朝の王アルシャヴィル(Arshavir)の子供にスーレーン、カーレーン、アルタシェス(Artashes)、姉妹のコシェム(Koshm)がいたという[12]。このアルシャヴィルは通常、フラハート4世(プラアテス4世、在位:前40年/38年頃-紀元前2年)に同定される。そしてコシェムは「騎兵司令官(スパーフベド)」と結婚した。彼らは合意によってアルタシェスが王となり、カーレーン、スーレーン、そしてコシェム・アスパーフベドは東方の地を与えられたという[12]。このモウゼスの記録は一連の時代錯誤と通俗的な語源説、作為的な系譜のためにほとんど史実性を見出すことはできない[12]
  3. ^ ナクシェ・ロスタムの碑文には、こうした最重要の貴族家系に加えて、20以上の貴族家系のメンバーが記載されている[12]
  4. ^ アルメニアの歴史家Łazar P'arpec'iは彼をスーレーン家と結びつけている[13]。また、タバリーによれば彼はミフラーン家の出身である。

出典

  1. ^ Pourshariati 2008, p. 44.
  2. ^ Pourshariati 2008.
  3. ^ Pourshariati 2017.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n Shahbazi 2002, pp. 511–515.
  5. ^ ボイス 2010, p. 37.
  6. ^ ボイス 2010, p. 45.
  7. ^ ボイス 2010, p. 60.
  8. ^ ヘロドトス, 巻3§71, 松平訳 p, 331.
  9. ^ a b c Lukonin 1983, p. 703.
  10. ^ a b c d e f g h i Pourshariati 2008, p. 49.
  11. ^ a b c d e f g h Lukonin 1983, p. 704.
  12. ^ a b c d Lukonin 1983, p. 705.
  13. ^ Pourshariati 2008, p. 60.
  14. ^ Pourshariati 2008, p. 181.
  15. ^ a b c Lukonin 1983, p. 706.

参考文献

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  • メアリー・ボイス 著、山本由美子 訳『ゾロアスター教』平凡社、2010年2月。ISBN 978-4-06-291980-7 
  • Lukonin, V. G. (1983), “Political, Social and Administrative Institutions”, in Yarshater, Ehsan, Cambridge History of Iran, 3.2, London: Cambridge UP, pp. 681–747 
  • Yarshater, Ehsan (1997), “Esfandīār (2)”, Encyclopedia Iranica, vol. 8, Costa Mesa: Mazda, pp. 592–593 .
  • Pourshariati, Parvaneh (2008), Decline and Fall of the Sasanian Empire: The Sasanian-Parthian Confederacy and the Arab Conquest of Iran, London: I.B. Tauris .
  • Pourshariati, Parvaneh (2017). "Kārin". Encyclopaedia Iranica. {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  • Shahbazi, A. Shapur (2002). "Haft". Encyclopaedia Iranica, Vol. XI, Fasc. 5. pp. 511–515. {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)