「バチカン写本」の版間の差分

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ヴァティカン写本。2テサロニケ3章11節から18節(左カラム)、ヘブライ1:1-2:2(中および右カラム)。ヘブライ書冒頭のΠが大きく欄外に出ている。

ヴァティカン写本(ヴァティカンしゃほん、la. Codex Vaticanus, バチカン図書館 gr. 1209; B/03)は聖書写本のひとつである。4世紀に作られた旧約聖書新約聖書ギリシア語写本で、羊皮紙にアンシャル体(大文字)のみを使って書かれており、759葉からなる冊子本(コデックス)の体裁になっている。分類記号はBである。

ヴァティカン写本は、シナイ写本アレクサンドリア写本と並び現存する三大ギリシャ語写本の一つである。

マカバイ記第1から第4およびマナセの祈りを除く七十人訳聖書全巻と、4福音書使徒行伝、一部のパウロ書簡ヘブライ人への手紙の途中まで(9:14 καθαριειまで)を含み、公同書簡フィレモンへの手紙を欠く。またヨハネの黙示録も収録されていない。原写本にない箇所は、15世紀の写本で補われている。

新約聖書写本の型としてはアレクサンドリア型の最古層かつ代表的なものである。また旧約部分も、七十人訳聖書の現存する写本としては極めて古い。このため本文批評において、極めて重要な意義をもっている。

1475年以来、バチカン図書館に蔵書目録に記録されており、写本の名はこれにちなむ。

ヴァティカン写本は何世紀もバチカンにより隠されてきた。16世紀初頭、この写本の調査が許される事はほとんどなかった。1669年にバチカン図書館は異文校合を行ったが、その時の記録は紛失し、1819年まで見つからなかった。1809年、ナポレオンはバチカン写本をローマからパリに写し、レオンハルト・フークが調査をした。しかしナポレオンの没落により写本は1815年にバチカンに戻され再び秘められたものとなった。1843年、写本学者コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフは数ヶ月待った後に、6時間だけこの写本を見る事を許可された。1845年、英国の学者S・P・トレゲレスが見ることを許可されたが、一語として書き写すことは許されなかった。1889‐1890年、ついに全体の完全な写真複写が刊行された。[1]

参考文献

  1. ^ 「ものみの塔1988年5月1日号」ものみの塔聖書冊子協会、30-31貢