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[[ファイル:Donner Party Memorial.jpg|一行が冬を越した[[:en:Donner Lake|トラッキー湖]]畔に作られたモニュメント。台座の高さは、当地の雪の深さを表している。|200px|thumb]]
'''ドナー隊'''(Donner Party)は、[[1846年]]に[[アメリカ合衆国]]の[[イリノイ州]]から[[カリフォルニア]]を目指して出発した開拓民の一団である。


== 概要 ==
彼らはドナー隊は、リーダーの[[:en:George Donner|ジョージ・ドナー]]にちなみ、その名を持つ。イリノイ州を夏に出発した彼らは、苦しい旅路の中で砂漠地帯での渇きや[[インディアン]]の襲撃によって数名の犠牲者を出し、最終的には[[シエラネバダ山脈 (アメリカ)|シエラネバダ山脈]]山中で豪雪に阻まれ、山中での越冬を余儀なくされた。翌年春に全員が救出されるまで、総勢87名のうち実に40名が[[餓死]]、[[凍死]]し、残った者は[[カニバリズム]]によって命をつないだ。その事件は[[西部開拓時代]]における悲劇として、今なお語り伝えられている。


[[File:PatrickBreenDiaryPage28.jpg|thumb|alt=Refer to caption|28ページに渡るパトリック・ブリーンの日記には、1847年2月の状況が記されている。 "昨日、マーフィー夫人はミルトを食べようと提案した。私はまだそのように考えられない。これは悲劇というものだ。"(原文ママ)]]
== 経過 ==
[[ファイル:Donner route map.png|ドナー隊が取ったルート。[[オレゴン・トレイル]](紫色の線)を中途まで進んだ後、[[グレートソルトレイク]]の南部を近道して(オレンジ色の線)、[[カリフォルニア・トレイル]](緑色の線)を進もうとしていた。しかし、山中のトラッキー湖畔で足止めを余儀なくされた。|400px|thumb]]


'''ドナー隊''' (Donner Party)、あるいは'''ドナー・リード隊'''(Donner-Reed Party) とは、[[1846年]]の春、 [[アメリカ]]の東部から[[カリフォルニア]]を目指して出発した開拓民のグループである。
彼らは旅程の遅れのために、1846年晩秋から47年早春まで [[シエラネバダ山脈 (アメリカ)|シエラネバダ山脈]]山中での越冬を余儀なくされ、過酷な環境の中で多数の餓死者や凍死者を出した。死者が続出するなか、残った者は生き残るため、必然的に[[カニバリズム]](人肉食)に走らざるを得なかった。


アメリカ西部への幌馬車による旅は、大抵の場合は6ヶ月を必要とする。しかしドナー隊は[[:en:Hastings Cutoff|ヘスティング・カットオフ]]と呼ばれる近道を選択したところ悪路に阻まれ、さらに[[:en:Wasatch Mountains|ワサッチ山脈]] や [[グレートソルト湖]]周辺の砂漠地帯を越え、 [[:en:Humboldt River|フンボルト川]] の谷に従って進み[[ネバダ州]]に至る間に多くの幌馬車と家畜を失い、グループ内にも分裂が生じた。


1846年11月、一行はカリフォルニアに至る最後の障壁・シエラネバダ山脈に差し掛かる。
しかし早い冬の訪れに伴う大雪に阻まれ、海抜2000mに位置するトラッキー湖(現在では、 [[:en:Donner Lake|ドナー湖]]と呼ばれている) 湖畔での越冬を余儀なくされる。食料は早い段階で尽き、幾人かは雪の山脈を越えてカリフォルニアに助けを求めた。しかし救援隊は1847年2月になるまで到着せず、結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアの地を踏んだのは48人だった。
歴史家は、この事件を西部開拓史における壮大な悲劇と位置づけている<ref>McGlashan, p. 16; Stewart, p. 271.</ref>。

==時代背景==
[[File:Humboldt River Papa 2.jpg|right|thumb|ネバダ州のフンボルト川で野営する移民団。1859年]]
1840年代に至り、アメリカ西部の[[オレゴン]] やカリフォルニアへの入植を目指して東部を発つ人々は劇的に増加した。中にはパトリック・ブリーンのように、[[カトリック]]としての信仰生活を体現するべく新天地を目指す者もいたが<ref name=Enright1954>Enright, John Shea (December 1954). "The Breens of San Juan Bautista: With a Calendar of Family Papers", ''California Historical Society Quarterly'' '''33''' (4) pp. 349?359.</ref>、大抵の者は白色人種によるアメリカ大陸全土の領有を正当化する思想「[[マニフェスト・デスティニー]]」の名の下に、自発的に西部を目指した<ref>Rarick, p. 11.</ref> 。

彼ら移民を乗せた数多くの[[:en:Conestoga wagon|幌馬車]]は、[[ミズーリ州]]の町・[[インディペンデンス (ミズーリ州)|インディペンデンス]]を出発点とし、北米大陸の大分水嶺・ [[:en:Continental Divide|コンティネンタル・ディバイド]]を越える街道[[オレゴン・トレイル]]を1日15マイル(24km)<ref name=rarick18and24and45>Rarick, pp. 18, 24, 45.</ref>のスピードで進み、4~6ヶ月を費やして西部にたどり着く<ref name=bagley130>Bagley, p. 130.</ref>。 旅行者たちは、[[ロッキー山脈]]越えのルートとして[[ワイオミング州]]にある峠・ [[:en:South Pass|サウス・パス]]を通過した後<ref name=rarick48>Rarick, p. 48.</ref> 、それぞれの目的地に至るルートを選択した<ref name=rarick45>Rarick, p. 45.</ref>。

初期の移民である [[:en:Lansford Hastings|ランスフォード・ヘスティングス]] は、1842年にカリフォルニアに入植するとともに、さらなる定住者の増加を促すため、''オレゴン・カルフォルニア移民への手引書''を出版した<ref name=rarick47/> 。
その著書において彼は、カリフォルニア行きのルートとして [[グレートベイスン]]を越え、さらに [[:en:Wasatch Mountains|ワサッチ山脈]] と [[グレートソルト湖]]を通過する旅程を延べている<ref name=rarick69/>。
しかしながらヘスティング自身は、1846年始めにおけるカリフォルニアから [[:en:Fort Bridger|ブリッジャー砦]]までの旅において、自身が提案したルートを使用してはいなかった。なお、ブリッジャー砦とは、探検家の [[ジム・ブリッジャー]] が相棒の [[:en:Pierre Louis Vasquez|ピエール・ルイ・バスケス]] と共にワイオミング州の[[:en:Blacks Fork|ブラックフォーク]]に設立した交易所である。
ヘスティングスは自身が提案した近道を旅行者たちに伝授すべく、この砦に滞在していた<ref name=rarick47>Rarick, p. 47.</ref> 。さらに1846年、ヘスティングスは2度にわたり、2人の男にグレートソルト湖南部を通るルートを熱心に進めている<ref name=rarick69/><ref group=note> (Rarick, p. 69)</ref>。

カリフォルニア行きの旅における最大の難所は、最後の100マイル(160km)に渡って繰り広げられる [[シエラネバダ山脈 (アメリカ)|シエラネバダ山脈]]横断である。 この山脈には、海抜12000フィート(3700m)を越す峰が500以上も聳え<ref name=rarick105>Rarick, p. 105.</ref>、東側は非常に急な斜面になっている。さらに山自体の高度と太平洋に近い立地条件ゆえ、北米大陸一番の豪雪地帯である<ref name=rarick106>Rarick, p. 106.</ref>。これら難所を踏破するためには、季節との兼ね合いを考えての旅行の計画を立てることが最も重要である。文明世界の[[ミズーリ州]]を抜け、荒野を横断してオレゴンやカリフォルニアを目指す。春の雨は道を泥沼に変えて幌馬車を阻み、9月以降の山では猛吹雪が吹き荒れる。
なお、動力が牛馬である以上、周囲に飼い葉が生い茂る季節のうちに旅を終えなくてはならない。

== 参加者たち ==
1846年、春。ミズーリ州[[インディペンデンス (ミズーリ州)|インディペンデンス]]の町から500もの幌馬車が西部を目指し出発した。<ref name=rarick33>Rarick, p. 33.</ref>その最後尾が<ref name=rarick18>Rarick, p. 18.</ref>、ドナー一家とリード一家、さらに彼らの雇い人、総勢32人が乗り込む9台の幌馬車だった。時に5月12日のことである<ref>Rarick, p. 8</ref>。
[[:en:George Donner|ジョージ・ドナー]] は元々[[ノースカロライナ州]]の住民だったが、[[ケンタッキー州]]、そして[[テキサス州]] という具合に、次第次第に西へと居を移していた。1846年はじめの時点で、ジョージ・ドナーは [[イリノイ州]]の[[スプリングフィールド (イリノイ州)|スプリングフィールド]] に住む62歳の農民だった。彼は妻のタムゼン(Tamusen)との間に3歳から13歳まで5人の娘を儲けていた。また、ドナーの弟・ジェイコブ(Jacob)も旅に参加していた。ジェイコブは妻との間に9歳を頭に5人の子を儲け、さらに養子として10代の子供を2人養っていた<ref>Stewart, p. 19.</ref>。
[[File:JamesMargaretReed.jpg|thumb|ジェームズ・リードと妻のマーガレット|alt=A man and woman, shown from the waist up. He has dark bushy hair and a beard and is wearing a three-piece suit with wade lapels and a bow tie. She has dark hair and wears a 19th-century dress with lace collar and bell sleeves.]]
[[:en:James F. Reed|ジェームズ・リード]] は、1831年にイリノイ州に定住した裕福な[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系移民]]で、旅に同行するのは彼の妻・マーガレット(Margret)、娘のパティ( Patty )とバージニア(Virginia)、息子のジェームズ(James)とトーマス(Thomas)である。マーガレットは元来病弱だったため、リードは「転地療法」の意味も込めて、西部への移住を決意した<ref name=rarick20>Rarick, p. 20.</ref>。その旅の為、リードは特別に設計した大型の幌馬車を用意し、動力として何頭もの家畜を繋ぎ、御者として多くの若者を雇い入れた<ref name=rarick20>Rarick, p. 20.</ref>。
なお、旅にはリードの義理の母親であるサラ・キリーズ(Sarah Keyes)も同行していたが、彼女はかねてから病んでいた [[肺結核]]<ref>Johnson, p. 181.</ref>により、5月28日に客死した<ref>Rarick, p. 23.</ref>。道中での死ゆえ、彼女の遺体は路傍に埋葬された。

ドナーとリードの一行は、ウィリアム・ラッセルが率いる50台もの幌馬車部隊に加わった<ref name=rarick18>Rarick, p. 18.</ref>。一行は、6月16日の時点で出発地から450マイル(720km)の地点に達し、ワイオミング州の[[:en:Fort Laramie, Wyoming|ララミー砦]]までは200マイル(320Km)に迫っていた。
しかし折からの大雨で河は増水し、渡河に手間取るなどして旅程に遅れが出始めた。タムゼン・ドナーはスプリングフィールドの友人宛にこのような便りを書いている。

"体験したこともないことが起こりました。これから一層悪くなるのでしょうか。すべての災難が降りかかるのでしょうか"<ref>Rarick, p. 30.</ref><ref group=note>Tamsen Donner's letters were printed in the ''Springfield Journal'' in 1846. (McGlashan, p. 24)</ref>。

一方、まだ若いバージニア・リードは、出発当初のこの頃を"完璧に幸せだった"と回想している<ref>Stewart, p. 26.</ref>。

やがて一行に他の移民が加わり始めた。未亡人のレビーナ・マーフィー( Levinah Murphy)は13人家族の長として、思春期を迎えた5人の子供、さらに2人の娘が嫁入りした先の家族まで引き連れていた。
若夫婦と幼い子供から成るエディ(Eddy)の一家。パトリック・ブリーン( Patrick Breen)と妻・ ペギー(Peggy)、末っ子以外はみな男の7人きょうだい 。ブリーンと行動を共にする40歳の独身男、パトリック・ドラン(Patrick Dolan)。そして家畜たちの世話係であるアントニオ(Antonio)<ref>Stewart, p. 19?20.</ref><ref>Rarick, p. 50?52.</ref> 。
ルイス・ケスバーグ(Lewis Keseberg)は[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系移民]] で、妻や娘をひき連れていたが、道中で新たに息子が生まれていた<ref name=rarick33>Rarick, p. 33.</ref> 。
スピッツァー( Spitzer)とラインハルト(Reinhardt)という2人の若い独身のドイツ人は、他のドイツ人夫婦と行動を共にしていた。
ウォルフィンガー(Wolfingers)と、彼の御者"ダッチ・チャーリー(Dutch Charley)" ことバーガー(Burger)。
そして、ハードキップ(Hardkoop)という老人が幌馬車に同乗していた。まだ若いルーク・ハロラン( Luke Halloran)は肺結核を病んでいたため、彼の世話に周囲が気を配らなくてはならなかった<ref>Stewart, pp. 21?22.</ref>。

ヘスティングスは自身が提唱する新たなルートを広めるため、旅する移民たちに手紙を届けていた。7月12日、ドナーとリードもこの便りを受け取っている<ref>Johnson, pp. 6?7.</ref> 。ヘスティングスの警告によれば、カリフォルニアに向かう移民たちは、メキシコ当局から妨害を受ける恐れがあるという(当時、カリフォルニアはメキシコ領だった)。それゆえ、大きなグループに加わるのが得策であろうという。ヘスティングは、同時に説く。 "カリフォルニアに向かう、新しくてより良い道を発見しました"
ヘスティング自身がブリッジャー砦に待機し、移民たちをその新しいルートへ案内するとのことだった<ref name=Andrews1973>Andrews, Thomas F. (April 1973). "Lansford W. Hastings and the Promotion of the Great Salt Lake Cutoff: A Reappraisal", ''The Western Historical Quarterly'' '''4''' (2) pp. 133?150.</ref>

[[File:Donner route map.png|thumb|500px|left|ドナー隊が歩んだルート。オレゴン・トレイル(紫色の線)をブリッジャー砦まで進み、近道のつもりでヘスティングス・カットオフ(オレンジ色の線)を通る。その後、[[カリフォルニア・トレイル]](緑色の線)に合流する]]

一団が[[:en:Little Sandy River (Wyoming)|リトルサンディー川]]に達したところで、行き先をめぐって揉め事が発生した。結局、大多数の者が[[オレゴン・トレイル]] につながる[[:en:Fort Hall|フォール砦]]を選択し、少数の者がヘスティングスが待つというブリッジャー砦を目指した。隊が分かれた以上、新たなリーダーを選ぶ必要がある。ジョージ・ドナーは穏やかな慈悲深いアメリカ人であり、歳を重ねることで人生経験を積み、賢さが滲み出ている。そこで、リーダー候補して最初に選ばれた<ref>Stewart, p. 14.</ref> 。
他の者はヨーロッパから来たばかりの移民や、人生経験の少ない若者など、リーダーになりえない者ばかりである。
その中でジェームズ・リードのみは長らくアメリカで暮らし、軍隊での経験を身につけていた。しかし大半のメンバーはリードの貴族趣味と傲慢で見栄っ張りな性格を嫌い、ドナーをリーダーとして選出した<ref>Stewart, p. 16?18.</ref>。

ジャーナリストのエドウィン・ブライアント(Edwin Bryant)はドナー隊が到着する1週間前にブラックホークの街に至り、ヘスティングが提唱する道に接してある危惧を抱いた。あまりにも悪路ゆえ、ドナー隊の幌馬車で踏破するのは難しい。ましてや、ドナー隊は大勢の女子供を抱えている。彼はブラックホークの街に取って返し、近道を使わないよう警告を発した<ref>Rarick, p. 56.</ref>。

やがて7月27日、ドナー隊はブラックホークの街に到着した。 しかし、ヘスティングスはその時すでにブラックホークを離れ、ハロラン・ヤング(Harlan-Young)ら40台の幌馬車を指揮していた<ref name=Andrews1973/>。
交易所の[[ジム・ブリッジャー]]は、すでに多くの人々が[[:en:Hastings Cutoff|ヘステングス・カットオフ]]を使っていると説く。 その道は滑らかでデコボコなど一切無く、さらにカリフォルニアまでの旅が350マイル(560km)も短縮されるという。その上、敵対的な[[インディアン]]に遭遇することもない。道中すべての場所で容易に水を求められるが、2日間かけて30~40マイル(48~64km)に渡る、干上がった湖の跡を通過する必要がある、と。
これらの情報はリードに強い印象を与え、ドナー隊の男たちは議論の末にヘスティング・カットオフをたどることに決めた。その道を使うべきではないと訴えるブライアントの手紙は、何者かに握り潰された可能性がある<ref name=Andrews1973/><ref>Stewart, pp. 25?27; Rarick, p. 58.</ref><ref group=note>At Fort Laramie, Reed met an old friend named James Clyman who was coming from California. Clyman warned Reed not to take the Hastings Cutoff, telling him that wagons would not be able to make it and that Hastings' information was inaccurate. (Rarick, p. 47) J. Quinn Thornton traveled part of the way with Donner and Reed, and in his book ''From Oregon and California in 1848'' declared Hastings the "[[Baron Munchausen]] of travelers in these countries". (Johnson, p. 20)</ref>。

==ヘスティングスの街道==
===ワサッチ山脈===
[[File:Wasatch Mountains on the Bountiful-Farmington Loop Road Scenic Backway.jpg|thumb|alt=Mountain range with occasional patches of snow.|ユタ州内のワサッチ山脈]]

ドナー隊は、当時としては標準以上に余裕のある移民団だった<ref name=rarick17/>。彼ら開拓民は少しばかりの幸運と特別なスキル、そして山道や乾燥地帯を旅するための経験、インディアンに対応するための知識を身につけていた<ref>Stewart, pp. 23?24.</ref>。
ジョージ・ドナーの妻・タムゼンは、移民仲間のJ・クイーン・ソーントン(J. Quinn Thornton)に "辛くて悲しくて、気が滅入るばかりです"とこぼしている。大多数の者はヘスティングスが提唱する近道をたどるため取って返して来たが、彼女はそれを "自分勝手で山師的"な行為だと見なしていた<ref>Johnson, p. 22.</ref>。1846年の7月31日、4日間を休息と幌馬車の修理に当てたドナー隊は、ブラックホークの町を後にした。その11日後、 一行はハロラン・ヤングの一団に追いつき、ドナー隊には新たに交代用の御者が雇用された。赤子を連れた若夫婦のマッカチェン(McCutchen)と、カリフォルニアへの道のりやインディアンについての知識が深いニューメキシコ出身の16歳の少年、ジャン・バティスタ・トルドー(Jean Baptiste Trudeau )である<ref>Stewart, p. 28.</ref>。

ヘスティングス・カットオフに沿って南へと向かい始めたドナー隊は、その日のうちに苦難の道を選択してしまったことを思い知らされた。馬車は急な坂道を幾度と無くすべり落ち、御者はその対処法として、車輪の部分を固めることを余儀なくされた。当時、西部行きの主要な街道だった [[オレゴン・トレイル]]よりも、はるかに悪路である。しかしながら、ヘスティングスはその道を開拓民に口で勧めるのみならず、道端の木に書き付けるなどして人々に行き先を示していた。
8月6日、ドナー隊一行もそのような書き付けを手にする。それには、一度停まった後にハロラン・ヤング隊と行動を共にするよう記されていた<ref group=note>While Hastings was otherwise occupied, his guides had led the Harlan-Young Party through [[Weber Canyon]], which was not the route Hastings had intended to take. (Rarick, p. 61)</ref>
リード、チャールズ・スタントン、ウィリアム・パイクらはヘスティングの意見を取り入れたが、やがて彼らは[[:en:Weber Canyon|ウェバー・キャニオン]]に遭遇した。大岩が転がるその峡谷は越えるにはあまりに危険で、馬車を損なってしまう恐れもある。しかしヘスティングからの手紙には、その谷間を進むよう記載されていた。<ref>Stewart, pp. 31?35.</ref><ref>Rarick, pp. 61?62.</ref>

スタントンとパイクはそこで立ち往生し、リードは隊を離れ引き返した。しかし4日後に一団は再度合流し、案内人もいない不安な旅を危惧して一般道へ引き返すべきが議論が持たれたが、リードはヘスティングスの進めるルートを選ぶべきだと強く主張した<ref>Rarick, p. 64?65.</ref>。その結果として一行の進捗状況は1日に1.5マイル(2.4km)にまで落ち込んだ。のみならず、馬車を通す空隙を作るため常に藪をなぎ払い、木を伐り倒し、重い岩を動かす必要に迫られるようになる。隊の成人男性全員が、この辛い作業に追われなくてはならない<ref group=note>The route the party followed is now known as [[Emigration Canyon, Utah|Emigration Canyon]]. (Johnson, p. 28)</ref>。

それでも一行はようやく[[:en:Wasatch Mountains|ワサッチ山脈]]に到達する。ここでグレイブス(Graves)夫妻と9人の実子、義理の息子、御者のジョン・シュナイダー(John Snyder)らが乗り込む3台の馬車が加わる。こうして、ドナー隊は60から80台の馬車を有する87名の大旅行団となった<ref>Rarick, pp. 67?68, Johnson, p. 25.</ref>。グレイブス一家は、その年西部を目指してミズーリ州を出発した最後の人々である<ref name=rarick68>Rarick, p. 68.</ref>。

やがて一行は、 [[グレートソルト湖]]を見下ろす地点にたどり着いた。2週間もかけてワサッチ山中を越えた8月20日のことである。この時点で、すでにいくつかの家族の中では食料が不足し始め、人々はこの道を選ぶよう主張したリードに、疑いの目を向け始めた。なお、一行を離れていたスタントンとパイクはこの時点で隊に復している<ref>Stewart, pp. 36?39.</ref>。

=== グレートソルトレイク砂漠 ===
[[File:Butte in Great Salt Lake Desert-750px.JPG|thumb|left|alt=Flat expanse with a mountain range in the distance.|グレートソルトレイク砂漠]]

8月25日、ルーク・ハロランが肺結核で客死している。数日を経ずして、一行はヘスティングスからの手紙をズタズタに引き裂いて投げ捨てた。行く手には草地も水場も無く、一行は2昼夜ものあいだ苦難の旅を強いられ、多くの家畜を失う<ref name=rarick70and71>Rarick, pp. 70&ndash;71.</ref>。地獄の36時間の末に彼らが得た進捗状況は、わずかに1000フィート(300m)の山を越えただけ。この峰から、一行は行く手に広がる一面塩に覆われ渇いた大地を望むことになった<ref name=stewart40to44/>。ラリック(Rarick)が"この世で一番無愛想なところ"と称する不毛の地である<ref name=rarick69>Rarick, p. 69.</ref> 。一行の連れた牛たちは、水場にたどり着く前に斃れ果ててしまった<ref name=stewart40to44>Stewart, pp. 40?44.</ref>。

車輪は塩の泥沼にめり込んで行く。人も家畜も、総出で重い荷馬車を押して進ませなければならない。一番強い牛が引く一番大きな馬車が先頭になるよう、隊列が組みなおされた。日中は酷暑、それでいて日が落ちれば酷寒の砂漠気候。幾人かは幌馬車と水場の幻覚を見つつも、ヘスティングスの説くこの道こそが「安全なルート」だと信じ抜いていた。
3日後、幾人かが水場を探させるため、馬車から家畜を解き放ったが、弱った家畜はくびきを外されるやそのまま捨てられた。リードは10頭の家畜を砂漠の旅で失ったが、その他の家族も多かれ少なかれ牛馬に損害を受けていた。辛い旅で車輌や家畜には重大な被害が出たが、この時点では病死者以外の死者は出ていない。結局のところ、一行は [[グレートソルト湖]]の砂漠地帯通過に6日を費やした<ref>Stewart, pp. 44?50.</ref><ref>Rarick, pp. 72?74.</ref><ref group=note>In 1986 a team of archaeologists attempted to cross the same stretch of desert at the same time of year in four-wheel drive trucks and were unable to do so. (Rarick, p. 71)</ref>。

砂漠の縁の温泉地で疲れた身体を休める一行は、もはやヘスティングスに対する信頼を完全に失っていた<ref group=note>The location where the Donner Party recuperated, at the base of [[:en:Pilot Peak (Nevada)|Pilot Peak]], has since been named Donner Spring. (Johnson, p. 31)</ref> 。
数日後、一行は砂漠の中に遺棄した馬車や家畜の回収に当たり、食料などを他の馬車に移し変えた<ref group=note>Reed's account states that many of the travelers lost cattle and were trying to locate them, although some of the other members thought they were looking for his cattle. (Rarick, p. 74, Reed's self-penned "The Snow-Bound, Starved Emigrants of 1846 Statement by Mr. Reed, One of the Donner Company" in Johnson, p. 190)</ref> 。
多くの財産や家畜を失ったリードは、他の家族たちに食料などの目録を作って差し出すよう求めている。その上で彼は、ある決断をした。それは、2人を先発隊としてカリフォルニアの [[:en:Sutter's Fort|サッター砦]] に送るというものだった。リードは、砦の主人である [[ジョン・サッター]] が極めて寛大な性格で、わがままな開拓民にも快く救助の手をさしのべ、余分な食料を分けてくれるとの噂を聞きつけていたのである。チャールズ・スタントンとウィリアム・マッカチェンが、この危険な役に名乗りを挙げた<ref>Rarick, pp. 75?76.</ref>。
わずかに残った性能の良い馬車を、雄牛に牝牛、騾馬など寄せ集めの家畜が引いてゆく。2人の若い男が、失った雄牛を探すために引き返し、40マイル(64km)もの区間を見て回る<ref name=stewart50to53>Stewart, pp. 50?53.</ref>。この時点で、すでに9月の半ば。季節は秋へと移っていた。


===リードの追放===
家畜が瘠せて衰弱する中、ドナー隊は次に広がる砂漠を横断し、 [[:en:Ruby Mountains|ルビー山脈]]を越える。一行はヘスティングスを憎みぬいているにも関わらず、彼の提唱したルートを進まざるを得なかった。彼らがヘスティングス・カットオフに分け入ってから実に2ヶ月後の9月26日、一行は[[カリフォルニア・トレイル]]沿いを流れる [[:en:Humboldt River|フンボルト川]]に行き着いた。「近道」であるはずのヘスティングス・カットオフを選択したことで、逆に1ヶ月の遅れを招いたのである<ref name="Stewart, pp. 54?58">Stewart, pp. 54?58.</ref><ref name=rarick80and81>Rarick, pp. 78&ndash;81.</ref>。

フンボルト川沿いを進む一行は、 [[:en:Paiute|パイウート族]]の集団に出会う。彼らは2日間に渡って隊を襲い、多くの牛馬を殺し、あるいは盗み取った。さらに10月に至り、隊は深刻な分裂状態に陥る。事の発端は、ジョン・シュナイダーと、リードの雇い御者であるミルト・エリオット(Milt Elliott)との、牛の扱いをめぐる争いだった。リードは仲裁しようとしたが、逆にシュナイダーに鞭で打ち据えられてしまう。激昂したリードはナイフでシュナイダーの鎖骨の部分を刺し貫き、彼を死に至らしめた<ref name="Stewart, pp. 54?58"/><ref name=rarick80and81 />。

その晩、リードの犯した殺人をめぐって目撃者たちの間で議論が持たれた。合衆国の法律は、この大分水嶺の地では適応されない(当時、この地はメキシコ領だった)。 そこで、幌馬車部隊自身の正義を持って裁く必要に迫られた<ref>Rarick, p. 82.</ref>。人々はシュナイダーがジェームズ・リードばかりか、妻のマーガレット(Margret)までも打ち据える場面を目撃していた<ref>Rarick, p. 83.</ref>が、シュナイダーは人気者で、リードはその逆である。ケスバーグ(Keseberg)はリードを[[絞首刑]] に処すべきだと主張したが、結局リード1人を隊から追放することで事態の沈静化が図られた。翌朝、丸腰のリードは妻や子供たちから引き離され、ただ1人で去っていった<ref>Stewart, pp. 59?65.</ref><ref>Johnson, pp. 36?37.</ref><ref>Rarick, pp. 83?86.</ref><ref group=note>In 1871, Reed wrote an account of the events of the Donner Party in which he omitted any reference to his killing Snyder, although his daughter Virginia described it in a letter home written in May 1847, which was heavily edited by Reed. In Reed's 1871 account, he left the group to check on Stanton and McCutchen. (Johnson p. 191)</ref>。
それでも、思いやりの心を持つ者たちは、リードに少しばかりの食料とライフル銃を事前に手渡していた<ref name=DowneyAutumn1939>Downey, Fairfax (Autumn 1939). "Epic of Endurance", ''The North American Review'' '''248''' (1) pp. 140?150.</ref>。

==最後のルート==
=== 隊の崩壊 ===

[[File:Truckee river.JPG|thumb|alt=Narrow river partially covered in ice.|[[:en:Truckee River|冬のトラッキー川]] ]]

様々な試練に苛まれ、隊の分裂にまで至ったドナー隊。メンバーは互いに疑心暗鬼を抱き始める<ref>Stewart, p. 66.</ref><ref>Rarick, p. 74.</ref>。飼い葉の不足から日に日にやせ衰える牛馬の負担を減らすべく、人々は馬車を降りて徒歩で進んでいた<ref name=rarick87>Rarick, p. 87.</ref>。ケスバーグは、自身の馬車に乗っていたハードキップ(Hardkoop)を「老いぼれは歩くか死ぬかしろ!」 と、無慈悲にも降ろしてしまう。数日後、ハードキップは足を傷だらけにした姿で路傍に座り込んでいるところを目撃されたが、それが彼の最期の姿だった。ウィリアム・エディ(William Eddy)はハードキップを探し出してくれるよう他のメンバーに頼み込んだが、70歳近い年寄りを探し出して何になるかと、断られ、罵られる一方だったという<ref>Johnson, p. 38?39.</ref><ref>Rarick, pp. 87?89.</ref>。

さて、隊を追放されたリードは、ドナー隊と行動を共にしていた御者のウォルター・ハロラン(Walter Herron)に出会い、彼と馬を乗りあうことで1日につき25から40マイル(40から64km)の距離を進み続けていた<ref name=rarick89>Rarick, p. 89.</ref> 。
しかしドナー隊の方では更なる災難が降りかかっていた。グレイブスはインディアンに馬を追跡され、馬車を置き去りにせざるを得なくなる。飼い葉の不足は続き、家畜は弱るばかり。ある晩のインディアンの襲撃で18頭の家畜を盗み取られ、別の朝には21頭を撃ち殺された<ref>Rarick, p. 95.</ref> 。
一行はすでに連れていた家畜の大半にあたる100頭近い牛を失っていたが、それでも彼らの前には新たな砂漠が広がっていた。エディは車を牽く牛をインディアンに殺されたため、馬車をやむなく遺棄した。彼の家族は食料をすべて食べつくしていたが、そんな彼らを他の家族達は助けようともしない。エディと子供たちは渇きに呻きつつ、惨めな姿で歩むのみだった。追放されたリードの妻・マーガレットや子供たちも、馬車なしでの旅に耐えていた<ref name=rarick98>Rarick, p. 98.</ref><ref name=stewart67to74/>。 ようやく砂漠は尽き、一行は青草が美しく茂る [[:en:Truckee River|トラッキー川]] に到達する<ref name=stewart67to74>Stewart, pp. 67?74.</ref>。

季節はすでに10月中旬。少しばかりの休息の後には、雪が降るまでのわずかな期間に山脈を越えてしまわなければならない。 そこへ一足早くカリフォルニアに到着していたスタントンが、食料を携え、ラバと2人のインディアン <ref name="King, Joseph A. p. 21">King, Joseph A. ''Luis and Salvador: Unsung Heroes of the Donner Party'', The Californians, Vol. 13, No. 2, p. 21</ref>の案内人・ルイスとサルバドールを引きつれて戻ってきた。折も折、カルフォルニア側ではリードとウォルター・ハロランが、飢えに苛まれやつれながらもサッター砦へ到達していた。<ref name=stewart75to79>Stewart, pp. 75?79.</ref><ref>Rarick, p. 91.</ref>なお、先発隊としてチャールズ・スタントンと行動を共にしていたウィリアム・マッカチェンは、サッター砦にたどり着きはしたものの体調を崩し、現地で療養していた。
この出来事についてラリック(Rarick)は、"飢えかけ取り乱した状態のドナー隊にとって、最悪の時期は過ぎていたように見える。彼らはこの時点でこれまでのどんな移民団よりも、苦難に耐え忍んでいたのだから"と称している<ref>Rarick, p. 101.</ref>。

=== 雪に阻まれる ===
[[File:Donner Pass kingp053.jpg|thumb|left|alt=Winding road leading up a mountain|1870年代に撮影された標高7088フィート(2160m)のフリーモント峠(Fremont Pass)。ドナー隊が通過を試みた1846年晩秋には、早い段階で雪に阻まれていた。現在、ここは「ドナー峠」と呼ばれている。]]

秋が深まる中、ドナー隊はトラッキー川を遡り、最後の難関・シエラネバダ山脈越えを試みる。しかし砂漠越えやインディアンの襲撃に責め苛まれた彼らは烏合の衆と成りはて、隊の内実はワサッチ山脈越えの時分よりはるかに悪化していた。季節はすでに10月下旬だが、峠道が雪に覆われるのは11月中旬だとすれば、それまでの時間的猶予はある。峠越えを目前にした10月30日、ウィリアム・フォスター(William Foster)が銃の誤射を引き起こし、ウィリアム・パイク(William Pike)を死なせてしまう<ref>Johnson, p. 43.</ref>。この出来事を受け、ささやかな休息を取っていた一行は再び出発を決意する。先頭を取るのはブリーン一家、続いてケスバーグ一家、さらにスタントン、リード婦人と子供たち、グレイブス、マーフィーが家族単位で後を追う。しんがりを務めるのはドナー一家だが、数マイル進んだところでドナー一家の馬車の車軸が折れてしまう。ジェイコブとジョージの兄弟は森に分け入って木を伐りだし、交換用の車軸を作り出していた。この作業の中、ジョージ・ドナーは手にうっかり傷をつけてしまう <ref>Stewart, pp. 81?83.</ref>。この傷は、やがて文字通りジョージの「命取り」となるのである。

11月上旬。はるかに望む峠道では雪が降り始めていた。パトリック・ブリーンが"重々しく、ほぼ垂直に近い斜面"と表現する1000フィート(300m)の高低差が、トラッキー川水源のトラッキー湖から頂上まで3マイル(4.8km)に渡って続いている。そこには2年前にここを通過した開拓民が築いた2軒の丸太小屋が残されていた<ref>Rarick, p. 108.</ref><ref group=note>The cabins were built by three members of another group of emigrants known as the Stevens Party, specifically by Joseph Foster, Allen Stevens, and Moses Schallenberger in November 1844. (Hardesty, pp. 49?50) Virginia Reed later married a member of this party named John Murphy, unrelated to the Murphy family who was associated with the Donner Party. (Johnson, p. 262)</ref> 。
エディにケスバーグ、さらにブリーンも加えた一団は雪の峠道を越えようと試みるが、すでに積雪は5~10フィート(1.5~3m)もの深さに達し、馬車の車輪は雪に埋まるばかり。そもそも峠道そのものが雪に埋もれて伺えない。一行は一度トラッキー湖畔まで引き返し、5マイル(8km)離れた場所にいたドナー一家を除き、その場に野営した。11月4日の晩、再び雪が降り始めた<ref>Stewart, pp. 84?87.</ref>。


==雪の中の野営==
=== リードによる救助計画 ===

[[File:Map of Truckee Lake and Alder Creek.svg|thumb|350 px|トラッキー湖周辺の地図。ブリーン、マーフィー、グレイブス、リード婦人はトラッキー湖東岸に丸太小屋を築き、ドナー一家は支流のオルダー川沿いで越冬に挑んだ]]

さて、殺人事件が原因で隊を追放されたジェームズ・リードは、一足先にカリフォルニアにたどり着き、サッター砦で身を休めていた。落ち着くにつれ、雪の山中で難渋しているであろう家族や友人達の身が案じられてならない。リードは[[:en:John C. Fremont|ジョン・C・フレモント]] 大佐に、一緒に峠道を越え、仲間たちを連れて戻ってきてくれるよう懇願した上で、代償として[[米墨戦争]]で兵士として参加することを約束した<ref>Johnson, p. 193.</ref>。その折、砦にはドナー隊の先発隊として山越えしたもののそのまま居残ったマッカチェンや、例のヘスティングスの手紙に書かれていた移民団であるハロラン・ヤング隊(Harlan-Young party)の幾人かがいた。10月8日にサッター砦に到着していたハロラン・ヤング隊は、1846年にシエラネバダ山脈越えに成功した最後の移民団だった<ref>Rehart, p. 133.</ref>。
約30頭の馬と12人の男で組織された救援隊は食料を携え、ドナー隊を見つけ出すべく西側から山に分け入り、[[:en:Bear Valley, California|ベアバレー]]付近に至った。そこで一行は、別の移民団からはぐれて飢えかけていた開拓民の夫婦者を発見し、救い出している<ref>Stewart, pp. 95?100.</ref><ref>McGlashan, pp. 122?123.</ref>。

折りしも山の東側では、ブリーンが峠道を越えようと試みていた。一方で山の西側ではリードとマッカチェンが案内人に見捨てられつつも徒歩での踏破に挑んでいた。が、分厚い雪に阻まれて山頂から12マイル(19km)の地点をただ眺めるほかはなく、意気消沈してサッター砦に戻るのみだった<ref>Stewart, pp. 101?104.</ref>。

トラッキー湖畔では、ブリーン、グレイブス、リード、マーフィー、ケスバーグ、エディーら60名がこの地での越冬を決意し、周囲の山林から松を伐りだして3棟の[[丸太小屋]]を造り上げた。それら小屋の一つにブリーン一家が住まい、エディーとマーフィー一家が次の小屋に身を寄せ、3番目の小屋にはリード婦人にグレイブス一家が落ち着く。ケスバーグは ブリーン一家の丸太小屋を利用して[[:en:lean-to|差しかけ小屋]]を造り、そこを住まいとした。急ごしらえの小屋ゆえ、材の組み立ては稚拙で床も張られておらず、獣皮で覆った屋根からは雨風が漏れてくる。窓もドアも無く、壁に穿たれた穴から出入りするのみ。それでもトラッキー湖畔の60人にとってかけがえの無い住まいである。この60人は、18歳以上の男性19人、成人女性12人、29人の子供からなっており、子供たちのうち6人はまだ赤ん坊だった。このドナー湖畔キャンプから10km近く離れたオルダー川(Alder Creek)の河畔では、ドナー一家とウルフィンガー婦人に子供、さらに御者ら総勢21人が急ごしらえのテントを組み立てていた。21人の内訳は、成人男性6人、成人女性3人、子供が12人である<ref>Stewart, pp. 105?107.</ref><ref>Hardesty, p. 60.</ref>

ただでさえ少ない食料は一層乏しくなり、残った牛も寒さと飢えで次々と倒れ、死体は凍るままに積み上げられた。トラッキー湖はいまだ氷結していないものの、開拓民らは[[鱒]]を捕えるすべを知らない。経験豊かな猟師でもあるエディーは熊の捕獲に成功するものの、それが一行にもたらされた最後の幸運だった。全てを失ったリード婦人とエディーは、グレイブスとブリーン一家との間にある契約を交わしている。それは「カリフォルニアに到着したら2倍にして返す」との約束で3頭の牛を譲り受けるというものだった。その折グレイブスは、健康な牛2頭分の額に当たる25ドルを請求している。しかしこの時に取引されていたのは、飢え凍えて斃れた牛の死体だった<ref>Stewart, pp. 108?109.</ref><ref>Johnson, p. 44.</ref>。

=== "はかない望み" ===

{| class="wikitable collapsible collapsed" border="1" style="text-align:center; font-size:90%; margin-left: 10px;" align="right"
!colspan=2 |"はかない望み"のメンバー
|-
!名前!!年齢
|-
|アントニオ(Antonio)*||23‡
|-
|ルイス(Luis)*||不明
|-
|サルバドール(Salvador)*||不明
|-
|チャールズ・バーガー(Charles Burger)†||30‡
|-
|パトリック・ドラン(Patrick Dolan)*||35‡
|-
|ウィリアム・エディ(William Eddy)||28‡
|-
|ジェイ・フォスディック(Jay Fosdick)*||23‡
|-
|サラ・フォスディック(Sarah Fosdick)||21
|-
|サラ・フォスター(Sarah Foster)||19
|-
|ウィリアム・フォスター(William Foster)||30
|-
|フランクリン・グレイブス(Franklin Graves)*||57
|-
|メアリー・アン・グレイブス(Mary Ann Graves)||19
|-
|レミュエル・マーフィー(Lemuel Murphy)*||12
|-
|ウィリアム・マーフィー(William Murphy)†||10
|-
|アマンダ・マッカチェン(Amanda McCutchen)||23
|-
|ハリエット・パイク(Harriet Pike)||18
|-
|チャールズ・スタントン(Charles Stanton)*||30
|-
|colspan=2 |* 途中で死亡<br>†途中で引き返す<br />‡推定年齢<ref name=roster>"Roster of the Donner Party" in Johnson, pp. 294?298.</ref>
|}

絶望感がキャンプを覆い始めていた。幾人かは徒歩での山脈横断を試みて山中に分け入るものの、その度に身長を越す積雪に阻まれ打ち負かされ、退避を余儀なくされた。その上1週間にも渡って吹きつのる猛吹雪が、わずかに残された家畜や食料を奪い、埋め尽くしていった<ref>Stewart, pp. 110?115.</ref>。

12月14か15日、トラッキー湖畔のキャンプではリード家の雇い人、ベイリス・ウィリアムズ(Baylis Williams)が栄養失調で死亡した。一方、フランクリン・グレイブスは牛の[[くびき]]と獣皮を使い、14足の[[スノーシュー]](西洋式の[[かんじき]])を作り出した。これを足に到着して雪原を歩み、徒歩で山を越えカリフォルニアに赴いて助けを呼ぼうというのである。この任務に男女に子供、合計17人が名乗りを挙げた<ref>McGlashan pp. 66?67.</ref>。
17人のうち、4人の男性は父親で、女性のうち3人は母親だった。なお、参加していた子供たちは彼女らの子供ではない。彼らは6日間かけて[[ライフル銃]]、毛布、手斧、さらに[[ピストル]] などの装備を整え、カリフォルニアのベアバレーを目指し出発した<ref>Stewart, pp. 116?121.</ref>。歴史家のチャールズ・マクグラシャン(Charles McGlashan)は、彼ら17人を"The Forlorn Hope"(はかない望み)と呼ぶ<ref>Johnson, p. 49, McGlashan, p. 66.</ref>。
メンバーは17人だが、かんじきは14足。チャールズ・バーガーと10歳のウィリアム・マーフィーは早々とトラッキー湖畔に引き返している<ref name=McGlashanP67>McGlashan, p. 67.</ref>。その他のメンバーのうちレミュエルは、最初の晩に鞍の包み革を使ってかんじきを新たに1足作り出している<ref name=McGlashanP67/>。

[[File:Charles Stanton.jpg|thumb|upright|left|チャールズ・スタントン|alt=Profile of a man with a long nose and straight hair reaching his collar.]]
かんじきを装着しての歩行は不恰好ではあるが、雪原の上ではなかなか効果的であった。歩みのコツを覚え、12フィート(3.7m)にも及ぶ深さの雪道を進む一行だが、3日目には白い雪原に照りつける陽光の反射で、大半の者が [[:en:Snow blindness|視力に異常をきたしていた]]。6日目、エディは自身の荷物の中から、半ポンドの熊肉を見つけ出す。それは彼の妻が、夫を思い密かに持たせたものだった。12月21日、この日も朝から一心に西に向かう中、スタントンが落伍してしまう。その場に座り込みつつも、後から付いてくると一同に声をかけるスタントンだったが、彼はそのまま動くことができず、翌年にその場で朽ちた白骨となって発見される<ref>Stewart, pp. 122?125.</ref><ref name=rarick136>Rarick, p. 136.</ref>。


食料に乏しいドナー隊から出発した一団ゆえ、山越え隊の食料もついに尽きてしまう。飢餓状態で2日間歩む中、パトリック・ドランが驚くべき提案をした。隊のうち誰か1人に死んでもらい、食料にしてしまおうというのである。その意見に従い、「いけにえ」を選び出すための籤(くじ)が作られた<ref name=rarick136/><ref>Thornton, J. Quinn, excerpt from ''Oregon and California in 1848'' (1849), published in Johnson, p. 52.</ref>。しかしエディの提案が実行に移される前に、猛烈な吹雪が襲来する。この最中に御者のアントニオが凍死し、続いてフランクリン・グレイブスも絶命した。折りしもクリスマスの日の出来事である<ref>Stewart, pp. 126?130.</ref><ref>Rarick, p. 137.</ref>。

風雪が吹き募る中、パトリック・ドランは錯乱状態に陥り、うわごとを喚きながら衣類を脱ぎ捨てて森の中に走り込んでいく。彼は自力で戻ってきたものの、数時間後に息を引き取った。ほどなく12歳のレミュエル・マーフィーが死にかけたため、他のメンバーはドランの遺体から切り取った人肉を食べさせたが、その効果もなく彼は死んでしまった。翌朝、一行はアントニオ、ドラン、グレイブス、そしてマーフィーの遺体から筋肉と内臓を取り出し、乾燥させて「保存食」に加工した。これら人肉は、仲間や身内の生命線となる<ref>Stewart, pp. 131?133.</ref><ref>Thornton, J. Quinn, excerpt from ''Oregon and California in 1848'' (1849), published in Johnson, p. 53.</ref>。

[[File:WilliamEddy.jpg|thumb|upright|right|ウィリアム・エディ|alt=Head and bust of a man with a high forehead, hair reaching his shoulders, wearing a 19th-century three-piece suit and a cravat.]]
3日間休息した後、一行はカリフォルニアへの道を再度探し始めた。初めのうちこそルイスやサルバドールと共に人肉食を拒否していたエディだったが、最終的には飢えに屈して人肉を口にしている。4人の体から切り出した「保存食」もじきに底を尽き、一行はかんじきに使われている牛皮や革紐を剥がし取って齧るなどしていたが、やがて[[インディアン]]の案内人・ルイスとサルバドールを殺して食べる企みが持ち上がる。これを聞きつけたエディは、すぐさま逃げるよう2人に耳打ちした<ref>Thornton, J. Quinn, excerpt from ''Oregon and California in 1848'' (1849), published in Johnson, p. 55.</ref> 。夜半にはジェイ・ホスディック(Jay Fosdick)が死亡し、残ったメンバーは7人となる。エディとメアリー・グレイブス(Mary Graves)は狩猟に出発し、鹿肉を得ることに成功したが、戻ったキャンプではすでにホスディックの遺体が切り刻まれ食料に変わっていた<ref name="Rarick, p. 142">Rarick, p. 142.</ref><ref>Thornton, J. Quinn, excerpt from ''Oregon and California in 1848'' (1849), published in Johnson, p. 60.</ref>。
トラッキー湖畔を出発してから25日後、彼らは隊を逃げ出し山中を彷徨っていたルイスとサルバドールに遭遇する。9日間何も食べておらず、弱りきっている2人を、ウィリアム・フォスターは「餓死に瀕したグループを救う最後の希望」としてためらいも無く撃ち殺した。<ref name=johnson62/>。しかし、ジョセフ・A・キング(Joseph A. King)の記述は、2人のインディアンがフォスターに殺されたという話と一致しない。 「サッターの旦那が他の生き残りから聞いた話によれば、'いい子たち' (サルバドールとルイス)はドングリを集めている最中に殺されたということだ」<ref name="King, Joseph A. p. 21"/>。

1847年1月12日、[[:en:Miwok|ミウォーク族]]の村にやつれ果てた白人が数名転げ込んでくる。村人は驚いて逃げ出したが、事情を知ってドングリや [[松の実]]を施した<ref name=johnson62>Johnson, p. 62.</ref> 。数日後、エディはミウォーク族に助けられ、カルフォルニアの[[サクラメント]]にある農場にたどり着く<ref>Stewart, pp. 142?148.</ref><ref>Johnson, p. 63?64.</ref> 。さらに急ごしらえの救援隊により、他の6人が救出される。時に1月17日。山脈東側のトラッキー湖畔を出発してから33日目のことだった<ref name="Rarick, p. 142"/><ref>Stewart, p. 149.</ref>。

=== トラッキー湖畔 ===
[[File:Donner Lake from McClashan Point.jpg|thumb|left|一行が越冬したトラッキー湖。現在では「ドナー湖」と呼ばれている。<ref group=note>This drawing is inaccurate in several respects: the cabins were spread so far apart that Patrick Breen in his diary came to call inhabitants of other cabins "strangers" whose visits were rare. This scene furthermore shows a great deal of activity and livestock, when the emigrants were weakened already by low rations and livestock began to die almost immediately. It also neglects to include the snow that met the emigrants from the day they arrived.</ref>|alt=Three log cabins with flat roofs set in the midst of tall trees, with mountains in the background. People, livestock, and covered wagons are engaged in various activities in a clearing in the middle of the cabins.]]

パトリック・ブリーンは、山越え部隊が出発する前の1846年11月から日記をつけ始めている。始めのうちこそ毎日の天候、風向き、積雪量のみ淡々と記していた文面は、12月になると神に対する信仰心が記述の大半を占め、ほぼ毎日「アーメン」の語で結ばれるようになる<ref>Rarick, p. 145.</ref>。

{{See|:en:Donner Party timeline}}

実際、トラッキー湖畔の生活は惨めなものだった。人々は狭苦しい丸太小屋に閉じ込められ、打ち続く吹雪と積もり続ける雪で外出もままならず、薪を手に入れることも難しい。食べ物といえば、獣皮を煮詰めて作ったドロドロの[[膠]]のような[[ゼラチン]]。牛馬の骨はスープの出汁として何度も煮返したため、歯で簡単に噛み砕けるほどボロボロになっていた。人々は火に炙って柔らかくした骨を喰らい、マーフィーの子供たちは炉の火の前に仲良く並び、牛皮の敷物を焦げるまで炙って食べた<ref>McGlashan, p. 90.</ref> 。山越え組が出発した後、トラッキー湖畔に残った者は3分の2までが子供である。グレイブス婦人はレビーナ・マーフィー(Levinah Murphy)や エレノア・エディ( Eleanor Eddy)と共に、子供達の世話にいそしんでいた<ref>Rarick, p. 146.</ref>。
小屋に迷い込んだネズミでさえも「食料」として捕えられる状況の中、衰弱しきった移民たちは一日の大半を寝床の中で過ごすようになる。それでも、オルダー川沿いに野営所を設営したドナー一家の方から、たまに使いの者が1日がかりでやってくる。彼らの知らせによれば、ジョージ・ドナーの兄であるジェイコブと3人の雇い人がすでに死亡したとのことだ。そのうちの一人・ラインハルトは、死の床で「私がウルフィンガーを殺しました」と告白している<ref>Johnson, p. 40. See also McGlashan letter from Leanna Donner, 1879.</ref>。ジョージ・ドナーはかつて馬車修理の折に負った傷が化膿し、オルダー川の野営場で満足に働ける男は4人のみだった<ref>Stewart, pp. 160?167.</ref>。

リードの妻・マーガレットは食料を節約し、クリスマスの日に煮込み料理を作って子供たちを喜ばせた。しかし年明けて1月になると彼らも飢え、屋根の覆いに使われている獣皮をかじるようになる。マーガレット・リード、娘のバージニア、御者のミルト・エリオット、そして召使の少女、エリザ・ウィリアムズ( Eliza Williams)は、子供たちのため食べ物を求めて野営地から逃れようとしたものの、大雪に阻まれ4日後に戻らざるを得なくなる。今や彼らの丸太小屋は牛皮の屋根をすべて食い尽くされ、住むこともままならない。リード家の母子は仕方なくブリーン一家の小屋に身を寄せ、雇い人は他の家族と暮らし始める。ある日、グレイブスはリード家に対して借金の返済を求めると共に、全ての家族に対して食べてしまった牛皮の代を請求している<ref>Stewart, pp. 168?175.</ref><ref>Rarick, pp. 148?150.</ref>。

== 救助の過程 ==
時はおりしも[[米墨戦争]]の最中。カリフォルニアにおいては健康な成年男子の大半が徴用され、道路は封鎖され、通信設備も破綻を来たしていた。そんな中で、わずか3人の男がドナー隊救助のために名乗りを挙げる。リードは他の開拓民や知人、[[:en:Yerba Buena, California|イエルバ・ブエナ]]の市民にトラッキー湖畔における惨状を訴え、やがてそれはアメリカ陸軍への嘆願へと発展する。地元の2紙は、山越えの旅で発生した[[カニバリズム]]を書き立てて人々の同情を買う。もとより移民の人口が多いイエルバ・ブエナでは1,300ドル (2010年の31000ドルに相当する)もの義捐金が募られ、救援隊が組織された<ref>Stewart, pp. 150?159.</ref><ref>Rarick, pp. 180?181.</ref>。

しかし救援隊の出動は、[[サンノゼ]]の街での叛乱や軍内部の混乱が原因で2月に持ち越される。2月4日、ウィリアム・エディを含む救援隊はサクラメントを経った。エディは途中のベアバレーに食料の一部を準備して留まり、他のメンバーは豪雨や川の増水に阻まれながらも、雪や嵐を突きトラッキー湖へと進んでいく。一行のうち3人は途中で引き返したものの、残る7人は着実に前進していた<ref>Stewart, pp. 176?189.</ref><ref>Rarick, pp. 166?167.</ref>。

=== 最初の救助 ===

{| class="infobox"
|
{| class="wikitable collapsible collapsed" border="1" style="text-align:center; font-size:90%" align="right"
!colspan=2 |最初に救出された人々
|-
!名前!!年齢
|-
|エリザ・ドナー(Elitha Donner)||14
|-
|リーナ・ドナー(Leanna Donner)||12
|-
|ジョージ・ドナー・ジュニア(George Donner, Jr.)||9
|-
|ウィリアム・フック(William Hook)* ||12
|-
|マーガレット・リード(Margret Reed)||32
|-
|バージニア・リード(Virginia Reed)||12
|-
|ジェームズ・リード・ジュニア(James Reed, Jr.)||6
|-
|エドワード・ブリーン(Edward Breen)||13
|-
|サイモン・ブリーン(Simon Breen)||8
|-
|ウィリアム・グレイブス(William Graves)||17
|-
|エレノア・グレイブス(Eleanor Graves)||14
|-
|ロビナ・グレイブス(Lovina Graves)||12
|-
|メアリー・マーフィー(Mary Murphy)||14
|-
|ウィリアム・マーフィー(William Murphy)||10
|-
|ナオミ・パイク(Naomi Pike)||2
|-
|フィリピン・ケスバーグ(Philippine Keseberg)||23
|-
|エイダ・ケスバーグ(Ada Keseberg)* ||3
|-
|ドリス・ウルフィンガー(Doris Wolfinger)||20
|-
|ジョン・デントン(John Denton)* ||28
|-
|ノア・ジェームズ(Nosh James)||20
|-
|エリザ・ウィリアムズ(Eliza Williams)||31
|-
|colspan=2 |* 途中で死亡<ref name=roster/>
|}
|}

1847年2月18日、救助隊の男たち7人はフリーモント峠を越え、トラッキー湖畔に至る。エディの話を頼りに丸太小屋を探し出し、大声で呼ばわった。ドナー隊のマーフィー夫人は、現れた救助隊を見てこう言ったという。

"あなた方はカリフォルニアから来たのですか?それとも天国から来たのですか?"<ref>Stewart, p. 191.</ref>

救助隊はドナー隊に食料を施したが、飢えて衰弱した彼らが食べすぎで死なないよう、少しずつ与えるように留意した。 全ての丸太小屋は雪に埋もれ、屋根葺きの獣皮が濡れて腐り、餓死者、凍死者の遺体は小屋の周辺で雪に埋もれ、耐え難い悪臭が周囲に充満している。生き残りの者も、幾人かは情緒不安定に陥っている。救助隊のうち3人はドナー一家らがキャンプを構えるオルダー川沿いに向かい、4人の飢えた子供と2人の大人に出会っている。そのうちの1人、リーナ・ドナーはオルダー川からトラッキー湖までの急斜面を徒歩で踏破している。 "あの時の痛みと惨めさは、言葉に表すこともできません"彼女は後年、このように書き残している<ref>Rarick, p. 173.</ref>。ジョージ・ドナーの手の傷は一層悪化して腕が[[壊死]]し、彼は動くこともできない。しかし、最後の訪問者が訪れてから今まで死者は出ていなかった。救助隊はすべての生存者のうち23人をカリフォルニアに連れ帰り、トラッキー湖畔の17人とオルダー川の12人はそのまま現地に残ることになった<ref>Stewart, pp. 190?196.</ref><ref>Rarick, p. 170.</ref>。

救助隊は、昨年末にトラッキー湖畔を出発した一団の悲惨な運命を生存者たちに隠し、彼らは凍傷が原因でここに来れないのだと取り繕っていた<ref>Rarick, p. 171.</ref>。カリフォルニア行きが決まったもののうち、パティー( Patty)とトミー・リード(Tommy Reed)は幼く、とても雪の吹き溜まり道を越えられそうに無い。幼い彼らを運んでやれるほど体力のある者もいない。辛い立場におかれた母親のマーガレット・リードは、年長の2人の子供のみベアバレーに同行し、下の子はトラッキー湖畔に親なしで戻すよりほかに無かった。救助隊の1人であるアキーラ・グローバー(Aquilla Glover)はマーガレットに、自身と[[フリーメイソン]] の名誉にかけて子供たちを湖畔に戻すよう頼んだ。パティーは母親に言う。"大丈夫よ、母さん。できる限りのことをするわ"<ref>Stewart, p. 198.</ref><ref>Rarick, p. 174.</ref>。パティーとトミー(トーマス)の姉弟は、トラッキー湖畔へと戻って行った。ブリーンは帰ってきた2人を小屋の中に入れまいとしたが、子供たちのために食料が残されていたのを知ったグレイブスは、渋々ながら招き入れた。一方、生存者21名を伴いカルフォルニアに向かう救助隊の運命は過酷だった。あらかじめ道中に隠しておいた食料は動物に食い荒らされ、彼らは食料無しで4日間彷徨うことになる。峠道を何とか越えた後、ジョン・デントンが昏睡状態に陥って死亡した。幼いエイダ・ケスバーグもまもなく死亡したが、彼女の母親は娘の遺体を置いて進むことはできなかった。数日後に旅路は難関に差し掛かり、救助隊は同行する子供たちが生きて山を下りられないのではないかと懸念を深める。飢える一団は救助隊員のズボンから鹿皮の紐を引き抜き、あるいは靴紐をほどいて食べざるを得ない。それでも一行が何とか山を下ると、今度は別の救助隊が待ち構えている。その中の1人が、ジェームズ・リードだった。夫の声を聞きつけたマーガレットは、こらえ切れず雪の中に倒れ込んだ<ref>Stewart, pp. 197?203.</ref><ref>Rarick, p. 178.</ref>。

カルフォルニアのベアバレーに到着した生存者たちはウィリアム・フック( William Hook)やジェイコブ・ドナーの義理の息子に助けられた後、食料の蓄えがなくなるほどの勢いで腹を満たした。サッター砦に滞在したバージニア・リードは "本当に、天国に足を踏み入れたのではないかと思いました"と書き残している。飢えから回復した彼女は、ある若者から結婚を申しこまれた<ref>Stewart, pp. 204?206.</ref><ref>Rarick, p. 187.</ref>。しかし、当時12歳の彼女はさすがにこれは断っている<ref>McGlashen, p. 239.</ref>。

=== 第2の救助 ===

{| class="infobox"
|
{| class="wikitable collapsible collapsed" border="1" style="text-align:center; font-size:90%" align="right"
!colspan=2 |第2次救助隊に助けられた人々
|-
!名前!!年齢
|-
|アイザック・ドナー(Isaac Donner)* ||5
|-
|パティ・リード(Patty Reed) || 9
|-
|トーマス・リード(Thomas Reed) || 4
|-
|パトリック・ブリーン(Patrick Breen)† ||51
|-
|マーガレット・ブリーン(Margaret Breen)† ||40
|-
| ジョン・ブリーン(John Breen)† ||14
|-
|パトリック・ブリーン・ジュニア(Patrick Breen, Jr.)† || 9
|-
|ジェームズ・ブリーン(James Breen)† ||5
|-
|ピーター・ブリーン(Peter Breen)† || 3
|-
|マーガレット・ブリーン(Margaret Breen)† || 1
|-
|エリザベス・グレイブス(Elizabeth Graves)* || 45
|-
|ナンシー・グレイブス(Nancy Graves)† ||9
|-
|ジョナサン・グレイブス(Jonathan Graves)† || 7
|-
|フランクリン・ワード・グレイブス・ジュニア(Franklin Ward Graves, Jr.)*|| 5
|-
|エリザベス・グレイブス(Elizabeth Graves)† || 1
|-
|メアリー・ドナー(Mary Donner)† || 7
|-
|ソロモン・フック(Solomon Hook) || 15
|-
|colspan=2 |*途中で死亡 <br />†ジョン・スタークに連れられた者<ref name=roster/>
|}
|}
3月1日、第2の救助隊がトラッキー湖畔に到着する。経験豊かな登山家たちで組織された彼らに、ジェームス・リードとマッカチェンも同行していた。リードは先の救助で置き去りにせざるを得なかった娘のパティや病弱な息子のトミーと再会している。ブリーンの丸太小屋の住人は比較的良好な状態にあったが、マーフィーの小屋の状態は"言葉はおろか想像力の限界を超えた状態"だったという。レビーナ・マーフィーが世話するウィリアム・エディやフォスターの子供、さらに彼女の8歳の息子・サイモンは不潔な環境の中で精神を病み、ほぼ視力を失っていた。ルイス・ケスバーグは脚に負傷し、小屋の中を何とか動ける状態だった<ref>Stewart, pp. 211?212.</ref>。

第1次救助隊が離れ、第2次救助隊が到着するまでの間、トラッキー湖畔では死者は出ていない。しかしパトリック・ブリーンは2月26日の日記に、2月9日に死亡したリード家の御者であるミルト・エリオットの遺体をマーフィー婦人が食べたがっていたとの不穏な状況を書き記した。実際、リードとマッカチェンは切り刻まれたエリオットの遺体を発見している<ref>Stewart, pp. 213?214.</ref>。オルダー川のキャンプでは、状況は一層悪化していた。救助隊員は、トルドーが人の脚を持ち運んでいる場面を目撃している。さらに昨年の12月に死亡したジェイコブ・ドナーの遺体がバラバラに切り刻まれ、雪穴の中に保存食として蓄えられていた。ジェイコブの妻・エリザベスは夫の遺体を食べることを拒否していたものの、子供たちにはその内臓を食べさせ、養っていた<ref>Rarick, p. 191.</ref>。さらに救助隊は、ほかに3体の手をつけられた遺体を発見する。タムゼン・ドナーは健康だったが、彼女の夫・ジョージは腕の壊死がもはや肩にまで達し、重篤な状態に陥っていた<ref>Stewart, pp. 215?219.</ref>。

[[File:Donner Lake and snow sheds2.jpg|thumb|left|alt=Lake beside snowy mountains with railroad construction sheds in foreground.|[[:en:Donner Pass|ドナー峠]]からトラッキー湖を見下ろす。 [[:en:Central Pacific Railroad|セントラル・パシフィック鉄道]] は1868年に完成した]]

第2次救助隊は、3名の成人を含む17人をトラッキー湖畔から連れ出すことにした。ブリーン家とグレイブス家は、残りの一家全員が含まれている。トラッキー湖畔に残るのはケスバーグ、マーフィー婦人、息子のサイモン、エディの息子、フォスターの子供の計5人である。タムゼン・ドナーは夫ジョージの看病のために居残ることを決意し、娘のエリザ、ジョージア、フランシスも母と共に留まることになる。リードは彼女たちに、間もなく第3次救助隊が訪れるであろうことを告げていた<ref>Rarick, p. 195.</ref>。

ベアバレーまでの道のりは、遅々として進まない。リードは2人の男を先に送り、先に食料の準備をさせた。 [[:en:Selim E. Woodworth|リム・E・ウッドワース]]が率いる第3次救助隊の到着は、いつになるかわからないという。一行が峠道を越えたあたりで猛烈な吹雪が襲来し、5歳のアイザック・ドナーが凍死。リード自身も死に瀕した。メアリー・ドナーは凍傷のために感覚を失い、睡眠中に脚を火傷する。嵐が過ぎ去った後、数日間食事を摂れなかったブリーンとグレイブス一家は放心状態で、そのうえ極度の疲労で起き上がることもできない。救助隊は、彼らを置き去りにせざるを得なかった<ref>Stewart, pp. 220?230.</ref><ref>Reed, James "The Snow Bound Starved Emigrants of 1846 Statement by Mr. Reed, One of the Donner Company" (1871), in Johnson, p. 199.</ref><ref>Rarick, pp. 199?203.</ref>。

一方、救助隊員のうち3人はトラッキー湖畔に、2人はオルダー川キャンプに残っていた。そのうちの1人であるニコラス・クラーク(Nicholas Clark)は狩りに出ていたが、残っていた他の2人、チャールズ・キャディー(Charles Cady)とチャールズ・ストーン(Charles Stone)は何とかカリフォルニアに戻る計画を立てていた。タムゼン・ドナーは彼らに、現金500ドルと引き換えに、3人の娘をカリフォルニアに届けてくれるよう契約を交わしていたという。キャディーとストーンは子供たちを連れ出しはしたものの、置き去りにしてその日のうちにリードたちに追いついた<ref>Stewart, pp. 231?236.</ref><ref>Rarick, pp. 207?208.</ref>。数日後、クラークとトルドー(Trudeau)はトラッキー湖畔でドナーの娘たちを見つけ、オルダー川のタムゼンの元に送り返した<ref>Rarick, pp. 216&ndash;217.</ref>。

最初の山越え部隊の生き残りであるウィリアム・エディとウィリアム・フォスターは、ベアバレーの地でジョン・スターク(John Stark)という男とともにリードらを待ち構えていた。3月5日、彼らは凍傷を負い、血まみれの姿ながら生きながらえているリードや子供たちを発見し、救助する。山向こうに残る自身の子供が絶望的な状態にあると案じたエディとフォスターは4人の男たちに金を払った上で、トラッキー湖畔に連れて行ってくれるよう頼んだ。湖へ戻る道中、一行は切り刻まれたグレイブス婦人と2人の子供の遺体を目撃している。食べ残しの状態にされたグレイブス婦人の傍らで、まだ1歳の彼女の娘が泣き叫んでいた<ref>King, p. 86?87.</ref>。そして雪穴の中では、11人が火に身を寄せ合いつつ耐えていた。エディとフォスターは救助隊から分かれ、子供達の生存を信じてトラッキー湖に向かった。しかしスタークは同行を断り、2人の子供と全ての食料を携え、9人の支援のためベアバレーに居残った<ref>Stewart, pp. 237?246.</ref><ref>King, pp. 92?93.</ref><ref>Rarick, pp. 214?215.</ref>。

===第3の救助===

{| class="infobox"
|
{| class="wikitable collapsible collapsed" border="1" style="text-align:center; font-size:90%" align="right"
!colspan=2 |第3次救助隊に助けられた人々
|-
!名前!!年齢
|-
|エリザ・ドナー(Eliza Donner)|| 3
|-
|ジョージア・ドナー(Georgia Donner) ||4
|-
| フランシス・ドナー(Frances Donner)|| 6
|-
|サイモン・ドナー(Simon Murphy)|| 8
|-
|ジャン・バティスタ・トルドー(Jean Baptiste Trudeau)|| 16<ref name=roster/>
|}
|}

[[File:Donner tree stumps2.jpg|thumb|alt=Tree stumps taller than a man, in a forest clearing.|ドナー一家が越冬したオルダー川河畔。切り株の高さが、積雪の深さを表わす。1866年撮影。<ref name=Weddell1945>Weddell, P. M. (March 1945). "Location of the Donner Family Camp", ''California Historical Society Quarterly'' '''24''' (1) pp. 73?76.</ref>]]
3月14日、子供の生存を信じてトラッキー湖畔を訪れたフォスターとエディだったが、待っていたのは子供の死という現実だった。ケスバーグから「息子さんを食べました」と告白されたエディは、「もし今度カリフォルニアで会ったら、殺してやる」と宣言している<ref>Rarick, pp. 217?218.</ref>。ジョージ・ドナーとジェイコブ・ドナーの息子のうち1人はまだオルダー川河畔で生存していた。タムゼン・ドナーはトラッキー湖畔のマーフィーの小屋に来ていたが、救助隊が続いて来ることを知らされ、病身の夫と共に残ることを決意した。結局、ドナー家の4人の子供とトルドー、彼らの世話をするため居残っていた救助隊員のクラークのみで出発することになる<ref>Stewart, pp. 247?252.</ref><ref>Rarick, p. 219.</ref>。

まだ生存している大人を救出するため、新たに2つの救助隊が召集されたが、両部隊ともベアバレーに入る前に引き返し、それ以上のことをしようとはしなかった。第3次救助隊がトラッキー湖畔を発ってからほぼ1ヶ月後の4月11日、サッター砦近隣の [[:en:alcalde|アルカイデ]](メキシコの行政官)がドナー家の親戚の要請を受け、救助隊を結成。山脈を越えた彼らは、オルダー河畔のキャンプでジョージ・ドナーの遺体を発見した。彼を看病していたタムゼンの姿はそこになく、トラッキー湖に向かった一行は途中でルイス・ケスバーグに出会う。彼の話によれば、第3次救助隊が出発した1週間後にマーフィー婦人が死亡したという。 さらに数週間後、タムゼン・ドナーが峠道を越えてケスバーグの小屋にやってきたが、彼女は目に見えて錯乱状態にあった。ケスバーグは彼女を毛布で包み、あくる朝に出発するよう勧めたが、彼女は夜の間に死亡していたとのことだった。救助隊は、ケスバーグが語る顛末を信じることが出来なかった。小屋の内部からは人肉で満たされた壷、ジョージ・ドナーのピストル、宝石、250ドル相当の金が発見された。拷問にかけられたケスバーグが白状することには、、タムゼンの子供たちのために、彼女から273ドルを受け取ったという<ref>Stewart, pp. 258?265.</ref><ref>Rarick, pp. 222?226.</ref>。

=== 事件の反響 ===

{{Quote box
| width = 30%
| quote = "これほどおぞましくて悲惨な光景を、今だ見た事が無い。この地に残る物を、カーニー大将の指揮で集め、少佐の指揮で埋葬する。丸太小屋の中央に掘られた窪みには、遺体が埋葬されている。彼らはあらゆる恐ろしいものに囲まれ、悲劇的な消費行為を続けてきたのだ。死者への憂鬱でおぞましい任務を少佐の命で実行し、小屋を焼き払う。シーツに包まれたジョージ・ドナーの遺体を、8~10マイル離れた彼のキャンプで発見した。彼は事情を説明した隊の者によって埋葬された."
| source = [[スティーブン・W・カーニー]]の部下の手記より。1847年6月22日<ref>Stewart, pp. 276?277.</ref>
}}

4月29日、ルイス・ケスバーグを伴った救助隊がサッター砦に帰り着いた。彼らに接した[[:en:Samuel Brannan|サミュエル・ブラナン]]や [[末日聖徒イエス・キリスト教会]] の長老、さらにジャーナリストの口を通じ、「ドナー隊の悲劇」はアメリカ東部にも伝わった<ref>Stewart, p. 276.</ref>。詳細が海路を通じ[[ニューヨーク市]]に伝わったのは1847年7月である。全米は西部開拓団を襲った悲劇のニュースに熱狂した。いくつかの報告書は、扇情的なニュースながら小さくまとめるのみだったが、カリフォルニアの地元紙を含めいくつかの新聞紙上では、ドナー隊が陥らざるを得なかった[[カニバリズム]]を図入りで大げさに書き立てている<ref name=rarick241-242>Rarick, pp. 241?242.</ref>。 いくつかの出版物の中には、ドナー隊のメンバーは英雄であり、カリフォルニアは大きな犠牲を払う価値のある楽園であると主張するものもあった<ref name=unruh>Unruh, pp. 49?50.</ref>。

事件後、西部へと向かう移民団の数は大幅に減少している。米墨戦争の混乱はもとより、ドナー隊事件が明らかに影響していると見られる<ref name=rarick241-242/> 。1846年にカリフォルニアに移住した開拓者は1,500人だったが、1847年には450人、1848年には400人である。しかし[[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]] の到来により、1849年には 25,000もの人々が西部に殺到している<ref>Unruh, pp. 119?120.</ref>。大半の移民は[[:en:Carson River|カーソン川]]をたどるルートを選択したが、あえてドナー隊の記録に登場するルートを用いる者もあったという<ref name=hardesty2>Hardesty, p. 2.</ref>。現在では、ドナー隊が越えようと試みたシエラネバダ山脈のフリーモント峠は[[:en:Donner Pass|ドナー峠]]、一冬を越したトラッキー湖は [[:en:Donner Lake|ドナー湖]]の名で広く知られている。

1847年6月、 [[スティーブン・W・カーニー]] 率いる軍が現地に赴いて遺体の埋葬に着手し<ref name=hardesty2/>、いまだ残る2棟の丸太小屋を焼き払った。リードとグレイブス一家が越冬していた丸太小屋の跡からは、その後数年に渡って生活をうかがわせる品物や人骨が発見されていたという。1891年には、トラッキー湖畔の地中から現金が発見された。これは恐らくグレイブス婦人が蓄えていたもので、第2次救助隊が到来した折、後で取りに戻るつもりで隠したものと思われる<ref>Stewart, pp. 276?279.</ref><ref>Rarick, p. 235.</ref>。

事件後、案内人のランスフォードヘスティングスは「死の脅迫」に苛まれることとなる。ドナー隊以前に山を越えた移民たちは、ヘスティングはルートのいくばくかの危険は説明していたとしている。"もちろん、彼は何も言い返せないし、不幸なことは確かだ。でも、良かれと思ってしたことだ"<ref>Johnson, p. 233.</ref>。

=== 生存者たち ===

ワサッチ山脈以西に向かった87人のうち、生存者は48人だった。リード家とブリーン家は一家全員が無事だったが、ジョージ・ドナー、ジェイコブ・ドナー、フランクリン・グレイブスは妻ともども死亡し、子供たちは孤児となった。ウィリアム・エディは家族全員を失い、マーフィー一家は大半が死に絶えた。家畜もほぼ全滅し、カリフォルニアに生きてたどり着いたのは3頭のラバのみだった。ドナー隊の所持していた財産は、大半が打ち捨てられてしまった<ref>Stewart, p. 271.</ref>。

{{Quote box
| align=left
| width = 30%
| quote = "私は体験した災難のうち半分も書いていませんが、あなたが知りえない災難を伝えるには、これで充分すぎるというものです。でも、私たちの家族が人肉を食べなくて済むようにしてくれた神様に感謝します。あらゆることが降りかかってきますが、私は気にしません。我々には、我々の生活があります。でも、この手紙で誰かを落ち込ませないでください。決して近道を選んだり、急いだりしないように"
| source = バージニア・リードより、いとこのメアリー・キーズへ。1847年5月17日<ref group=note>Virginia Reed was an inconsistent speller and the letter is full of grammar, punctuation and spelling mistakes. It was printed in various forms at least five times and photographed in part. Stewart reprinted the letter with the original spelling and punctuation, but amended it to ensure the reader could understand what the girl was trying to say. The representation here is similar to Stewart's, with spelling and punctuation improvements. (Stewart, pp. 348?354)</ref>
}}

もとより女性の少ないカリフォルニアゆえ、生存者のうちで未亡人は数ヶ月以内に再婚した。リードは [[サンノゼ]]の街に落ち着き、ドナー家の2人の遺児を引き取って新生活を始めた。やがて到来したゴールドラッシュの波に乗り、リードは成功を収める。リードの娘・バージニアは父親の監視の元でイリノイ州在住のいとこ宛に"私たちがカリフォルニアで体験した災難"と題する手紙を書き送っている。 1847年6月、ジャーナリストのエドウィン・ブライアント(Edwin Bryant)はその手紙を手に入れ、手直しした上で1847年12月16日付のイリノイ・ジャーナル紙(Illinois Journal)に掲載している<ref>Reed, Virginia (May 16, 1847), "Letter to Mary Keyes", published in Stewart, pp. 348?362.</ref>。トラッキー湖畔での越冬の折、毎日敬虔に祈るパトリック・ブリーンの姿に感銘を受けていたバージニアは、その後カトリックに改宗した。マーフィーは[[メアリーズビル (カリフォルニア州)|メアリーズビル]]で暮らし、ブリーン一家は [[:en:San Juan Bautista, California|サン・ジョアン・バウチスタ]]の街<ref>King, pp. 169?170.</ref>で旅館を経営していたが、1862年の [[:en:Harper's Magazine|ハーパーズ・マガジン]] 誌上において、越冬時のカニバリズムを匿名で証言していた疑いが持たれている。<ref>Browne, J. Ross, excerpt from "A Dangerous Journey" (1862), published in Johnson, pp. 171?172, and Johnson, p. 170.</ref>。ジョージとタムゼン夫婦の遺児は、サッター砦の近隣に住む老夫婦に引き取られた。ドナー家の子供のうち最年少のエリザは、1911年にドナー隊の記録を出版している。しかし彼女は1847年当時にまだ3歳だったため、内容は姉たちの証言に基づくものである<ref>Johnson, p. 2.</ref>。ブリーン家の最年少の娘・イザベラ(Isabella)は、ドナー隊の最後の生き残りとして1935年に死去した<ref>King, pp. 177?178.</ref>。

{{Quote box
| width = 30%
| quote = "これからあなたにフレンドリーなアドバイスを差し上げます。家にとどまりなさい。そこが一番いい場所ですよ。病気になることがあったにしても、飢えて死ぬことなどないのですから"
| source = メアリー・グレイブスから。 レヴィ・フォスディックへ (彼女の姉妹、サラ・フォスディックの義理の父親)1847年。<ref>Graves, Mary (May 22, 1847), "Letter from California", published in Johnson, p. 131.</ref>
}}

グレイブス家の子供たちは、様々な生活を送っていた。メアリー・グレイブスは早くに結婚したが、最初の夫は殺されてしまった。彼女は監獄に収容された夫殺し犯のために食事を作り、彼が絞首刑に処せられるまで飢えることがないよう気を配った。メアリーの孫の1人は、彼女が深刻な表情で語っていたと回想している。 "私は泣き叫びたいが、それができない。もし私がこの悲劇を忘れられるのなら、また泣き叫ぶ方法を思い出すかもしれない"<ref>Johnson, pp. 126?127.</ref>。メアリーの弟・ウィリアムは落ち着くまでかなりの時を要した。1847年当時9歳だったナンシー・グレイブスはやがて歴史家の好奇心に晒され、矢継ぎ早に質問が浴びせられるようになる。彼女は自身のカニバリズムへの関与は否定したものの、兄や母親のカニバリズム行為に関しては認めざるを得なかった<ref>Rarick, p. 230.</ref>。


エディは再婚し、カリフォルニアでの新生活を始めた。彼は、自身の息子を食べたケスバーグとの因縁を果たそうとするものの、ジェームズ・リードやエドウィン・ブライアント(Edwin Bryant)に思いとどまらされる。後年、彼は自身やリードの体験をまとめ、ドキュメンタリーを執筆している<ref>Hardesty, p. 3, Johnson, pp. 8?9.</ref>。エディは1859年に死去した。

ルイス・ケスバーグは、自身にタムゼン・ドナー殺しの濡れ衣を着せたとして、救助隊の何名かを名誉毀損で訴えている。法廷は彼に損害賠償として1ドルを送ったものの、訴訟費用を払ったのはケスバーグ自身だった。1847年のカルフォルニア・スター(California Star)紙は、ケスバーグが救助隊員から受けた集団暴行とともに、ケスバーグ自身の残酷な行いを報じている。それは、ケスバーグが馬など家畜の肉よりも、人肉を食べつつ春を待っていたというものだった。 歴史家のチャールズ・マクグラシャン(Charles McGlashan)は、彼のタムゼン殺しを告訴すべく充分な情報を集めたが、それでもケスバーグは殺していないと結論付けた。エリザ・ドナー・ホートンは彼の無罪を信じ続けた<ref>King, p. 106.</ref>。ケスバーグは老いるに従って地域から爪はじきにされ、のけ者にされ、揚句は脅迫された。ケスバーグはマクグラシャンにこのように激白している。"たまに思うんだよ。神様は、この世の中で俺を名指ししたんだって。この世の全ての男の中で、俺が一番辛くて悲惨な境遇に耐えられるから選んだんだって。"<ref>McGlashan, pp. 221?222.</ref>

==遺産==
[[File:Donner Party Memorial.jpg|thumb|upright|alt=Three figures on a tall stone plinth.| [[:en:Donner Memorial State Park|州立ドナー記念公園]]のモニュメント。台座の高さ22フィート(6.7m)は、事件当時の雪の深さを表わす]]

ドナー隊のエピソードは、オレゴンやカリフォルニアに向かった数十万の移民の物語の中でとても有意義と言えるものではない。しかし現代に至るまで、アメリカでは歴史、小説、ドラマ、演劇、詩、映画などあらゆるエンターテインメントの根底を確立している。例えば、映画「[[シャイニング (映画)|シャイニング]]」でも、冬季に休業するホテルの管理人として山中に赴く夫婦の会話に、ドナー隊の逸話が登場する。スチュアート(Stewart)は、"ドナー隊で発生したカニバリズム。それはマイナーなエピソードかもしれないが人々の心を捉える。タブーであるからこそ、反発と同時に大いなる魅力になるのだ"と称している<ref>Stewart, p. 295.</ref>。
ジョンソン(Johnson)は1996年に、ドナー隊をテーマとしたあるイベントを報告している。それは興味本位の個人向けではなく、一般人や家族連れを対象にしたものだった。"それは恐るべき皮肉であり、希望は幻滅だった。カリフォルニアの肥沃な渓谷における健康的な新生活は、多くの悲劇と飢餓、さらに死の発端だった"<ref>Johnson, p. 1.</ref>

一行が丸太小屋を築いたトラッキー湖畔は、1854年というかなり早い段階で一種の「名所」と化した<ref>State of California, p. 43.</ref>。1880年代には、チャールズ・マクグラシャンがドナー隊を記念する碑の建設を発案し、1918年6月にはブリーンやケスバーグの丸太小屋があった一帯の土地を購入して開拓民の家族を表わした銅像を造営し、ドナー隊に捧げた<ref name=rarick243and244>Rarick, pp. 243&ndash;244.</ref>。そして1934年、それはカリフォルニア州の歴史的建造物と認定された<ref>State of California, p. 44.</ref>。

カリフォルニア州は、1927年に [[:en:Donner Memorial State Park|州立ドナー記念公園]] を設立した。元々は記念碑建設のために用意された11エーカー(0.0045平方km)の土地から出発したこの公園は、20年後にマーフィーの丸太小屋があった場所も購入されて追加され、<ref>State of California, p. 45.</ref>1962年には、カリフォルニアへの移民の歴史を展示する移民街道博物館(Emigrant Trail Museum)が新たに加わる。さらに1963年、マーフィーの丸太小屋とドナーの記念碑は[[アメリカ合衆国国定歴史建造物]]に認定された。マーフィーの丸太小屋の炉に使われていた岩にはドナー隊の生存者と死亡者の姓名を書き記した銅製のプレートが張られている。2003年だけで、この地に推定で20万人もの観光客が訪れたという<ref>State of California, p. 59.</ref>。

=== 死亡率 ===

大半の歴史家は、ドナー隊のメンバー数を87人とカウントしている。歴史家のステファン・マッカーディー(Stephen McCurdy)は西部医学ジャーナル(Western Journal of Medicine)誌上において、リードの母親、サラ・キーズとインディアンのガイド、ルイスとサルバドールも加えて90人としている<ref name=mccurdy/>。そのうち5人がトラッキー湖に至る前に、肺結核(ハロラン)、人的、物的トラブル(シュナイダー、ウルフィンガー、パイク)、極度の陽光 (ハードキップ)で死亡している。さらに1846年12月から1847年4月までの越冬で34人が死亡した。その内訳は、男性25人、女性9人である<ref name=GraysonAutumn1990>Grayson, Donald K. (Autumn 1990). "Donner Party Deaths: A Demographic Assessment", ''Journal of Anthropological Research'' '''46''' (3) pp. 223?242.</ref><ref group=note>Grayson in his 1990 mortality study stated that the one-year-old Elizabeth Graves was one of the casualties, but she was rescued by the second relief.</ref>。幾人かの歴史家や他の権威は、多くの死により得られたデータから栄養と死の関係を探っている。最初に雪のシエラネバダ山脈を越えようと試みた「snowshoe party」15人のうち、8人(スタントン、ドラン、グレイブス、マーフィー、アントニオ、フォスディック、ルイス、サルバドール)の男性が死亡しているが、反対に女性は5人が全員生き残っている<ref>Johnson, p. 54.</ref>。ワシントン大学の教授は、このドナー隊のエピソードについて "状況による自然淘汰の一例"と結論している<ref>Hardesty, p. 113.</ref>。

トラッキー湖畔、オルダー河畔、さらにシエラネバダ山脈越えにおけるいくつもの死は、栄養失調、過労、酷寒すべてによるものだろう。これに加えて何人か、たとえばジョージ・ドナーは感染症で命を落としている<ref name=hardesty114>Hardesty, p. 114.</ref>。一方、最も重要な生存の要因は、年齢と性別、そして家族構成である。ドナー隊の生存者は、平均で7.5歳死者より若かった。6歳から14歳までの子供の生存率は幼児よりも高く、旅路で生まれたケスバーグの子供を含めた6歳以下の幼児や35歳以上の成人は62.5パーセントが死亡している。49歳以上の生存者はいない。そして、20歳から39歳までの男性の死亡率が66パーセントと極端に高い<ref name=GraysonAutumn1990/>。女性はタンパク質の新陳代謝が男性にくらべて低く、さらに体内に脂肪を溜め込むことができるため、飢餓や過労に耐え得る。また、腕力に優れた男性は女性よりも、危険な作業に従事する必要に迫られている。例えば、トラッキー湖畔に到着するまでの旅路で、一行の成人男性すべてが路上の障害物を取り除ける作業に追われていた。これら過労により、壮年男性は体力を消耗していたのだろう。家族で移動していた者は、独身者よりも生存率が高かった。家族で行動すれば、周囲から快く食料を分けてもらえるからである<ref name=mccurdy>McMurphy, Stephen (1994). [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1022425/pdf/westjmed00068-0044.pdf Epidemiology of Disaster The Donner Party (1846?1847)], ''Western Journal of Medicine'', '''160''', pp. 338?342.</ref><ref>Hardesty, pp. 131?132.</ref>。

=== カニバリズムが残したもの ===

生存者たちはカニバリズムの存在に異議を唱えたが、チャールズ・マクグラシャンはじめ多くの特派員がその後40年間に渡って生存者に取材を試みている。彼らの取材方法は不親切で恥知らずなものであったが、最終的に取材は成功している。 マクグラシャンが1879年に発表した「ドナー隊の歴史」(History of the Donner Party)は「悲惨な状況が記されています」と断られた上で、幼児や子供の死に至るまでの苦しみや、ジョージア・ドナーの証言によるマーフィー婦人の顛末などが詳細に記されていたが、オルダー河畔のカニバリズムについてはおろそかにされていた<ref>Stewart, pp. 307?313.</ref><ref>McGlashan, p. 161.</ref>。同年、マクグラシャンの本の出版を受けたジョージア・ドナーは彼に手紙を送り「オルダー河畔のキャンプでは、2つのテント両方で人肉が用意されました」と新たに証言している。しかし、事件当時4歳だった彼女の記憶は"父さんは泣くばかりで、私たちの方など見ちゃくれません。私たちは小さくて、何もしてあげられなかった。他には何も知りません"というものである。彼女はまた、ある朝にジェイコブ・ドナーの妻であるエリザベスが、25歳の御者サミュエル・シューメーカー(Samuel Shoemaker)の腕を料理していたのを思い出した<ref>Stewart, p. 312.</ref>。ジョージアの妹・エリザは、1911年に自身が3歳の折に体験した試練を発表しているが、カニバリズムについては言及していない。考古学的な所見からは、オルダー河畔におけるカニバリズムの存在は証明されていない<ref group=note>None of the bones tested at the Alder Creek cooking hearth could be conclusively identified as human. According to Rarick, only cooked bones would be preserved, and it is unlikely that the Donner Party members would have needed to cook human bones. (Rarick, p. 193)</ref><ref>Rarick, p. 193.</ref>。

1856年、エリザ・ファーナム(Eliza Farnham)によるドナー隊の論述はマーガレット・ブリーンの証言に基づいていた。その説明は、ジェームズ・リードや第3次救助隊に置き去りにされたグレイブスやブリーン一家が、雪穴のなかで陥らざるを得なかった境遇が詳しく述べられている。それによれば、当時7歳だったメアリー・ドナーが、凍死したアイザック・ドナー、フランクリン・グレイブス・ジュニア、エリザベス・グレイブスの遺体を食べることを提案したとのことだった。なぜならばオルダー河畔ではすでにカニバリズムが行われ、彼女は自身の父親・ジェイコブの遺体すら口にしていた。そのため抵抗感が全く無かったという。マーガレット・ブリーンは、自身と家族は決して人肉に口をつけなかったと証言したが、キルステン・ジョンソン(Kristin Johnson)、イーサン・ラリック( Ethan Rarick)、ジョセフ・キング(Joseph King)は、人間が9日の間なにも食べずに生きられるはずが無く、生き残るためには人肉を口にするほか無いと反論した。キングはファーナムに、マーガレット・ブリーンの証言に囚われないよう示唆している。<ref>Farnham, Eliza, excerpt from ''California, In-doors and Out'' (1856), published in Johnson, pp. 139?168.</ref><ref>Johnson, p. 164., Rarick, p. 213, King, pp. 86?87.</ref>
[[File:JeanBaptisteTrudeau.JPG|right|thumb|壮年時代のジャン・バティスタ・トルドー。彼はオルダー河畔でのカニバリズムを証言している。|alt=Refer to caption]]
H. A. ワイズの1847年の出版物によれば、ジャン・バティスタ・トルドーは越冬時の「武勇伝」を周囲に吹聴し、ジェイコブ・ドナーや赤ん坊の遺体を生で喰らったと毒々しく言いふらしていたという<ref>Wise, H. A., excerpt from ''Los Gringos'' (1849), published in Johnson, pp. 134?135.</ref> 。後年、エリザ・ドナー・ホートンに会ったトルドーは、カニバリズム行為を否定し、さらに1891年、60歳になったトルドーは[[セントルイス]]の地元紙のインタビューを受けた折、重ねてカニバリズムの存在を否定している。ホートンや他のドナー家の娘たちは、彼が最終的にオルダー河畔にタムゼン・ドナーを置き去りにしていたにも関わらず、トルドーに好意を抱いていた。著者のジョージ・スチュアートはトルドーの説明を熟考し、彼が1884年にホートンに語った内容よりも、ワイズの記述が正確で、彼はタムゼン・ドナーを置き去りにしたと結論した<ref>Stewart, p. 297.</ref>。キルステン・ジョンソンは、ワイズの文章に残されたトルドーの残酷な行いは、年上のワイズが、当時は20歳前だったトルドーにインタビューしたからこそ飛び出した逸話で、「年上の者を驚かせて喜びたい、思春期特有の欲望」だとしている。ある程度の年齢に達し分別のついた彼は、今度はホートンを怒らせないように言葉を選んだ上で証言したと見なしている<ref>Johnson, p. 133.</ref>。

イーサン・ラリックは、繰り返し述べている。 "...栄光に満ちた英雄か、あるいは汚れきった悪人か?ドナー隊の物語を結論付けることは難しい。彼らは悪行も行わなければ、英雄的行為もしなかったのだから"<ref>Rarick, p. 245.</ref>

==関連項目==
*[[:en:Donner Party timeline|ドナー隊の年表]]

== ノート ==
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==引用==
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==参考文献==

* Bagley, Will (2010), ''So Rugged and So Mountainous: Blazing the Trails to Oregon and California, 1812?1848'', University of Oklahoma Press, ISBN 978-0-8061-4103-9
* Hardesty, Donald (1997). ''The Archaeology of the Donner Party'', University of Nevada Press. ISBN 0-87417-290-X
* Johnson, Kristin (ed.)(1996). ''Unfortunate Emigrants: Narratives of the Donner Party'', Utah State University Press. ISBN 0-87421-204-9
* King, Joseph (1992). ''Winter of Entrapment: A New Look at the Donner Party'', P. D. Meany Company. ISBN 0-88835-032-5
* McGlashan, Charles (1879). ''History of the Donner Party: A Tragedy of the Sierra Nevada'': 11th edition (1918), A Carlisle & Company, San Francisco
* Rarick, Ethan (2008), ''Desperate Passage: The Donner Party's Perilous Journey West'', Oxford University Press, ISBN 0-19-530502-7
* Rehart, Catherine Morison (2000), ''The Valley's Legends & Legacies III'', Word Dancer Press, ISBN 978-1-884995-18-7
* State of California Park and Recreation Commission (2003), [http://parks.ca.gov/pages/21299/files/donner%20gp%20vol%201%20final.pdf Donner Memorial State Park General Plan and Environmental Report], Volume I. Retrieved on March 24, 2010.
* Stewart, George R. (1936). ''Ordeal by Hunger: The Story of the Donner Party'': supplemented edition (1988), Houghton Mifflin. ISBN 0-395-61159-8
* Unruh, John (1993). ''The Plains Across: The Overland Emigrants and the Trans-Mississippi West, 1840?60'', University of Illinois Press. ISBN 0-252-06360-0

==読書案内==

* ''The Donner Party Chronicles: A Day-by-Day Account of a Doomed Wagon Train, 1846?1847'' by Frank Mullen Jr.
* ''The Expedition of the Donner Party and its Tragic Fate'' by Eliza P. Donner Houghton
* ''Excavation of the Donner-Reed Wagons: Historic Archaeology Along the Hastings Cutoff'' by Bruce R. Hawkins and David B. Madsen
* [http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/donner/ American Experience: Donner Party] (video)
* ''The Indifferent Stars Above: The Harrowing Saga of a Donner Party Bride'' by Daniel James Brown
* ''Searching for Tamsen Donner'' by Gabrielle Burton
* "The Year of Decision: 1846" by Bernard DeVoto


==外部リンク==
==外部リンク==
*[http://www.utahcrossroads.org/DonnerParty/ List of Donner Party Resources compiled by Kristin Johnson]
*[http://www.utahcrossroads.org/DonnerParty/ List of Donner Party Resources compiled by Kristin Johnson]
*[[wikisource:Statement of Daniel Rhoads, Bancroft Library 1873|Statement of Daniel Rhoads regarding the relief of the Donner Party, 1846]], by [[Daniel Rhoads]], a member of the first rescue party
*[[wikisource:Statement of Daniel Rhoads, Bancroft Library 1873|Statement of Daniel Rhoads regarding the relief of the Donner Party, 1846]], by [[Daniel Rhoads]], a member of the first rescue party
*[http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text2/donner.html ドナー隊の遭難]
*[http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/murder/text2/donner.html ドナー隊の遭難](本稿とは、旅程やケスバーグ関係の記述にかなり差異が見受けられる)


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2011年4月30日 (土) 14:55時点における版


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28ページに渡るパトリック・ブリーンの日記には、1847年2月の状況が記されている。 "昨日、マーフィー夫人はミルトを食べようと提案した。私はまだそのように考えられない。これは悲劇というものだ。"(原文ママ)

ドナー隊 (Donner Party)、あるいはドナー・リード隊(Donner-Reed Party) とは、1846年の春、 アメリカの東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民のグループである。 彼らは旅程の遅れのために、1846年晩秋から47年早春まで シエラネバダ山脈山中での越冬を余儀なくされ、過酷な環境の中で多数の餓死者や凍死者を出した。死者が続出するなか、残った者は生き残るため、必然的にカニバリズム(人肉食)に走らざるを得なかった。

アメリカ西部への幌馬車による旅は、大抵の場合は6ヶ月を必要とする。しかしドナー隊はヘスティング・カットオフと呼ばれる近道を選択したところ悪路に阻まれ、さらにワサッチ山脈グレートソルト湖周辺の砂漠地帯を越え、 フンボルト川 の谷に従って進みネバダ州に至る間に多くの幌馬車と家畜を失い、グループ内にも分裂が生じた。

1846年11月、一行はカリフォルニアに至る最後の障壁・シエラネバダ山脈に差し掛かる。 しかし早い冬の訪れに伴う大雪に阻まれ、海抜2000mに位置するトラッキー湖(現在では、 ドナー湖と呼ばれている) 湖畔での越冬を余儀なくされる。食料は早い段階で尽き、幾人かは雪の山脈を越えてカリフォルニアに助けを求めた。しかし救援隊は1847年2月になるまで到着せず、結局一行87人のうち、生きてカリフォルニアの地を踏んだのは48人だった。 歴史家は、この事件を西部開拓史における壮大な悲劇と位置づけている[1]

時代背景

ネバダ州のフンボルト川で野営する移民団。1859年

1840年代に至り、アメリカ西部のオレゴン やカリフォルニアへの入植を目指して東部を発つ人々は劇的に増加した。中にはパトリック・ブリーンのように、カトリックとしての信仰生活を体現するべく新天地を目指す者もいたが[2]、大抵の者は白色人種によるアメリカ大陸全土の領有を正当化する思想「マニフェスト・デスティニー」の名の下に、自発的に西部を目指した[3]

彼ら移民を乗せた数多くの幌馬車は、ミズーリ州の町・インディペンデンスを出発点とし、北米大陸の大分水嶺・ コンティネンタル・ディバイドを越える街道オレゴン・トレイルを1日15マイル(24km)[4]のスピードで進み、4~6ヶ月を費やして西部にたどり着く[5]。 旅行者たちは、ロッキー山脈越えのルートとしてワイオミング州にある峠・ サウス・パスを通過した後[6] 、それぞれの目的地に至るルートを選択した[7]

初期の移民である ランスフォード・ヘスティングス は、1842年にカリフォルニアに入植するとともに、さらなる定住者の増加を促すため、オレゴン・カルフォルニア移民への手引書を出版した[8] 。 その著書において彼は、カリフォルニア行きのルートとして グレートベイスンを越え、さらに ワサッチ山脈グレートソルト湖を通過する旅程を延べている[9]。 しかしながらヘスティング自身は、1846年始めにおけるカリフォルニアから ブリッジャー砦までの旅において、自身が提案したルートを使用してはいなかった。なお、ブリッジャー砦とは、探検家の ジム・ブリッジャー が相棒の ピエール・ルイ・バスケス と共にワイオミング州のブラックフォークに設立した交易所である。 ヘスティングスは自身が提案した近道を旅行者たちに伝授すべく、この砦に滞在していた[8] 。さらに1846年、ヘスティングスは2度にわたり、2人の男にグレートソルト湖南部を通るルートを熱心に進めている[9][note 1]

カリフォルニア行きの旅における最大の難所は、最後の100マイル(160km)に渡って繰り広げられる シエラネバダ山脈横断である。 この山脈には、海抜12000フィート(3700m)を越す峰が500以上も聳え[10]、東側は非常に急な斜面になっている。さらに山自体の高度と太平洋に近い立地条件ゆえ、北米大陸一番の豪雪地帯である[11]。これら難所を踏破するためには、季節との兼ね合いを考えての旅行の計画を立てることが最も重要である。文明世界のミズーリ州を抜け、荒野を横断してオレゴンやカリフォルニアを目指す。春の雨は道を泥沼に変えて幌馬車を阻み、9月以降の山では猛吹雪が吹き荒れる。 なお、動力が牛馬である以上、周囲に飼い葉が生い茂る季節のうちに旅を終えなくてはならない。

参加者たち

1846年、春。ミズーリ州インディペンデンスの町から500もの幌馬車が西部を目指し出発した。[12]その最後尾が[13]、ドナー一家とリード一家、さらに彼らの雇い人、総勢32人が乗り込む9台の幌馬車だった。時に5月12日のことである[14]ジョージ・ドナー は元々ノースカロライナ州の住民だったが、ケンタッキー州、そしてテキサス州 という具合に、次第次第に西へと居を移していた。1846年はじめの時点で、ジョージ・ドナーは イリノイ州スプリングフィールド に住む62歳の農民だった。彼は妻のタムゼン(Tamusen)との間に3歳から13歳まで5人の娘を儲けていた。また、ドナーの弟・ジェイコブ(Jacob)も旅に参加していた。ジェイコブは妻との間に9歳を頭に5人の子を儲け、さらに養子として10代の子供を2人養っていた[15]

A man and woman, shown from the waist up. He has dark bushy hair and a beard and is wearing a three-piece suit with wade lapels and a bow tie. She has dark hair and wears a 19th-century dress with lace collar and bell sleeves.
ジェームズ・リードと妻のマーガレット

ジェームズ・リード は、1831年にイリノイ州に定住した裕福なアイルランド系移民で、旅に同行するのは彼の妻・マーガレット(Margret)、娘のパティ( Patty )とバージニア(Virginia)、息子のジェームズ(James)とトーマス(Thomas)である。マーガレットは元来病弱だったため、リードは「転地療法」の意味も込めて、西部への移住を決意した[16]。その旅の為、リードは特別に設計した大型の幌馬車を用意し、動力として何頭もの家畜を繋ぎ、御者として多くの若者を雇い入れた[16]。 なお、旅にはリードの義理の母親であるサラ・キリーズ(Sarah Keyes)も同行していたが、彼女はかねてから病んでいた 肺結核[17]により、5月28日に客死した[18]。道中での死ゆえ、彼女の遺体は路傍に埋葬された。

ドナーとリードの一行は、ウィリアム・ラッセルが率いる50台もの幌馬車部隊に加わった[13]。一行は、6月16日の時点で出発地から450マイル(720km)の地点に達し、ワイオミング州のララミー砦までは200マイル(320Km)に迫っていた。 しかし折からの大雨で河は増水し、渡河に手間取るなどして旅程に遅れが出始めた。タムゼン・ドナーはスプリングフィールドの友人宛にこのような便りを書いている。

"体験したこともないことが起こりました。これから一層悪くなるのでしょうか。すべての災難が降りかかるのでしょうか"[19][note 2]

一方、まだ若いバージニア・リードは、出発当初のこの頃を"完璧に幸せだった"と回想している[20]

やがて一行に他の移民が加わり始めた。未亡人のレビーナ・マーフィー( Levinah Murphy)は13人家族の長として、思春期を迎えた5人の子供、さらに2人の娘が嫁入りした先の家族まで引き連れていた。 若夫婦と幼い子供から成るエディ(Eddy)の一家。パトリック・ブリーン( Patrick Breen)と妻・ ペギー(Peggy)、末っ子以外はみな男の7人きょうだい 。ブリーンと行動を共にする40歳の独身男、パトリック・ドラン(Patrick Dolan)。そして家畜たちの世話係であるアントニオ(Antonio)[21][22] 。 ルイス・ケスバーグ(Lewis Keseberg)はドイツ系移民 で、妻や娘をひき連れていたが、道中で新たに息子が生まれていた[12] 。 スピッツァー( Spitzer)とラインハルト(Reinhardt)という2人の若い独身のドイツ人は、他のドイツ人夫婦と行動を共にしていた。 ウォルフィンガー(Wolfingers)と、彼の御者"ダッチ・チャーリー(Dutch Charley)" ことバーガー(Burger)。 そして、ハードキップ(Hardkoop)という老人が幌馬車に同乗していた。まだ若いルーク・ハロラン( Luke Halloran)は肺結核を病んでいたため、彼の世話に周囲が気を配らなくてはならなかった[23]

ヘスティングスは自身が提唱する新たなルートを広めるため、旅する移民たちに手紙を届けていた。7月12日、ドナーとリードもこの便りを受け取っている[24] 。ヘスティングスの警告によれば、カリフォルニアに向かう移民たちは、メキシコ当局から妨害を受ける恐れがあるという(当時、カリフォルニアはメキシコ領だった)。それゆえ、大きなグループに加わるのが得策であろうという。ヘスティングは、同時に説く。 "カリフォルニアに向かう、新しくてより良い道を発見しました" ヘスティング自身がブリッジャー砦に待機し、移民たちをその新しいルートへ案内するとのことだった[25]

ドナー隊が歩んだルート。オレゴン・トレイル(紫色の線)をブリッジャー砦まで進み、近道のつもりでヘスティングス・カットオフ(オレンジ色の線)を通る。その後、カリフォルニア・トレイル(緑色の線)に合流する

一団がリトルサンディー川に達したところで、行き先をめぐって揉め事が発生した。結局、大多数の者がオレゴン・トレイル につながるフォール砦を選択し、少数の者がヘスティングスが待つというブリッジャー砦を目指した。隊が分かれた以上、新たなリーダーを選ぶ必要がある。ジョージ・ドナーは穏やかな慈悲深いアメリカ人であり、歳を重ねることで人生経験を積み、賢さが滲み出ている。そこで、リーダー候補して最初に選ばれた[26] 。 他の者はヨーロッパから来たばかりの移民や、人生経験の少ない若者など、リーダーになりえない者ばかりである。 その中でジェームズ・リードのみは長らくアメリカで暮らし、軍隊での経験を身につけていた。しかし大半のメンバーはリードの貴族趣味と傲慢で見栄っ張りな性格を嫌い、ドナーをリーダーとして選出した[27]

ジャーナリストのエドウィン・ブライアント(Edwin Bryant)はドナー隊が到着する1週間前にブラックホークの街に至り、ヘスティングが提唱する道に接してある危惧を抱いた。あまりにも悪路ゆえ、ドナー隊の幌馬車で踏破するのは難しい。ましてや、ドナー隊は大勢の女子供を抱えている。彼はブラックホークの街に取って返し、近道を使わないよう警告を発した[28]

やがて7月27日、ドナー隊はブラックホークの街に到着した。 しかし、ヘスティングスはその時すでにブラックホークを離れ、ハロラン・ヤング(Harlan-Young)ら40台の幌馬車を指揮していた[25]。 交易所のジム・ブリッジャーは、すでに多くの人々がヘステングス・カットオフを使っていると説く。 その道は滑らかでデコボコなど一切無く、さらにカリフォルニアまでの旅が350マイル(560km)も短縮されるという。その上、敵対的なインディアンに遭遇することもない。道中すべての場所で容易に水を求められるが、2日間かけて30~40マイル(48~64km)に渡る、干上がった湖の跡を通過する必要がある、と。 これらの情報はリードに強い印象を与え、ドナー隊の男たちは議論の末にヘスティング・カットオフをたどることに決めた。その道を使うべきではないと訴えるブライアントの手紙は、何者かに握り潰された可能性がある[25][29][note 3]

ヘスティングスの街道

ワサッチ山脈

Mountain range with occasional patches of snow.
ユタ州内のワサッチ山脈

ドナー隊は、当時としては標準以上に余裕のある移民団だった[30]。彼ら開拓民は少しばかりの幸運と特別なスキル、そして山道や乾燥地帯を旅するための経験、インディアンに対応するための知識を身につけていた[31]。 ジョージ・ドナーの妻・タムゼンは、移民仲間のJ・クイーン・ソーントン(J. Quinn Thornton)に "辛くて悲しくて、気が滅入るばかりです"とこぼしている。大多数の者はヘスティングスが提唱する近道をたどるため取って返して来たが、彼女はそれを "自分勝手で山師的"な行為だと見なしていた[32]。1846年の7月31日、4日間を休息と幌馬車の修理に当てたドナー隊は、ブラックホークの町を後にした。その11日後、 一行はハロラン・ヤングの一団に追いつき、ドナー隊には新たに交代用の御者が雇用された。赤子を連れた若夫婦のマッカチェン(McCutchen)と、カリフォルニアへの道のりやインディアンについての知識が深いニューメキシコ出身の16歳の少年、ジャン・バティスタ・トルドー(Jean Baptiste Trudeau )である[33]

ヘスティングス・カットオフに沿って南へと向かい始めたドナー隊は、その日のうちに苦難の道を選択してしまったことを思い知らされた。馬車は急な坂道を幾度と無くすべり落ち、御者はその対処法として、車輪の部分を固めることを余儀なくされた。当時、西部行きの主要な街道だった オレゴン・トレイルよりも、はるかに悪路である。しかしながら、ヘスティングスはその道を開拓民に口で勧めるのみならず、道端の木に書き付けるなどして人々に行き先を示していた。 8月6日、ドナー隊一行もそのような書き付けを手にする。それには、一度停まった後にハロラン・ヤング隊と行動を共にするよう記されていた[note 4] リード、チャールズ・スタントン、ウィリアム・パイクらはヘスティングの意見を取り入れたが、やがて彼らはウェバー・キャニオンに遭遇した。大岩が転がるその峡谷は越えるにはあまりに危険で、馬車を損なってしまう恐れもある。しかしヘスティングからの手紙には、その谷間を進むよう記載されていた。[34][35]

スタントンとパイクはそこで立ち往生し、リードは隊を離れ引き返した。しかし4日後に一団は再度合流し、案内人もいない不安な旅を危惧して一般道へ引き返すべきが議論が持たれたが、リードはヘスティングスの進めるルートを選ぶべきだと強く主張した[36]。その結果として一行の進捗状況は1日に1.5マイル(2.4km)にまで落ち込んだ。のみならず、馬車を通す空隙を作るため常に藪をなぎ払い、木を伐り倒し、重い岩を動かす必要に迫られるようになる。隊の成人男性全員が、この辛い作業に追われなくてはならない[note 5]

それでも一行はようやくワサッチ山脈に到達する。ここでグレイブス(Graves)夫妻と9人の実子、義理の息子、御者のジョン・シュナイダー(John Snyder)らが乗り込む3台の馬車が加わる。こうして、ドナー隊は60から80台の馬車を有する87名の大旅行団となった[37]。グレイブス一家は、その年西部を目指してミズーリ州を出発した最後の人々である[38]

やがて一行は、 グレートソルト湖を見下ろす地点にたどり着いた。2週間もかけてワサッチ山中を越えた8月20日のことである。この時点で、すでにいくつかの家族の中では食料が不足し始め、人々はこの道を選ぶよう主張したリードに、疑いの目を向け始めた。なお、一行を離れていたスタントンとパイクはこの時点で隊に復している[39]

グレートソルトレイク砂漠

Flat expanse with a mountain range in the distance.
グレートソルトレイク砂漠

8月25日、ルーク・ハロランが肺結核で客死している。数日を経ずして、一行はヘスティングスからの手紙をズタズタに引き裂いて投げ捨てた。行く手には草地も水場も無く、一行は2昼夜ものあいだ苦難の旅を強いられ、多くの家畜を失う[40]。地獄の36時間の末に彼らが得た進捗状況は、わずかに1000フィート(300m)の山を越えただけ。この峰から、一行は行く手に広がる一面塩に覆われ渇いた大地を望むことになった[41]。ラリック(Rarick)が"この世で一番無愛想なところ"と称する不毛の地である[9] 。一行の連れた牛たちは、水場にたどり着く前に斃れ果ててしまった[41]

車輪は塩の泥沼にめり込んで行く。人も家畜も、総出で重い荷馬車を押して進ませなければならない。一番強い牛が引く一番大きな馬車が先頭になるよう、隊列が組みなおされた。日中は酷暑、それでいて日が落ちれば酷寒の砂漠気候。幾人かは幌馬車と水場の幻覚を見つつも、ヘスティングスの説くこの道こそが「安全なルート」だと信じ抜いていた。 3日後、幾人かが水場を探させるため、馬車から家畜を解き放ったが、弱った家畜はくびきを外されるやそのまま捨てられた。リードは10頭の家畜を砂漠の旅で失ったが、その他の家族も多かれ少なかれ牛馬に損害を受けていた。辛い旅で車輌や家畜には重大な被害が出たが、この時点では病死者以外の死者は出ていない。結局のところ、一行は グレートソルト湖の砂漠地帯通過に6日を費やした[42][43][note 6]

砂漠の縁の温泉地で疲れた身体を休める一行は、もはやヘスティングスに対する信頼を完全に失っていた[note 7] 。 数日後、一行は砂漠の中に遺棄した馬車や家畜の回収に当たり、食料などを他の馬車に移し変えた[note 8] 。 多くの財産や家畜を失ったリードは、他の家族たちに食料などの目録を作って差し出すよう求めている。その上で彼は、ある決断をした。それは、2人を先発隊としてカリフォルニアの サッター砦 に送るというものだった。リードは、砦の主人である ジョン・サッター が極めて寛大な性格で、わがままな開拓民にも快く救助の手をさしのべ、余分な食料を分けてくれるとの噂を聞きつけていたのである。チャールズ・スタントンとウィリアム・マッカチェンが、この危険な役に名乗りを挙げた[44]。 わずかに残った性能の良い馬車を、雄牛に牝牛、騾馬など寄せ集めの家畜が引いてゆく。2人の若い男が、失った雄牛を探すために引き返し、40マイル(64km)もの区間を見て回る[45]。この時点で、すでに9月の半ば。季節は秋へと移っていた。


リードの追放

家畜が瘠せて衰弱する中、ドナー隊は次に広がる砂漠を横断し、 ルビー山脈を越える。一行はヘスティングスを憎みぬいているにも関わらず、彼の提唱したルートを進まざるを得なかった。彼らがヘスティングス・カットオフに分け入ってから実に2ヶ月後の9月26日、一行はカリフォルニア・トレイル沿いを流れる フンボルト川に行き着いた。「近道」であるはずのヘスティングス・カットオフを選択したことで、逆に1ヶ月の遅れを招いたのである[46][47]

フンボルト川沿いを進む一行は、 パイウート族の集団に出会う。彼らは2日間に渡って隊を襲い、多くの牛馬を殺し、あるいは盗み取った。さらに10月に至り、隊は深刻な分裂状態に陥る。事の発端は、ジョン・シュナイダーと、リードの雇い御者であるミルト・エリオット(Milt Elliott)との、牛の扱いをめぐる争いだった。リードは仲裁しようとしたが、逆にシュナイダーに鞭で打ち据えられてしまう。激昂したリードはナイフでシュナイダーの鎖骨の部分を刺し貫き、彼を死に至らしめた[46][47]

その晩、リードの犯した殺人をめぐって目撃者たちの間で議論が持たれた。合衆国の法律は、この大分水嶺の地では適応されない(当時、この地はメキシコ領だった)。 そこで、幌馬車部隊自身の正義を持って裁く必要に迫られた[48]。人々はシュナイダーがジェームズ・リードばかりか、妻のマーガレット(Margret)までも打ち据える場面を目撃していた[49]が、シュナイダーは人気者で、リードはその逆である。ケスバーグ(Keseberg)はリードを絞首刑 に処すべきだと主張したが、結局リード1人を隊から追放することで事態の沈静化が図られた。翌朝、丸腰のリードは妻や子供たちから引き離され、ただ1人で去っていった[50][51][52][note 9]。 それでも、思いやりの心を持つ者たちは、リードに少しばかりの食料とライフル銃を事前に手渡していた[53]

最後のルート

隊の崩壊

Narrow river partially covered in ice.
冬のトラッキー川

様々な試練に苛まれ、隊の分裂にまで至ったドナー隊。メンバーは互いに疑心暗鬼を抱き始める[54][55]。飼い葉の不足から日に日にやせ衰える牛馬の負担を減らすべく、人々は馬車を降りて徒歩で進んでいた[56]。ケスバーグは、自身の馬車に乗っていたハードキップ(Hardkoop)を「老いぼれは歩くか死ぬかしろ!」 と、無慈悲にも降ろしてしまう。数日後、ハードキップは足を傷だらけにした姿で路傍に座り込んでいるところを目撃されたが、それが彼の最期の姿だった。ウィリアム・エディ(William Eddy)はハードキップを探し出してくれるよう他のメンバーに頼み込んだが、70歳近い年寄りを探し出して何になるかと、断られ、罵られる一方だったという[57][58]

さて、隊を追放されたリードは、ドナー隊と行動を共にしていた御者のウォルター・ハロラン(Walter Herron)に出会い、彼と馬を乗りあうことで1日につき25から40マイル(40から64km)の距離を進み続けていた[59] 。 しかしドナー隊の方では更なる災難が降りかかっていた。グレイブスはインディアンに馬を追跡され、馬車を置き去りにせざるを得なくなる。飼い葉の不足は続き、家畜は弱るばかり。ある晩のインディアンの襲撃で18頭の家畜を盗み取られ、別の朝には21頭を撃ち殺された[60] 。 一行はすでに連れていた家畜の大半にあたる100頭近い牛を失っていたが、それでも彼らの前には新たな砂漠が広がっていた。エディは車を牽く牛をインディアンに殺されたため、馬車をやむなく遺棄した。彼の家族は食料をすべて食べつくしていたが、そんな彼らを他の家族達は助けようともしない。エディと子供たちは渇きに呻きつつ、惨めな姿で歩むのみだった。追放されたリードの妻・マーガレットや子供たちも、馬車なしでの旅に耐えていた[61][62]。 ようやく砂漠は尽き、一行は青草が美しく茂る トラッキー川 に到達する[62]

季節はすでに10月中旬。少しばかりの休息の後には、雪が降るまでのわずかな期間に山脈を越えてしまわなければならない。 そこへ一足早くカリフォルニアに到着していたスタントンが、食料を携え、ラバと2人のインディアン [63]の案内人・ルイスとサルバドールを引きつれて戻ってきた。折も折、カルフォルニア側ではリードとウォルター・ハロランが、飢えに苛まれやつれながらもサッター砦へ到達していた。[64][65]なお、先発隊としてチャールズ・スタントンと行動を共にしていたウィリアム・マッカチェンは、サッター砦にたどり着きはしたものの体調を崩し、現地で療養していた。 この出来事についてラリック(Rarick)は、"飢えかけ取り乱した状態のドナー隊にとって、最悪の時期は過ぎていたように見える。彼らはこの時点でこれまでのどんな移民団よりも、苦難に耐え忍んでいたのだから"と称している[66]

雪に阻まれる

Winding road leading up a mountain
1870年代に撮影された標高7088フィート(2160m)のフリーモント峠(Fremont Pass)。ドナー隊が通過を試みた1846年晩秋には、早い段階で雪に阻まれていた。現在、ここは「ドナー峠」と呼ばれている。

秋が深まる中、ドナー隊はトラッキー川を遡り、最後の難関・シエラネバダ山脈越えを試みる。しかし砂漠越えやインディアンの襲撃に責め苛まれた彼らは烏合の衆と成りはて、隊の内実はワサッチ山脈越えの時分よりはるかに悪化していた。季節はすでに10月下旬だが、峠道が雪に覆われるのは11月中旬だとすれば、それまでの時間的猶予はある。峠越えを目前にした10月30日、ウィリアム・フォスター(William Foster)が銃の誤射を引き起こし、ウィリアム・パイク(William Pike)を死なせてしまう[67]。この出来事を受け、ささやかな休息を取っていた一行は再び出発を決意する。先頭を取るのはブリーン一家、続いてケスバーグ一家、さらにスタントン、リード婦人と子供たち、グレイブス、マーフィーが家族単位で後を追う。しんがりを務めるのはドナー一家だが、数マイル進んだところでドナー一家の馬車の車軸が折れてしまう。ジェイコブとジョージの兄弟は森に分け入って木を伐りだし、交換用の車軸を作り出していた。この作業の中、ジョージ・ドナーは手にうっかり傷をつけてしまう [68]。この傷は、やがて文字通りジョージの「命取り」となるのである。

11月上旬。はるかに望む峠道では雪が降り始めていた。パトリック・ブリーンが"重々しく、ほぼ垂直に近い斜面"と表現する1000フィート(300m)の高低差が、トラッキー川水源のトラッキー湖から頂上まで3マイル(4.8km)に渡って続いている。そこには2年前にここを通過した開拓民が築いた2軒の丸太小屋が残されていた[69][note 10] 。 エディにケスバーグ、さらにブリーンも加えた一団は雪の峠道を越えようと試みるが、すでに積雪は5~10フィート(1.5~3m)もの深さに達し、馬車の車輪は雪に埋まるばかり。そもそも峠道そのものが雪に埋もれて伺えない。一行は一度トラッキー湖畔まで引き返し、5マイル(8km)離れた場所にいたドナー一家を除き、その場に野営した。11月4日の晩、再び雪が降り始めた[70]


雪の中の野営

リードによる救助計画

トラッキー湖周辺の地図。ブリーン、マーフィー、グレイブス、リード婦人はトラッキー湖東岸に丸太小屋を築き、ドナー一家は支流のオルダー川沿いで越冬に挑んだ

さて、殺人事件が原因で隊を追放されたジェームズ・リードは、一足先にカリフォルニアにたどり着き、サッター砦で身を休めていた。落ち着くにつれ、雪の山中で難渋しているであろう家族や友人達の身が案じられてならない。リードはジョン・C・フレモント 大佐に、一緒に峠道を越え、仲間たちを連れて戻ってきてくれるよう懇願した上で、代償として米墨戦争で兵士として参加することを約束した[71]。その折、砦にはドナー隊の先発隊として山越えしたもののそのまま居残ったマッカチェンや、例のヘスティングスの手紙に書かれていた移民団であるハロラン・ヤング隊(Harlan-Young party)の幾人かがいた。10月8日にサッター砦に到着していたハロラン・ヤング隊は、1846年にシエラネバダ山脈越えに成功した最後の移民団だった[72]。 約30頭の馬と12人の男で組織された救援隊は食料を携え、ドナー隊を見つけ出すべく西側から山に分け入り、ベアバレー付近に至った。そこで一行は、別の移民団からはぐれて飢えかけていた開拓民の夫婦者を発見し、救い出している[73][74]

折りしも山の東側では、ブリーンが峠道を越えようと試みていた。一方で山の西側ではリードとマッカチェンが案内人に見捨てられつつも徒歩での踏破に挑んでいた。が、分厚い雪に阻まれて山頂から12マイル(19km)の地点をただ眺めるほかはなく、意気消沈してサッター砦に戻るのみだった[75]

トラッキー湖畔では、ブリーン、グレイブス、リード、マーフィー、ケスバーグ、エディーら60名がこの地での越冬を決意し、周囲の山林から松を伐りだして3棟の丸太小屋を造り上げた。それら小屋の一つにブリーン一家が住まい、エディーとマーフィー一家が次の小屋に身を寄せ、3番目の小屋にはリード婦人にグレイブス一家が落ち着く。ケスバーグは ブリーン一家の丸太小屋を利用して差しかけ小屋を造り、そこを住まいとした。急ごしらえの小屋ゆえ、材の組み立ては稚拙で床も張られておらず、獣皮で覆った屋根からは雨風が漏れてくる。窓もドアも無く、壁に穿たれた穴から出入りするのみ。それでもトラッキー湖畔の60人にとってかけがえの無い住まいである。この60人は、18歳以上の男性19人、成人女性12人、29人の子供からなっており、子供たちのうち6人はまだ赤ん坊だった。このドナー湖畔キャンプから10km近く離れたオルダー川(Alder Creek)の河畔では、ドナー一家とウルフィンガー婦人に子供、さらに御者ら総勢21人が急ごしらえのテントを組み立てていた。21人の内訳は、成人男性6人、成人女性3人、子供が12人である[76][77]

ただでさえ少ない食料は一層乏しくなり、残った牛も寒さと飢えで次々と倒れ、死体は凍るままに積み上げられた。トラッキー湖はいまだ氷結していないものの、開拓民らはを捕えるすべを知らない。経験豊かな猟師でもあるエディーは熊の捕獲に成功するものの、それが一行にもたらされた最後の幸運だった。全てを失ったリード婦人とエディーは、グレイブスとブリーン一家との間にある契約を交わしている。それは「カリフォルニアに到着したら2倍にして返す」との約束で3頭の牛を譲り受けるというものだった。その折グレイブスは、健康な牛2頭分の額に当たる25ドルを請求している。しかしこの時に取引されていたのは、飢え凍えて斃れた牛の死体だった[78][79]

"はかない望み"

絶望感がキャンプを覆い始めていた。幾人かは徒歩での山脈横断を試みて山中に分け入るものの、その度に身長を越す積雪に阻まれ打ち負かされ、退避を余儀なくされた。その上1週間にも渡って吹きつのる猛吹雪が、わずかに残された家畜や食料を奪い、埋め尽くしていった[81]

12月14か15日、トラッキー湖畔のキャンプではリード家の雇い人、ベイリス・ウィリアムズ(Baylis Williams)が栄養失調で死亡した。一方、フランクリン・グレイブスは牛のくびきと獣皮を使い、14足のスノーシュー(西洋式のかんじき)を作り出した。これを足に到着して雪原を歩み、徒歩で山を越えカリフォルニアに赴いて助けを呼ぼうというのである。この任務に男女に子供、合計17人が名乗りを挙げた[82]。 17人のうち、4人の男性は父親で、女性のうち3人は母親だった。なお、参加していた子供たちは彼女らの子供ではない。彼らは6日間かけてライフル銃、毛布、手斧、さらにピストル などの装備を整え、カリフォルニアのベアバレーを目指し出発した[83]。歴史家のチャールズ・マクグラシャン(Charles McGlashan)は、彼ら17人を"The Forlorn Hope"(はかない望み)と呼ぶ[84]。 メンバーは17人だが、かんじきは14足。チャールズ・バーガーと10歳のウィリアム・マーフィーは早々とトラッキー湖畔に引き返している[85]。その他のメンバーのうちレミュエルは、最初の晩に鞍の包み革を使ってかんじきを新たに1足作り出している[85]

Profile of a man with a long nose and straight hair reaching his collar.
チャールズ・スタントン

かんじきを装着しての歩行は不恰好ではあるが、雪原の上ではなかなか効果的であった。歩みのコツを覚え、12フィート(3.7m)にも及ぶ深さの雪道を進む一行だが、3日目には白い雪原に照りつける陽光の反射で、大半の者が 視力に異常をきたしていた。6日目、エディは自身の荷物の中から、半ポンドの熊肉を見つけ出す。それは彼の妻が、夫を思い密かに持たせたものだった。12月21日、この日も朝から一心に西に向かう中、スタントンが落伍してしまう。その場に座り込みつつも、後から付いてくると一同に声をかけるスタントンだったが、彼はそのまま動くことができず、翌年にその場で朽ちた白骨となって発見される[86][87]


食料に乏しいドナー隊から出発した一団ゆえ、山越え隊の食料もついに尽きてしまう。飢餓状態で2日間歩む中、パトリック・ドランが驚くべき提案をした。隊のうち誰か1人に死んでもらい、食料にしてしまおうというのである。その意見に従い、「いけにえ」を選び出すための籤(くじ)が作られた[87][88]。しかしエディの提案が実行に移される前に、猛烈な吹雪が襲来する。この最中に御者のアントニオが凍死し、続いてフランクリン・グレイブスも絶命した。折りしもクリスマスの日の出来事である[89][90]

風雪が吹き募る中、パトリック・ドランは錯乱状態に陥り、うわごとを喚きながら衣類を脱ぎ捨てて森の中に走り込んでいく。彼は自力で戻ってきたものの、数時間後に息を引き取った。ほどなく12歳のレミュエル・マーフィーが死にかけたため、他のメンバーはドランの遺体から切り取った人肉を食べさせたが、その効果もなく彼は死んでしまった。翌朝、一行はアントニオ、ドラン、グレイブス、そしてマーフィーの遺体から筋肉と内臓を取り出し、乾燥させて「保存食」に加工した。これら人肉は、仲間や身内の生命線となる[91][92]

Head and bust of a man with a high forehead, hair reaching his shoulders, wearing a 19th-century three-piece suit and a cravat.
ウィリアム・エディ

3日間休息した後、一行はカリフォルニアへの道を再度探し始めた。初めのうちこそルイスやサルバドールと共に人肉食を拒否していたエディだったが、最終的には飢えに屈して人肉を口にしている。4人の体から切り出した「保存食」もじきに底を尽き、一行はかんじきに使われている牛皮や革紐を剥がし取って齧るなどしていたが、やがてインディアンの案内人・ルイスとサルバドールを殺して食べる企みが持ち上がる。これを聞きつけたエディは、すぐさま逃げるよう2人に耳打ちした[93] 。夜半にはジェイ・ホスディック(Jay Fosdick)が死亡し、残ったメンバーは7人となる。エディとメアリー・グレイブス(Mary Graves)は狩猟に出発し、鹿肉を得ることに成功したが、戻ったキャンプではすでにホスディックの遺体が切り刻まれ食料に変わっていた[94][95]。 トラッキー湖畔を出発してから25日後、彼らは隊を逃げ出し山中を彷徨っていたルイスとサルバドールに遭遇する。9日間何も食べておらず、弱りきっている2人を、ウィリアム・フォスターは「餓死に瀕したグループを救う最後の希望」としてためらいも無く撃ち殺した。[96]。しかし、ジョセフ・A・キング(Joseph A. King)の記述は、2人のインディアンがフォスターに殺されたという話と一致しない。 「サッターの旦那が他の生き残りから聞いた話によれば、'いい子たち' (サルバドールとルイス)はドングリを集めている最中に殺されたということだ」[63]

1847年1月12日、ミウォーク族の村にやつれ果てた白人が数名転げ込んでくる。村人は驚いて逃げ出したが、事情を知ってドングリや 松の実を施した[96] 。数日後、エディはミウォーク族に助けられ、カルフォルニアのサクラメントにある農場にたどり着く[97][98] 。さらに急ごしらえの救援隊により、他の6人が救出される。時に1月17日。山脈東側のトラッキー湖畔を出発してから33日目のことだった[94][99]

トラッキー湖畔

Three log cabins with flat roofs set in the midst of tall trees, with mountains in the background. People, livestock, and covered wagons are engaged in various activities in a clearing in the middle of the cabins.
一行が越冬したトラッキー湖。現在では「ドナー湖」と呼ばれている。[note 11]

パトリック・ブリーンは、山越え部隊が出発する前の1846年11月から日記をつけ始めている。始めのうちこそ毎日の天候、風向き、積雪量のみ淡々と記していた文面は、12月になると神に対する信仰心が記述の大半を占め、ほぼ毎日「アーメン」の語で結ばれるようになる[100]

実際、トラッキー湖畔の生活は惨めなものだった。人々は狭苦しい丸太小屋に閉じ込められ、打ち続く吹雪と積もり続ける雪で外出もままならず、薪を手に入れることも難しい。食べ物といえば、獣皮を煮詰めて作ったドロドロののようなゼラチン。牛馬の骨はスープの出汁として何度も煮返したため、歯で簡単に噛み砕けるほどボロボロになっていた。人々は火に炙って柔らかくした骨を喰らい、マーフィーの子供たちは炉の火の前に仲良く並び、牛皮の敷物を焦げるまで炙って食べた[101] 。山越え組が出発した後、トラッキー湖畔に残った者は3分の2までが子供である。グレイブス婦人はレビーナ・マーフィー(Levinah Murphy)や エレノア・エディ( Eleanor Eddy)と共に、子供達の世話にいそしんでいた[102]。 小屋に迷い込んだネズミでさえも「食料」として捕えられる状況の中、衰弱しきった移民たちは一日の大半を寝床の中で過ごすようになる。それでも、オルダー川沿いに野営所を設営したドナー一家の方から、たまに使いの者が1日がかりでやってくる。彼らの知らせによれば、ジョージ・ドナーの兄であるジェイコブと3人の雇い人がすでに死亡したとのことだ。そのうちの一人・ラインハルトは、死の床で「私がウルフィンガーを殺しました」と告白している[103]。ジョージ・ドナーはかつて馬車修理の折に負った傷が化膿し、オルダー川の野営場で満足に働ける男は4人のみだった[104]

リードの妻・マーガレットは食料を節約し、クリスマスの日に煮込み料理を作って子供たちを喜ばせた。しかし年明けて1月になると彼らも飢え、屋根の覆いに使われている獣皮をかじるようになる。マーガレット・リード、娘のバージニア、御者のミルト・エリオット、そして召使の少女、エリザ・ウィリアムズ( Eliza Williams)は、子供たちのため食べ物を求めて野営地から逃れようとしたものの、大雪に阻まれ4日後に戻らざるを得なくなる。今や彼らの丸太小屋は牛皮の屋根をすべて食い尽くされ、住むこともままならない。リード家の母子は仕方なくブリーン一家の小屋に身を寄せ、雇い人は他の家族と暮らし始める。ある日、グレイブスはリード家に対して借金の返済を求めると共に、全ての家族に対して食べてしまった牛皮の代を請求している[105][106]

救助の過程

時はおりしも米墨戦争の最中。カリフォルニアにおいては健康な成年男子の大半が徴用され、道路は封鎖され、通信設備も破綻を来たしていた。そんな中で、わずか3人の男がドナー隊救助のために名乗りを挙げる。リードは他の開拓民や知人、イエルバ・ブエナの市民にトラッキー湖畔における惨状を訴え、やがてそれはアメリカ陸軍への嘆願へと発展する。地元の2紙は、山越えの旅で発生したカニバリズムを書き立てて人々の同情を買う。もとより移民の人口が多いイエルバ・ブエナでは1,300ドル (2010年の31000ドルに相当する)もの義捐金が募られ、救援隊が組織された[107][108]

しかし救援隊の出動は、サンノゼの街での叛乱や軍内部の混乱が原因で2月に持ち越される。2月4日、ウィリアム・エディを含む救援隊はサクラメントを経った。エディは途中のベアバレーに食料の一部を準備して留まり、他のメンバーは豪雨や川の増水に阻まれながらも、雪や嵐を突きトラッキー湖へと進んでいく。一行のうち3人は途中で引き返したものの、残る7人は着実に前進していた[109][110]

最初の救助

1847年2月18日、救助隊の男たち7人はフリーモント峠を越え、トラッキー湖畔に至る。エディの話を頼りに丸太小屋を探し出し、大声で呼ばわった。ドナー隊のマーフィー夫人は、現れた救助隊を見てこう言ったという。

"あなた方はカリフォルニアから来たのですか?それとも天国から来たのですか?"[111]

救助隊はドナー隊に食料を施したが、飢えて衰弱した彼らが食べすぎで死なないよう、少しずつ与えるように留意した。 全ての丸太小屋は雪に埋もれ、屋根葺きの獣皮が濡れて腐り、餓死者、凍死者の遺体は小屋の周辺で雪に埋もれ、耐え難い悪臭が周囲に充満している。生き残りの者も、幾人かは情緒不安定に陥っている。救助隊のうち3人はドナー一家らがキャンプを構えるオルダー川沿いに向かい、4人の飢えた子供と2人の大人に出会っている。そのうちの1人、リーナ・ドナーはオルダー川からトラッキー湖までの急斜面を徒歩で踏破している。 "あの時の痛みと惨めさは、言葉に表すこともできません"彼女は後年、このように書き残している[112]。ジョージ・ドナーの手の傷は一層悪化して腕が壊死し、彼は動くこともできない。しかし、最後の訪問者が訪れてから今まで死者は出ていなかった。救助隊はすべての生存者のうち23人をカリフォルニアに連れ帰り、トラッキー湖畔の17人とオルダー川の12人はそのまま現地に残ることになった[113][114]

救助隊は、昨年末にトラッキー湖畔を出発した一団の悲惨な運命を生存者たちに隠し、彼らは凍傷が原因でここに来れないのだと取り繕っていた[115]。カリフォルニア行きが決まったもののうち、パティー( Patty)とトミー・リード(Tommy Reed)は幼く、とても雪の吹き溜まり道を越えられそうに無い。幼い彼らを運んでやれるほど体力のある者もいない。辛い立場におかれた母親のマーガレット・リードは、年長の2人の子供のみベアバレーに同行し、下の子はトラッキー湖畔に親なしで戻すよりほかに無かった。救助隊の1人であるアキーラ・グローバー(Aquilla Glover)はマーガレットに、自身とフリーメイソン の名誉にかけて子供たちを湖畔に戻すよう頼んだ。パティーは母親に言う。"大丈夫よ、母さん。できる限りのことをするわ"[116][117]。パティーとトミー(トーマス)の姉弟は、トラッキー湖畔へと戻って行った。ブリーンは帰ってきた2人を小屋の中に入れまいとしたが、子供たちのために食料が残されていたのを知ったグレイブスは、渋々ながら招き入れた。一方、生存者21名を伴いカルフォルニアに向かう救助隊の運命は過酷だった。あらかじめ道中に隠しておいた食料は動物に食い荒らされ、彼らは食料無しで4日間彷徨うことになる。峠道を何とか越えた後、ジョン・デントンが昏睡状態に陥って死亡した。幼いエイダ・ケスバーグもまもなく死亡したが、彼女の母親は娘の遺体を置いて進むことはできなかった。数日後に旅路は難関に差し掛かり、救助隊は同行する子供たちが生きて山を下りられないのではないかと懸念を深める。飢える一団は救助隊員のズボンから鹿皮の紐を引き抜き、あるいは靴紐をほどいて食べざるを得ない。それでも一行が何とか山を下ると、今度は別の救助隊が待ち構えている。その中の1人が、ジェームズ・リードだった。夫の声を聞きつけたマーガレットは、こらえ切れず雪の中に倒れ込んだ[118][119]

カルフォルニアのベアバレーに到着した生存者たちはウィリアム・フック( William Hook)やジェイコブ・ドナーの義理の息子に助けられた後、食料の蓄えがなくなるほどの勢いで腹を満たした。サッター砦に滞在したバージニア・リードは "本当に、天国に足を踏み入れたのではないかと思いました"と書き残している。飢えから回復した彼女は、ある若者から結婚を申しこまれた[120][121]。しかし、当時12歳の彼女はさすがにこれは断っている[122]

第2の救助

3月1日、第2の救助隊がトラッキー湖畔に到着する。経験豊かな登山家たちで組織された彼らに、ジェームス・リードとマッカチェンも同行していた。リードは先の救助で置き去りにせざるを得なかった娘のパティや病弱な息子のトミーと再会している。ブリーンの丸太小屋の住人は比較的良好な状態にあったが、マーフィーの小屋の状態は"言葉はおろか想像力の限界を超えた状態"だったという。レビーナ・マーフィーが世話するウィリアム・エディやフォスターの子供、さらに彼女の8歳の息子・サイモンは不潔な環境の中で精神を病み、ほぼ視力を失っていた。ルイス・ケスバーグは脚に負傷し、小屋の中を何とか動ける状態だった[123]

第1次救助隊が離れ、第2次救助隊が到着するまでの間、トラッキー湖畔では死者は出ていない。しかしパトリック・ブリーンは2月26日の日記に、2月9日に死亡したリード家の御者であるミルト・エリオットの遺体をマーフィー婦人が食べたがっていたとの不穏な状況を書き記した。実際、リードとマッカチェンは切り刻まれたエリオットの遺体を発見している[124]。オルダー川のキャンプでは、状況は一層悪化していた。救助隊員は、トルドーが人の脚を持ち運んでいる場面を目撃している。さらに昨年の12月に死亡したジェイコブ・ドナーの遺体がバラバラに切り刻まれ、雪穴の中に保存食として蓄えられていた。ジェイコブの妻・エリザベスは夫の遺体を食べることを拒否していたものの、子供たちにはその内臓を食べさせ、養っていた[125]。さらに救助隊は、ほかに3体の手をつけられた遺体を発見する。タムゼン・ドナーは健康だったが、彼女の夫・ジョージは腕の壊死がもはや肩にまで達し、重篤な状態に陥っていた[126]

Lake beside snowy mountains with railroad construction sheds in foreground.
ドナー峠からトラッキー湖を見下ろす。 セントラル・パシフィック鉄道 は1868年に完成した

第2次救助隊は、3名の成人を含む17人をトラッキー湖畔から連れ出すことにした。ブリーン家とグレイブス家は、残りの一家全員が含まれている。トラッキー湖畔に残るのはケスバーグ、マーフィー婦人、息子のサイモン、エディの息子、フォスターの子供の計5人である。タムゼン・ドナーは夫ジョージの看病のために居残ることを決意し、娘のエリザ、ジョージア、フランシスも母と共に留まることになる。リードは彼女たちに、間もなく第3次救助隊が訪れるであろうことを告げていた[127]

ベアバレーまでの道のりは、遅々として進まない。リードは2人の男を先に送り、先に食料の準備をさせた。 リム・E・ウッドワースが率いる第3次救助隊の到着は、いつになるかわからないという。一行が峠道を越えたあたりで猛烈な吹雪が襲来し、5歳のアイザック・ドナーが凍死。リード自身も死に瀕した。メアリー・ドナーは凍傷のために感覚を失い、睡眠中に脚を火傷する。嵐が過ぎ去った後、数日間食事を摂れなかったブリーンとグレイブス一家は放心状態で、そのうえ極度の疲労で起き上がることもできない。救助隊は、彼らを置き去りにせざるを得なかった[128][129][130]

一方、救助隊員のうち3人はトラッキー湖畔に、2人はオルダー川キャンプに残っていた。そのうちの1人であるニコラス・クラーク(Nicholas Clark)は狩りに出ていたが、残っていた他の2人、チャールズ・キャディー(Charles Cady)とチャールズ・ストーン(Charles Stone)は何とかカリフォルニアに戻る計画を立てていた。タムゼン・ドナーは彼らに、現金500ドルと引き換えに、3人の娘をカリフォルニアに届けてくれるよう契約を交わしていたという。キャディーとストーンは子供たちを連れ出しはしたものの、置き去りにしてその日のうちにリードたちに追いついた[131][132]。数日後、クラークとトルドー(Trudeau)はトラッキー湖畔でドナーの娘たちを見つけ、オルダー川のタムゼンの元に送り返した[133]

最初の山越え部隊の生き残りであるウィリアム・エディとウィリアム・フォスターは、ベアバレーの地でジョン・スターク(John Stark)という男とともにリードらを待ち構えていた。3月5日、彼らは凍傷を負い、血まみれの姿ながら生きながらえているリードや子供たちを発見し、救助する。山向こうに残る自身の子供が絶望的な状態にあると案じたエディとフォスターは4人の男たちに金を払った上で、トラッキー湖畔に連れて行ってくれるよう頼んだ。湖へ戻る道中、一行は切り刻まれたグレイブス婦人と2人の子供の遺体を目撃している。食べ残しの状態にされたグレイブス婦人の傍らで、まだ1歳の彼女の娘が泣き叫んでいた[134]。そして雪穴の中では、11人が火に身を寄せ合いつつ耐えていた。エディとフォスターは救助隊から分かれ、子供達の生存を信じてトラッキー湖に向かった。しかしスタークは同行を断り、2人の子供と全ての食料を携え、9人の支援のためベアバレーに居残った[135][136][137]

第3の救助

Tree stumps taller than a man, in a forest clearing.
ドナー一家が越冬したオルダー川河畔。切り株の高さが、積雪の深さを表わす。1866年撮影。[138]

3月14日、子供の生存を信じてトラッキー湖畔を訪れたフォスターとエディだったが、待っていたのは子供の死という現実だった。ケスバーグから「息子さんを食べました」と告白されたエディは、「もし今度カリフォルニアで会ったら、殺してやる」と宣言している[139]。ジョージ・ドナーとジェイコブ・ドナーの息子のうち1人はまだオルダー川河畔で生存していた。タムゼン・ドナーはトラッキー湖畔のマーフィーの小屋に来ていたが、救助隊が続いて来ることを知らされ、病身の夫と共に残ることを決意した。結局、ドナー家の4人の子供とトルドー、彼らの世話をするため居残っていた救助隊員のクラークのみで出発することになる[140][141]

まだ生存している大人を救出するため、新たに2つの救助隊が召集されたが、両部隊ともベアバレーに入る前に引き返し、それ以上のことをしようとはしなかった。第3次救助隊がトラッキー湖畔を発ってからほぼ1ヶ月後の4月11日、サッター砦近隣の アルカイデ(メキシコの行政官)がドナー家の親戚の要請を受け、救助隊を結成。山脈を越えた彼らは、オルダー河畔のキャンプでジョージ・ドナーの遺体を発見した。彼を看病していたタムゼンの姿はそこになく、トラッキー湖に向かった一行は途中でルイス・ケスバーグに出会う。彼の話によれば、第3次救助隊が出発した1週間後にマーフィー婦人が死亡したという。 さらに数週間後、タムゼン・ドナーが峠道を越えてケスバーグの小屋にやってきたが、彼女は目に見えて錯乱状態にあった。ケスバーグは彼女を毛布で包み、あくる朝に出発するよう勧めたが、彼女は夜の間に死亡していたとのことだった。救助隊は、ケスバーグが語る顛末を信じることが出来なかった。小屋の内部からは人肉で満たされた壷、ジョージ・ドナーのピストル、宝石、250ドル相当の金が発見された。拷問にかけられたケスバーグが白状することには、、タムゼンの子供たちのために、彼女から273ドルを受け取ったという[142][143]

事件の反響

"これほどおぞましくて悲惨な光景を、今だ見た事が無い。この地に残る物を、カーニー大将の指揮で集め、少佐の指揮で埋葬する。丸太小屋の中央に掘られた窪みには、遺体が埋葬されている。彼らはあらゆる恐ろしいものに囲まれ、悲劇的な消費行為を続けてきたのだ。死者への憂鬱でおぞましい任務を少佐の命で実行し、小屋を焼き払う。シーツに包まれたジョージ・ドナーの遺体を、8~10マイル離れた彼のキャンプで発見した。彼は事情を説明した隊の者によって埋葬された."
スティーブン・W・カーニーの部下の手記より。1847年6月22日[144]

4月29日、ルイス・ケスバーグを伴った救助隊がサッター砦に帰り着いた。彼らに接したサミュエル・ブラナン末日聖徒イエス・キリスト教会 の長老、さらにジャーナリストの口を通じ、「ドナー隊の悲劇」はアメリカ東部にも伝わった[145]。詳細が海路を通じニューヨーク市に伝わったのは1847年7月である。全米は西部開拓団を襲った悲劇のニュースに熱狂した。いくつかの報告書は、扇情的なニュースながら小さくまとめるのみだったが、カリフォルニアの地元紙を含めいくつかの新聞紙上では、ドナー隊が陥らざるを得なかったカニバリズムを図入りで大げさに書き立てている[146]。 いくつかの出版物の中には、ドナー隊のメンバーは英雄であり、カリフォルニアは大きな犠牲を払う価値のある楽園であると主張するものもあった[147]

事件後、西部へと向かう移民団の数は大幅に減少している。米墨戦争の混乱はもとより、ドナー隊事件が明らかに影響していると見られる[146] 。1846年にカリフォルニアに移住した開拓者は1,500人だったが、1847年には450人、1848年には400人である。しかしカリフォルニア・ゴールドラッシュ の到来により、1849年には 25,000もの人々が西部に殺到している[148]。大半の移民はカーソン川をたどるルートを選択したが、あえてドナー隊の記録に登場するルートを用いる者もあったという[149]。現在では、ドナー隊が越えようと試みたシエラネバダ山脈のフリーモント峠はドナー峠、一冬を越したトラッキー湖は ドナー湖の名で広く知られている。

1847年6月、 スティーブン・W・カーニー 率いる軍が現地に赴いて遺体の埋葬に着手し[149]、いまだ残る2棟の丸太小屋を焼き払った。リードとグレイブス一家が越冬していた丸太小屋の跡からは、その後数年に渡って生活をうかがわせる品物や人骨が発見されていたという。1891年には、トラッキー湖畔の地中から現金が発見された。これは恐らくグレイブス婦人が蓄えていたもので、第2次救助隊が到来した折、後で取りに戻るつもりで隠したものと思われる[150][151]

事件後、案内人のランスフォードヘスティングスは「死の脅迫」に苛まれることとなる。ドナー隊以前に山を越えた移民たちは、ヘスティングはルートのいくばくかの危険は説明していたとしている。"もちろん、彼は何も言い返せないし、不幸なことは確かだ。でも、良かれと思ってしたことだ"[152]

生存者たち

ワサッチ山脈以西に向かった87人のうち、生存者は48人だった。リード家とブリーン家は一家全員が無事だったが、ジョージ・ドナー、ジェイコブ・ドナー、フランクリン・グレイブスは妻ともども死亡し、子供たちは孤児となった。ウィリアム・エディは家族全員を失い、マーフィー一家は大半が死に絶えた。家畜もほぼ全滅し、カリフォルニアに生きてたどり着いたのは3頭のラバのみだった。ドナー隊の所持していた財産は、大半が打ち捨てられてしまった[153]

"私は体験した災難のうち半分も書いていませんが、あなたが知りえない災難を伝えるには、これで充分すぎるというものです。でも、私たちの家族が人肉を食べなくて済むようにしてくれた神様に感謝します。あらゆることが降りかかってきますが、私は気にしません。我々には、我々の生活があります。でも、この手紙で誰かを落ち込ませないでください。決して近道を選んだり、急いだりしないように"
バージニア・リードより、いとこのメアリー・キーズへ。1847年5月17日[note 12]

もとより女性の少ないカリフォルニアゆえ、生存者のうちで未亡人は数ヶ月以内に再婚した。リードは サンノゼの街に落ち着き、ドナー家の2人の遺児を引き取って新生活を始めた。やがて到来したゴールドラッシュの波に乗り、リードは成功を収める。リードの娘・バージニアは父親の監視の元でイリノイ州在住のいとこ宛に"私たちがカリフォルニアで体験した災難"と題する手紙を書き送っている。 1847年6月、ジャーナリストのエドウィン・ブライアント(Edwin Bryant)はその手紙を手に入れ、手直しした上で1847年12月16日付のイリノイ・ジャーナル紙(Illinois Journal)に掲載している[154]。トラッキー湖畔での越冬の折、毎日敬虔に祈るパトリック・ブリーンの姿に感銘を受けていたバージニアは、その後カトリックに改宗した。マーフィーはメアリーズビルで暮らし、ブリーン一家は サン・ジョアン・バウチスタの街[155]で旅館を経営していたが、1862年の ハーパーズ・マガジン 誌上において、越冬時のカニバリズムを匿名で証言していた疑いが持たれている。[156]。ジョージとタムゼン夫婦の遺児は、サッター砦の近隣に住む老夫婦に引き取られた。ドナー家の子供のうち最年少のエリザは、1911年にドナー隊の記録を出版している。しかし彼女は1847年当時にまだ3歳だったため、内容は姉たちの証言に基づくものである[157]。ブリーン家の最年少の娘・イザベラ(Isabella)は、ドナー隊の最後の生き残りとして1935年に死去した[158]

"これからあなたにフレンドリーなアドバイスを差し上げます。家にとどまりなさい。そこが一番いい場所ですよ。病気になることがあったにしても、飢えて死ぬことなどないのですから"
メアリー・グレイブスから。 レヴィ・フォスディックへ (彼女の姉妹、サラ・フォスディックの義理の父親)1847年。[159]

グレイブス家の子供たちは、様々な生活を送っていた。メアリー・グレイブスは早くに結婚したが、最初の夫は殺されてしまった。彼女は監獄に収容された夫殺し犯のために食事を作り、彼が絞首刑に処せられるまで飢えることがないよう気を配った。メアリーの孫の1人は、彼女が深刻な表情で語っていたと回想している。 "私は泣き叫びたいが、それができない。もし私がこの悲劇を忘れられるのなら、また泣き叫ぶ方法を思い出すかもしれない"[160]。メアリーの弟・ウィリアムは落ち着くまでかなりの時を要した。1847年当時9歳だったナンシー・グレイブスはやがて歴史家の好奇心に晒され、矢継ぎ早に質問が浴びせられるようになる。彼女は自身のカニバリズムへの関与は否定したものの、兄や母親のカニバリズム行為に関しては認めざるを得なかった[161]


エディは再婚し、カリフォルニアでの新生活を始めた。彼は、自身の息子を食べたケスバーグとの因縁を果たそうとするものの、ジェームズ・リードやエドウィン・ブライアント(Edwin Bryant)に思いとどまらされる。後年、彼は自身やリードの体験をまとめ、ドキュメンタリーを執筆している[162]。エディは1859年に死去した。

ルイス・ケスバーグは、自身にタムゼン・ドナー殺しの濡れ衣を着せたとして、救助隊の何名かを名誉毀損で訴えている。法廷は彼に損害賠償として1ドルを送ったものの、訴訟費用を払ったのはケスバーグ自身だった。1847年のカルフォルニア・スター(California Star)紙は、ケスバーグが救助隊員から受けた集団暴行とともに、ケスバーグ自身の残酷な行いを報じている。それは、ケスバーグが馬など家畜の肉よりも、人肉を食べつつ春を待っていたというものだった。 歴史家のチャールズ・マクグラシャン(Charles McGlashan)は、彼のタムゼン殺しを告訴すべく充分な情報を集めたが、それでもケスバーグは殺していないと結論付けた。エリザ・ドナー・ホートンは彼の無罪を信じ続けた[163]。ケスバーグは老いるに従って地域から爪はじきにされ、のけ者にされ、揚句は脅迫された。ケスバーグはマクグラシャンにこのように激白している。"たまに思うんだよ。神様は、この世の中で俺を名指ししたんだって。この世の全ての男の中で、俺が一番辛くて悲惨な境遇に耐えられるから選んだんだって。"[164]

遺産

Three figures on a tall stone plinth.
州立ドナー記念公園のモニュメント。台座の高さ22フィート(6.7m)は、事件当時の雪の深さを表わす

ドナー隊のエピソードは、オレゴンやカリフォルニアに向かった数十万の移民の物語の中でとても有意義と言えるものではない。しかし現代に至るまで、アメリカでは歴史、小説、ドラマ、演劇、詩、映画などあらゆるエンターテインメントの根底を確立している。例えば、映画「シャイニング」でも、冬季に休業するホテルの管理人として山中に赴く夫婦の会話に、ドナー隊の逸話が登場する。スチュアート(Stewart)は、"ドナー隊で発生したカニバリズム。それはマイナーなエピソードかもしれないが人々の心を捉える。タブーであるからこそ、反発と同時に大いなる魅力になるのだ"と称している[165]。 ジョンソン(Johnson)は1996年に、ドナー隊をテーマとしたあるイベントを報告している。それは興味本位の個人向けではなく、一般人や家族連れを対象にしたものだった。"それは恐るべき皮肉であり、希望は幻滅だった。カリフォルニアの肥沃な渓谷における健康的な新生活は、多くの悲劇と飢餓、さらに死の発端だった"[166]

一行が丸太小屋を築いたトラッキー湖畔は、1854年というかなり早い段階で一種の「名所」と化した[167]。1880年代には、チャールズ・マクグラシャンがドナー隊を記念する碑の建設を発案し、1918年6月にはブリーンやケスバーグの丸太小屋があった一帯の土地を購入して開拓民の家族を表わした銅像を造営し、ドナー隊に捧げた[168]。そして1934年、それはカリフォルニア州の歴史的建造物と認定された[169]

カリフォルニア州は、1927年に 州立ドナー記念公園 を設立した。元々は記念碑建設のために用意された11エーカー(0.0045平方km)の土地から出発したこの公園は、20年後にマーフィーの丸太小屋があった場所も購入されて追加され、[170]1962年には、カリフォルニアへの移民の歴史を展示する移民街道博物館(Emigrant Trail Museum)が新たに加わる。さらに1963年、マーフィーの丸太小屋とドナーの記念碑はアメリカ合衆国国定歴史建造物に認定された。マーフィーの丸太小屋の炉に使われていた岩にはドナー隊の生存者と死亡者の姓名を書き記した銅製のプレートが張られている。2003年だけで、この地に推定で20万人もの観光客が訪れたという[171]

死亡率

大半の歴史家は、ドナー隊のメンバー数を87人とカウントしている。歴史家のステファン・マッカーディー(Stephen McCurdy)は西部医学ジャーナル(Western Journal of Medicine)誌上において、リードの母親、サラ・キーズとインディアンのガイド、ルイスとサルバドールも加えて90人としている[172]。そのうち5人がトラッキー湖に至る前に、肺結核(ハロラン)、人的、物的トラブル(シュナイダー、ウルフィンガー、パイク)、極度の陽光 (ハードキップ)で死亡している。さらに1846年12月から1847年4月までの越冬で34人が死亡した。その内訳は、男性25人、女性9人である[173][note 13]。幾人かの歴史家や他の権威は、多くの死により得られたデータから栄養と死の関係を探っている。最初に雪のシエラネバダ山脈を越えようと試みた「snowshoe party」15人のうち、8人(スタントン、ドラン、グレイブス、マーフィー、アントニオ、フォスディック、ルイス、サルバドール)の男性が死亡しているが、反対に女性は5人が全員生き残っている[174]。ワシントン大学の教授は、このドナー隊のエピソードについて "状況による自然淘汰の一例"と結論している[175]

トラッキー湖畔、オルダー河畔、さらにシエラネバダ山脈越えにおけるいくつもの死は、栄養失調、過労、酷寒すべてによるものだろう。これに加えて何人か、たとえばジョージ・ドナーは感染症で命を落としている[176]。一方、最も重要な生存の要因は、年齢と性別、そして家族構成である。ドナー隊の生存者は、平均で7.5歳死者より若かった。6歳から14歳までの子供の生存率は幼児よりも高く、旅路で生まれたケスバーグの子供を含めた6歳以下の幼児や35歳以上の成人は62.5パーセントが死亡している。49歳以上の生存者はいない。そして、20歳から39歳までの男性の死亡率が66パーセントと極端に高い[173]。女性はタンパク質の新陳代謝が男性にくらべて低く、さらに体内に脂肪を溜め込むことができるため、飢餓や過労に耐え得る。また、腕力に優れた男性は女性よりも、危険な作業に従事する必要に迫られている。例えば、トラッキー湖畔に到着するまでの旅路で、一行の成人男性すべてが路上の障害物を取り除ける作業に追われていた。これら過労により、壮年男性は体力を消耗していたのだろう。家族で移動していた者は、独身者よりも生存率が高かった。家族で行動すれば、周囲から快く食料を分けてもらえるからである[172][177]

カニバリズムが残したもの

生存者たちはカニバリズムの存在に異議を唱えたが、チャールズ・マクグラシャンはじめ多くの特派員がその後40年間に渡って生存者に取材を試みている。彼らの取材方法は不親切で恥知らずなものであったが、最終的に取材は成功している。 マクグラシャンが1879年に発表した「ドナー隊の歴史」(History of the Donner Party)は「悲惨な状況が記されています」と断られた上で、幼児や子供の死に至るまでの苦しみや、ジョージア・ドナーの証言によるマーフィー婦人の顛末などが詳細に記されていたが、オルダー河畔のカニバリズムについてはおろそかにされていた[178][179]。同年、マクグラシャンの本の出版を受けたジョージア・ドナーは彼に手紙を送り「オルダー河畔のキャンプでは、2つのテント両方で人肉が用意されました」と新たに証言している。しかし、事件当時4歳だった彼女の記憶は"父さんは泣くばかりで、私たちの方など見ちゃくれません。私たちは小さくて、何もしてあげられなかった。他には何も知りません"というものである。彼女はまた、ある朝にジェイコブ・ドナーの妻であるエリザベスが、25歳の御者サミュエル・シューメーカー(Samuel Shoemaker)の腕を料理していたのを思い出した[180]。ジョージアの妹・エリザは、1911年に自身が3歳の折に体験した試練を発表しているが、カニバリズムについては言及していない。考古学的な所見からは、オルダー河畔におけるカニバリズムの存在は証明されていない[note 14][181]

1856年、エリザ・ファーナム(Eliza Farnham)によるドナー隊の論述はマーガレット・ブリーンの証言に基づいていた。その説明は、ジェームズ・リードや第3次救助隊に置き去りにされたグレイブスやブリーン一家が、雪穴のなかで陥らざるを得なかった境遇が詳しく述べられている。それによれば、当時7歳だったメアリー・ドナーが、凍死したアイザック・ドナー、フランクリン・グレイブス・ジュニア、エリザベス・グレイブスの遺体を食べることを提案したとのことだった。なぜならばオルダー河畔ではすでにカニバリズムが行われ、彼女は自身の父親・ジェイコブの遺体すら口にしていた。そのため抵抗感が全く無かったという。マーガレット・ブリーンは、自身と家族は決して人肉に口をつけなかったと証言したが、キルステン・ジョンソン(Kristin Johnson)、イーサン・ラリック( Ethan Rarick)、ジョセフ・キング(Joseph King)は、人間が9日の間なにも食べずに生きられるはずが無く、生き残るためには人肉を口にするほか無いと反論した。キングはファーナムに、マーガレット・ブリーンの証言に囚われないよう示唆している。[182][183]

Refer to caption
壮年時代のジャン・バティスタ・トルドー。彼はオルダー河畔でのカニバリズムを証言している。

H. A. ワイズの1847年の出版物によれば、ジャン・バティスタ・トルドーは越冬時の「武勇伝」を周囲に吹聴し、ジェイコブ・ドナーや赤ん坊の遺体を生で喰らったと毒々しく言いふらしていたという[184] 。後年、エリザ・ドナー・ホートンに会ったトルドーは、カニバリズム行為を否定し、さらに1891年、60歳になったトルドーはセントルイスの地元紙のインタビューを受けた折、重ねてカニバリズムの存在を否定している。ホートンや他のドナー家の娘たちは、彼が最終的にオルダー河畔にタムゼン・ドナーを置き去りにしていたにも関わらず、トルドーに好意を抱いていた。著者のジョージ・スチュアートはトルドーの説明を熟考し、彼が1884年にホートンに語った内容よりも、ワイズの記述が正確で、彼はタムゼン・ドナーを置き去りにしたと結論した[185]。キルステン・ジョンソンは、ワイズの文章に残されたトルドーの残酷な行いは、年上のワイズが、当時は20歳前だったトルドーにインタビューしたからこそ飛び出した逸話で、「年上の者を驚かせて喜びたい、思春期特有の欲望」だとしている。ある程度の年齢に達し分別のついた彼は、今度はホートンを怒らせないように言葉を選んだ上で証言したと見なしている[186]

イーサン・ラリックは、繰り返し述べている。 "...栄光に満ちた英雄か、あるいは汚れきった悪人か?ドナー隊の物語を結論付けることは難しい。彼らは悪行も行わなければ、英雄的行為もしなかったのだから"[187]

関連項目

ノート

  1. ^ (Rarick, p. 69)
  2. ^ Tamsen Donner's letters were printed in the Springfield Journal in 1846. (McGlashan, p. 24)
  3. ^ At Fort Laramie, Reed met an old friend named James Clyman who was coming from California. Clyman warned Reed not to take the Hastings Cutoff, telling him that wagons would not be able to make it and that Hastings' information was inaccurate. (Rarick, p. 47) J. Quinn Thornton traveled part of the way with Donner and Reed, and in his book From Oregon and California in 1848 declared Hastings the "Baron Munchausen of travelers in these countries". (Johnson, p. 20)
  4. ^ While Hastings was otherwise occupied, his guides had led the Harlan-Young Party through Weber Canyon, which was not the route Hastings had intended to take. (Rarick, p. 61)
  5. ^ The route the party followed is now known as Emigration Canyon. (Johnson, p. 28)
  6. ^ In 1986 a team of archaeologists attempted to cross the same stretch of desert at the same time of year in four-wheel drive trucks and were unable to do so. (Rarick, p. 71)
  7. ^ The location where the Donner Party recuperated, at the base of Pilot Peak, has since been named Donner Spring. (Johnson, p. 31)
  8. ^ Reed's account states that many of the travelers lost cattle and were trying to locate them, although some of the other members thought they were looking for his cattle. (Rarick, p. 74, Reed's self-penned "The Snow-Bound, Starved Emigrants of 1846 Statement by Mr. Reed, One of the Donner Company" in Johnson, p. 190)
  9. ^ In 1871, Reed wrote an account of the events of the Donner Party in which he omitted any reference to his killing Snyder, although his daughter Virginia described it in a letter home written in May 1847, which was heavily edited by Reed. In Reed's 1871 account, he left the group to check on Stanton and McCutchen. (Johnson p. 191)
  10. ^ The cabins were built by three members of another group of emigrants known as the Stevens Party, specifically by Joseph Foster, Allen Stevens, and Moses Schallenberger in November 1844. (Hardesty, pp. 49?50) Virginia Reed later married a member of this party named John Murphy, unrelated to the Murphy family who was associated with the Donner Party. (Johnson, p. 262)
  11. ^ This drawing is inaccurate in several respects: the cabins were spread so far apart that Patrick Breen in his diary came to call inhabitants of other cabins "strangers" whose visits were rare. This scene furthermore shows a great deal of activity and livestock, when the emigrants were weakened already by low rations and livestock began to die almost immediately. It also neglects to include the snow that met the emigrants from the day they arrived.
  12. ^ Virginia Reed was an inconsistent speller and the letter is full of grammar, punctuation and spelling mistakes. It was printed in various forms at least five times and photographed in part. Stewart reprinted the letter with the original spelling and punctuation, but amended it to ensure the reader could understand what the girl was trying to say. The representation here is similar to Stewart's, with spelling and punctuation improvements. (Stewart, pp. 348?354)
  13. ^ Grayson in his 1990 mortality study stated that the one-year-old Elizabeth Graves was one of the casualties, but she was rescued by the second relief.
  14. ^ None of the bones tested at the Alder Creek cooking hearth could be conclusively identified as human. According to Rarick, only cooked bones would be preserved, and it is unlikely that the Donner Party members would have needed to cook human bones. (Rarick, p. 193)

引用

  1. ^ McGlashan, p. 16; Stewart, p. 271.
  2. ^ Enright, John Shea (December 1954). "The Breens of San Juan Bautista: With a Calendar of Family Papers", California Historical Society Quarterly 33 (4) pp. 349?359.
  3. ^ Rarick, p. 11.
  4. ^ Rarick, pp. 18, 24, 45.
  5. ^ Bagley, p. 130.
  6. ^ Rarick, p. 48.
  7. ^ Rarick, p. 45.
  8. ^ a b Rarick, p. 47.
  9. ^ a b c Rarick, p. 69.
  10. ^ Rarick, p. 105.
  11. ^ Rarick, p. 106.
  12. ^ a b Rarick, p. 33.
  13. ^ a b Rarick, p. 18.
  14. ^ Rarick, p. 8
  15. ^ Stewart, p. 19.
  16. ^ a b Rarick, p. 20.
  17. ^ Johnson, p. 181.
  18. ^ Rarick, p. 23.
  19. ^ Rarick, p. 30.
  20. ^ Stewart, p. 26.
  21. ^ Stewart, p. 19?20.
  22. ^ Rarick, p. 50?52.
  23. ^ Stewart, pp. 21?22.
  24. ^ Johnson, pp. 6?7.
  25. ^ a b c Andrews, Thomas F. (April 1973). "Lansford W. Hastings and the Promotion of the Great Salt Lake Cutoff: A Reappraisal", The Western Historical Quarterly 4 (2) pp. 133?150.
  26. ^ Stewart, p. 14.
  27. ^ Stewart, p. 16?18.
  28. ^ Rarick, p. 56.
  29. ^ Stewart, pp. 25?27; Rarick, p. 58.
  30. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「rarick17」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  31. ^ Stewart, pp. 23?24.
  32. ^ Johnson, p. 22.
  33. ^ Stewart, p. 28.
  34. ^ Stewart, pp. 31?35.
  35. ^ Rarick, pp. 61?62.
  36. ^ Rarick, p. 64?65.
  37. ^ Rarick, pp. 67?68, Johnson, p. 25.
  38. ^ Rarick, p. 68.
  39. ^ Stewart, pp. 36?39.
  40. ^ Rarick, pp. 70–71.
  41. ^ a b Stewart, pp. 40?44.
  42. ^ Stewart, pp. 44?50.
  43. ^ Rarick, pp. 72?74.
  44. ^ Rarick, pp. 75?76.
  45. ^ Stewart, pp. 50?53.
  46. ^ a b Stewart, pp. 54?58.
  47. ^ a b Rarick, pp. 78–81.
  48. ^ Rarick, p. 82.
  49. ^ Rarick, p. 83.
  50. ^ Stewart, pp. 59?65.
  51. ^ Johnson, pp. 36?37.
  52. ^ Rarick, pp. 83?86.
  53. ^ Downey, Fairfax (Autumn 1939). "Epic of Endurance", The North American Review 248 (1) pp. 140?150.
  54. ^ Stewart, p. 66.
  55. ^ Rarick, p. 74.
  56. ^ Rarick, p. 87.
  57. ^ Johnson, p. 38?39.
  58. ^ Rarick, pp. 87?89.
  59. ^ Rarick, p. 89.
  60. ^ Rarick, p. 95.
  61. ^ Rarick, p. 98.
  62. ^ a b Stewart, pp. 67?74.
  63. ^ a b King, Joseph A. Luis and Salvador: Unsung Heroes of the Donner Party, The Californians, Vol. 13, No. 2, p. 21
  64. ^ Stewart, pp. 75?79.
  65. ^ Rarick, p. 91.
  66. ^ Rarick, p. 101.
  67. ^ Johnson, p. 43.
  68. ^ Stewart, pp. 81?83.
  69. ^ Rarick, p. 108.
  70. ^ Stewart, pp. 84?87.
  71. ^ Johnson, p. 193.
  72. ^ Rehart, p. 133.
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  74. ^ McGlashan, pp. 122?123.
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参考文献

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読書案内

  • The Donner Party Chronicles: A Day-by-Day Account of a Doomed Wagon Train, 1846?1847 by Frank Mullen Jr.
  • The Expedition of the Donner Party and its Tragic Fate by Eliza P. Donner Houghton
  • Excavation of the Donner-Reed Wagons: Historic Archaeology Along the Hastings Cutoff by Bruce R. Hawkins and David B. Madsen
  • American Experience: Donner Party (video)
  • The Indifferent Stars Above: The Harrowing Saga of a Donner Party Bride by Daniel James Brown
  • Searching for Tamsen Donner by Gabrielle Burton
  • "The Year of Decision: 1846" by Bernard DeVoto

外部リンク

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