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(翻訳:アルフレート・ウェーバー自身による説明)
== 文化社会学 ==


歴史・文化社会学 Geschichts- und Kultursoziologie
アルフレート・ウェーバー Alfred Weber
(『社会学事典』Wörterbuch der Soziologie, Enke Verlag, Stuttgart, 1955.)

訳:犬飼裕一

1.歴史・文化社会学 は、18世紀と19世紀の初頭に、コンドルセやヘルダー、シラー、ヘーゲルらによって普遍史(Universalgeschichte)の一つの有力な意味解釈として導入された歴史哲学の後継者である。歴史・文化社会学 は、サンシモンの業績の継承のなかから、A.コントによって樹立された。
歴史・文化社会学 は人間が予測するか、あるいは期待するような意味で歴史に解釈を投入するものではない。歴史・文化社会学 はそんなことよりも、歴史的な諸事実をそのまま語ることに取り組もうとする。それは歴史的な過程の層の連なり(Stufenfolge)を経験的に読みとろうとするのである。例えば、K.マルクスを一方とし、H.スペンサー、K.ランプレヒトを他方とするような立場は、現象を通して歴史についての様々な解釈を先行して生み出していたが、彼らの経験的な方法にもかかわらず純粋に実証的であるということはできなかった。マルクスは(彼は少なくとも自分の方法を明確に提示することができなかったのだが)、歴史の弁証法的過程のア・プリオリな認識から彼の解釈を引き出したわけではない。マルクスに影響を受けた他のすべての人々は、あらゆる場合の分析の背景に、特定の価値判断を置いていた。
これらすべての初期歴史・文化社会学 は、19世紀後半に信頼を失った。その理由は、人々が確実で限定された前提に立っていなかったということよりも、むしろ歴史的な過程の多様性を全般的に理解するには、あまりにもそれらが単純であり、また不十分なものであると思われたからである。
当時の批判的な立場の中に、社会学の方面から再度の発展がみられた。それは歴史的な考察によって、歴史的な概観分析(Gschichtliche Querschnittanalysen)を行おうとするものである。これらの立場はとりわけ無時間的な社会学的構造分析の補完物としてだけ歴史的過程を扱っていた。その優れた代表例はジンメルの社会形式論(soziale Formenlehre)である。第二に成立したのは、デュルケーム学派の行ったような社会学的な対象の時代・地域関連分析である。その最高の例が、レヴィ・ブリュールの未開人研究である。これらの研究様式は、これらが実際に行った研究よりも、先史時代や民俗誌の研究においてより多くの実りをもたらしたし、影響を与えてきた。また以上に隣接して、社会心理学が成立した。社会心理学は、一方では社会の行動主義となり(ヴィーゼ)、また他方では社会誌(Soziographie)と結びつくことで、統計的・経験的研究となった(とりわけアメリカの場合)。以上の諸研究の他には、社会の個別領域の研究(政治社会学、法社会学他)や、特殊な社会学的概観の枠組み(芸術社会学、音楽社会学、知識社会学他)、あるいは最後に個別的な社会学的因果系列の探求(マックス・ウェーバー:資本主義とプロテスタンティズム。またその他に、普遍史的な関連性を扱ったものとしては、彼の宗教社会学)がある。大変広範囲にわたる分析の展開の結果、すでに指摘されているように、それでは社会学とは本来何なのかという問いが浮上してくるのも道理にかなっている。
2.経験的に認識することのできる歴史の全過程への問いは消滅したわけではなく、20世紀の冒頭には再び盛んになった。ここでは歴史的な大転換に携わっているという感触を伴っていた。それ以来歴史の全過程を認識できるのかということが方法論研究の問題となった。実質的にこの研究に参加していたのはE.トレルチとO.ヒンツェであった。ただし彼らとは別に、O.シュペングラーによる歴史全過程の構想も成立した。ただしこれは独創的ではあるが、経験科学的に完全に基礎づけられているとはとはいいがたい。科学的な歴史・文化社会学 の限界と可能性を現実的に明らかにしなければならないという方法論上の必要性が生じてくることになった。とりわけそのことはA.トインビーの第一級の歴史的業績である『歴史の研究』にあてはまる。というのもこの研究は方法論的に低い価値しか持たないシュペングラーの「文化形態学的」循環論に依存しているからである。
3.歴史・文化社会学 を科学的に耐えうるものとして構想しようとするならば、以下のような条件を満たしておかなければならない。すなわち歴史・文化社会学 は歴史の構造論でなければならない。歴史の構造論は社会学として歴史の内的な構造過程(innerer Strukturverlauf der Geschichte)を経験的に明らかにする。それは構造過程が持っている一般的な諸傾向を明確にする意図を持ち、またそのことによってこの構造論は外的な構造過程(auァerer Strukturverlauf)と結びつけられる。なお外的な構造過程もまた同じように一般的な諸傾向を問う。そしてこれらは歴史の的社会学的な全体的観点に媒介され、そこでは内的な構造化が外的な構造化とダイナミックに結びつくのである。
4.歴史の内的な構造組織(innere Strukturgliederung)をいかにして論じるのかということを問うならば、歴史的過程と文明化の過程と文化運動とを互いに影響を与えあっていながら、思考の上では分離し、現実には合体した諸領域として論じなければならない。以上のことに言い添えるならば、
4ー1.文化運動としての「世界化(Universalisierungen)」というのもまた、文明化の過程だけに伴っているのではなくて、それぞれの新たな諸層(意識の諸層、学問的な探求の諸層(Stufe wissenschaftlicher Daseinsdurchdringung)、技術の諸層)において精神的な結びつきの範囲内で、それ自体自動的に一つの論理的な進歩として可能なのであり、それは地球全体に拡大していくのである。しかしそれぞれの文化的な世界化は論理的に論証できるようなものではない。その理由はそれらがとりわけ多様な超越論的宗教や社会宗教(Transzendental- und Sozialreligionen)に向かっていくからである。文化的な世界化はむしろはるかに精神的な妥当性の拡大であり、これは論理的に基礎づけたり、基礎づけを求めることはできないのである。文明的な世界化というのは、これに対して論理的な正確さの拡大、もしくは論理的に認識できる有用なことの拡大であり、その正しさを否定できないものである。
4ー2.それぞれの文化時代(Kulturperiode)は、一つの新しい「生の結晶(Lebensaggregierung)」の精神的浸透である。それを前にして人間はある時とある所には位置づけられるのであり、そのような存在形態に基づいて一般には非難されている生の離反にむかうのである。それぞれの「生の結晶」は、これを人が貫徹しようとする場合にも、あるいは非難する場合にも、(いわゆる「第一の文化(Primaerkulturen)」と呼ばれているものですら)常にそれ自身として文明的で社会構造的な形態に依存しているだけではなくて、すべてにわたってもしくは部分的にはすでに早い時代の文化によって積極的に形成されたか、もしくは消極的にでき上がってきた生の結晶にも依存しているのである。以上のようにそれぞれの新たな時代の「文化の革新」だけは、それに対応する生の結晶がすでに文化的に形成した限りにおいて引き起こされるのである。
5.歴史の外的な構造化は、内的な構造化といっしょになってはじめて具体的な構造として現われてくる。実際の社会学の研究では、社会学以外の政治史的な歴史考察がもっぱら中心課題としてきた大小の社会諸集団の継続的競合関係や、闘争関係を把握しなければならない。以上のような歴史上の競合関係や戦争の終始の全体は、社会学にとっては皮相な問題でしかない。社会学は何らかの方法によって外的な構造から引き出された一般的に妥当しうる理論を提出しようとするのであり、大きな歴史的行為を規定する具体的な意志の刺激(konkrete Willensimpulse)を問うのである。また社会学は意志の推進力を規定する一般的な諸要因について、一般的に論じようとするのである。そしてそれにともなって、社会学は人間が活動している地上の生命圏(der vitale Erdrahmen)を、外的な構造として一般化するのである。このことは換言するならば人間と大地(Erde)の関連性ということができる。
以上のことから引き出される歴史の外的な構造化について、一般的な諸傾向を子細に論じることはここではできない。ここで述べることは次のことだけである。人間と大地の関係性という観点の下では、紀元前4000年から3600年ごろの高度文化の成立以来、以上のような多様な構造化原理によって外的な構造化に、三つの異なった時代が存在した。第一は大変に長い時代であり、互いに連関しあう普遍史がまだユーラシア大陸に限定されていた時代である。この時代は数千年にわたる人口の圧迫の背景となっており、中近東地域やアラビアの枯渇によって、これらの地域からの継続的な人口の移動の波がこの時代の歴史を構造化している。地中海から黄河にいたるまでの肥沃な地域は、この人口の波によって満たされた。これらの地域では農耕によって幾層にもわたって歴史体が形作られてきた。東方では常に新たな人口の波が押し寄せ歴史の構造を新たにしつづけた。西方では常に新たな歴史体の中心点を生み出しつづけた。この構造化の事実が、私の「文化社会学としての文化史」の基本的な特徴である。これは近年になってA.リュストウの手で彼の『現代の位置づけ』("Ortsbestimmung der Gegenwart",Bd.1,1951)のなかで理論的に彫琢され、私が考えたような上記の構造化の事実が、確かに一種の内的な構造化に一般的な形で拡大していくことが示されている。それから第二の時代は拡大し技術を積み重ねていく西洋が中心となった1500/1600年以来の大開墾時代である。この時代は1880年以来飽和時代に入り、それ以前からの西洋の人口拡大、植民地支配の拡大、ヨーロッパ中心の世界経済の発展によって、もはやそれまでの時代に覆いかぶさった層としてではなく、根底からの構造転換をもたらしたのである。人間と大地の関係性の変化は、歴史の外的構造化の諸要素を決定する。ヨーロッパの諸国家間の競合関係は、地上を征服しようとする指向と結びつき、最終的には帝国主義的な地上再分割闘争へと向かうことになった。ここでは第一の時代の層は、外的形成要因として消滅していった。そして内的な構造変化から生じてきた布置連関(die Konstellationen)は、世界史的で、歴史の外的構造化にとって決定的な意義をもっているのである。すなわちアメリカ合衆国の独立と建国、フランス革命によるフランスの拡大と、それが同国に与えた国民的な影響[国民国家としてのフランスの成立]である。歴史の外的な構造化からなる第三の時代への移り行きは、まさにわれわれがその始まりに立ち会っているものである。縮小した大地の上で支配や共同体による世界史的な連関を産み出していくこの時代は、次のようなことに特徴づけられる。すなわち継続的でより強化された歴史の外的構造の形成における内的構造の布置連関の出現である。二つの互いに対立しあう内的構造システム(innere Struktursysteme)が、大地の支配をめぐる地球規模での闘争において対峙しあっており、外的歴史までも構造化しつつある。
6.内的構造と外的構造によって構成された歴史・文化社会学研究では、両方の側面が常に相互浸透し、今日この相互浸透が外に向かって及ぼしている影響を示しているため、実際のところ以下の課題を担わなければならなっくなっている。すなわちそれは一般的な入れ物を構想し、今日発展しつつある概観的社会学(Querschnittsoziologie)や個別社会学のすべてに共通の基盤を、その中に見つけだすことである。「社会学」と呼ばれている今日の概観的な議論の多くは、子細にみるならば、社会研究(Gesellschaftslehre)において、それぞれの研究の段階に応じて社会過程の概観分析を行おうとしている。それらは、たとえ現に分析される社会が、それぞれの文明的な層や文化形態に該当する一般的な歴史状況の結果であるとしても、特定の要素について社会過程のすべての観点から観察する。これまで歴史・文化社会学は狭義の意味での社会学の任務を果たしていないように思われる。またそれ以外の専門社会学は、歴史的構造もしくは特殊な因果結合からなる特定の領域を研究しているが、それぞれの個別社会学としての位置づけは不明のままである。ここでは以下のことを確認しようとするにとどめる。すなわち今日の科学的社会学全体の組織に何らかの明確さを与えることである。
7.歴史・文化社会学はここで論じるような立場に立つならば、科学として拒絶されるのが当然であった十九世紀の歴史社会学を克服し、それよりも優れた前提と限定付けを得ることができるのである。
早い時期の歴史社会学はその出発点からして間違っていたわけではなかった。それらはむしろ特定の問題設定をめぐって構想されており、特定の限定された問題だけに答えるものであり、それぞれの範囲内では正しかったのである(コントの場合には、科学と思考能力から神話を取り除くこと。マルクスの場合には、資本主義的な発展に基づく諸矛盾に起因する人間の自己疎外や、それに伴う理念のイデオロギー化その他)。ここでわれわれが論じてきた歴史・文化社会学の意図は、ただすべての社会学の一般的枠組みとなることだけである。その前提とは、思考しうる、経験的に把握可能な社会学的諸条件や自然的諸条件のなかで、人間の運命に関する中心的な問いや、人間の産み出した諸事象についての問いから出発することである。そして以上の問題設定から歴史の構造(der Strukturaufbau der Geschichte)を規定するのである。
歴史・文化社会学は以上の事柄と同時に、自然的要素と社会的要素の組み合わせによる人間の類型そのものや、その変動に与える影響をテーマとするのであり、それが純粋な社会学の方法を乗り越え、経験的な人間学の領域へ踏み込まざるをえないことは明らかである。
そしてそれと同時に歴史の過程について問うのであり、偉大な宗教的、文化的世界化の諸現象が歴史の経過の中でどのようにして出来上がってきたのかを問う。このことは、世界化の本質と起源について同様に把握しなければならないのであり、それを社会学的考察としなければならないのである。歴史・文化社会学は、歴史のなかにある客観的な内在的超越性(eine objektive immanente Transzendenz)に光を当てるのである。そしてそれは内的超越性の研究となり、ここから次第に特殊化していく力や、解放すると同時に精神的に隷従させる力、積極的であるとともに暗いデーモン的な力を考察にいれるのである。
8.次のことは明らかである。すなわち歴史・文化社会学は、それが経験的な社会学としてあらかじめ与えられた任務として、客観的に与えられた歴史の意味を追及しながらも、これに対して懐疑的な態度をとること。歴史・文化社会学は客観的に与えられた歴史の意味の過程を発見しようとはしないで、上記の世界化・解放化時代(die universalisierend-befreienden Perioden)や人間類型や布置連関にについての問題設定に立ち返るのである。これらは客観的に与えられた歴史の意味に対応するものであるが、しかし歴史的実在の意味に対する別様の問いかけなのである。このような問いかけは次のことを問うのである。歴史のなかで解放的世界化(befreiende Universalisierung)の可能性や世界化を担った人間類型の可能性といった問いを展開し、そしていかなる人間類型が、またいかなる諸条件が、今日可能な解放的世界化において重要になってくるのかということを明らかにするのである。
歴史・文化社会学は以上のように単なる歴史の社会学であることはできないのであり、同時に今日の歴史のなかで可能な意味実現を指し示さなければならないのである。

文献:項目"Zivilisationsprezess"を見よ。

(寄稿:犬飼裕一2005年8月14日)


== 著書 ==
== 著書 ==

2005年8月14日 (日) 15:17時点における版

アルフレッド・ヴェーバー (Alfred Weber1868年7月30日 エアフルト - 1958年5月2日 ハイデルベルグ)は、ドイツ社会学者並びに経済学者であり、マックス・ヴェーバーの弟である。

履歴

兄のマックス・ヴェーバーと同様に、アルフレッド・ヴェーバーも経済学者を始め、1909年に経済学の位置論を基づいたとされる。しかも、後文化社会学者として活躍した。1904年より1907年にかけてプラハ大学の教授をし、後ハイデルベルク大学に移動した。ナチ期中(1933年 - 1945年)退任させられていた。

1954年のドイツ連邦大統領選挙の際、ドイツ共産党は、ナチの敵対者であったヴェーバーの賛成を得ずに彼を候補者に推薦した。

経済学的位置論

(翻訳:アルフレート・ウェーバー自身による説明)

歴史・文化社会学 Geschichts- und Kultursoziologie アルフレート・ウェーバー Alfred Weber (『社会学事典』Wörterbuch der Soziologie, Enke Verlag, Stuttgart, 1955.)

訳:犬飼裕一

1.歴史・文化社会学 は、18世紀と19世紀の初頭に、コンドルセやヘルダー、シラー、ヘーゲルらによって普遍史(Universalgeschichte)の一つの有力な意味解釈として導入された歴史哲学の後継者である。歴史・文化社会学 は、サンシモンの業績の継承のなかから、A.コントによって樹立された。 歴史・文化社会学 は人間が予測するか、あるいは期待するような意味で歴史に解釈を投入するものではない。歴史・文化社会学 はそんなことよりも、歴史的な諸事実をそのまま語ることに取り組もうとする。それは歴史的な過程の層の連なり(Stufenfolge)を経験的に読みとろうとするのである。例えば、K.マルクスを一方とし、H.スペンサー、K.ランプレヒトを他方とするような立場は、現象を通して歴史についての様々な解釈を先行して生み出していたが、彼らの経験的な方法にもかかわらず純粋に実証的であるということはできなかった。マルクスは(彼は少なくとも自分の方法を明確に提示することができなかったのだが)、歴史の弁証法的過程のア・プリオリな認識から彼の解釈を引き出したわけではない。マルクスに影響を受けた他のすべての人々は、あらゆる場合の分析の背景に、特定の価値判断を置いていた。 これらすべての初期歴史・文化社会学 は、19世紀後半に信頼を失った。その理由は、人々が確実で限定された前提に立っていなかったということよりも、むしろ歴史的な過程の多様性を全般的に理解するには、あまりにもそれらが単純であり、また不十分なものであると思われたからである。 当時の批判的な立場の中に、社会学の方面から再度の発展がみられた。それは歴史的な考察によって、歴史的な概観分析(Gschichtliche Querschnittanalysen)を行おうとするものである。これらの立場はとりわけ無時間的な社会学的構造分析の補完物としてだけ歴史的過程を扱っていた。その優れた代表例はジンメルの社会形式論(soziale Formenlehre)である。第二に成立したのは、デュルケーム学派の行ったような社会学的な対象の時代・地域関連分析である。その最高の例が、レヴィ・ブリュールの未開人研究である。これらの研究様式は、これらが実際に行った研究よりも、先史時代や民俗誌の研究においてより多くの実りをもたらしたし、影響を与えてきた。また以上に隣接して、社会心理学が成立した。社会心理学は、一方では社会の行動主義となり(ヴィーゼ)、また他方では社会誌(Soziographie)と結びつくことで、統計的・経験的研究となった(とりわけアメリカの場合)。以上の諸研究の他には、社会の個別領域の研究(政治社会学、法社会学他)や、特殊な社会学的概観の枠組み(芸術社会学、音楽社会学、知識社会学他)、あるいは最後に個別的な社会学的因果系列の探求(マックス・ウェーバー:資本主義とプロテスタンティズム。またその他に、普遍史的な関連性を扱ったものとしては、彼の宗教社会学)がある。大変広範囲にわたる分析の展開の結果、すでに指摘されているように、それでは社会学とは本来何なのかという問いが浮上してくるのも道理にかなっている。 2.経験的に認識することのできる歴史の全過程への問いは消滅したわけではなく、20世紀の冒頭には再び盛んになった。ここでは歴史的な大転換に携わっているという感触を伴っていた。それ以来歴史の全過程を認識できるのかということが方法論研究の問題となった。実質的にこの研究に参加していたのはE.トレルチとO.ヒンツェであった。ただし彼らとは別に、O.シュペングラーによる歴史全過程の構想も成立した。ただしこれは独創的ではあるが、経験科学的に完全に基礎づけられているとはとはいいがたい。科学的な歴史・文化社会学 の限界と可能性を現実的に明らかにしなければならないという方法論上の必要性が生じてくることになった。とりわけそのことはA.トインビーの第一級の歴史的業績である『歴史の研究』にあてはまる。というのもこの研究は方法論的に低い価値しか持たないシュペングラーの「文化形態学的」循環論に依存しているからである。 3.歴史・文化社会学 を科学的に耐えうるものとして構想しようとするならば、以下のような条件を満たしておかなければならない。すなわち歴史・文化社会学 は歴史の構造論でなければならない。歴史の構造論は社会学として歴史の内的な構造過程(innerer Strukturverlauf der Geschichte)を経験的に明らかにする。それは構造過程が持っている一般的な諸傾向を明確にする意図を持ち、またそのことによってこの構造論は外的な構造過程(auァerer Strukturverlauf)と結びつけられる。なお外的な構造過程もまた同じように一般的な諸傾向を問う。そしてこれらは歴史の的社会学的な全体的観点に媒介され、そこでは内的な構造化が外的な構造化とダイナミックに結びつくのである。 4.歴史の内的な構造組織(innere Strukturgliederung)をいかにして論じるのかということを問うならば、歴史的過程と文明化の過程と文化運動とを互いに影響を与えあっていながら、思考の上では分離し、現実には合体した諸領域として論じなければならない。以上のことに言い添えるならば、 4ー1.文化運動としての「世界化(Universalisierungen)」というのもまた、文明化の過程だけに伴っているのではなくて、それぞれの新たな諸層(意識の諸層、学問的な探求の諸層(Stufe wissenschaftlicher Daseinsdurchdringung)、技術の諸層)において精神的な結びつきの範囲内で、それ自体自動的に一つの論理的な進歩として可能なのであり、それは地球全体に拡大していくのである。しかしそれぞれの文化的な世界化は論理的に論証できるようなものではない。その理由はそれらがとりわけ多様な超越論的宗教や社会宗教(Transzendental- und Sozialreligionen)に向かっていくからである。文化的な世界化はむしろはるかに精神的な妥当性の拡大であり、これは論理的に基礎づけたり、基礎づけを求めることはできないのである。文明的な世界化というのは、これに対して論理的な正確さの拡大、もしくは論理的に認識できる有用なことの拡大であり、その正しさを否定できないものである。 4ー2.それぞれの文化時代(Kulturperiode)は、一つの新しい「生の結晶(Lebensaggregierung)」の精神的浸透である。それを前にして人間はある時とある所には位置づけられるのであり、そのような存在形態に基づいて一般には非難されている生の離反にむかうのである。それぞれの「生の結晶」は、これを人が貫徹しようとする場合にも、あるいは非難する場合にも、(いわゆる「第一の文化(Primaerkulturen)」と呼ばれているものですら)常にそれ自身として文明的で社会構造的な形態に依存しているだけではなくて、すべてにわたってもしくは部分的にはすでに早い時代の文化によって積極的に形成されたか、もしくは消極的にでき上がってきた生の結晶にも依存しているのである。以上のようにそれぞれの新たな時代の「文化の革新」だけは、それに対応する生の結晶がすでに文化的に形成した限りにおいて引き起こされるのである。

5.歴史の外的な構造化は、内的な構造化といっしょになってはじめて具体的な構造として現われてくる。実際の社会学の研究では、社会学以外の政治史的な歴史考察がもっぱら中心課題としてきた大小の社会諸集団の継続的競合関係や、闘争関係を把握しなければならない。以上のような歴史上の競合関係や戦争の終始の全体は、社会学にとっては皮相な問題でしかない。社会学は何らかの方法によって外的な構造から引き出された一般的に妥当しうる理論を提出しようとするのであり、大きな歴史的行為を規定する具体的な意志の刺激(konkrete Willensimpulse)を問うのである。また社会学は意志の推進力を規定する一般的な諸要因について、一般的に論じようとするのである。そしてそれにともなって、社会学は人間が活動している地上の生命圏(der vitale Erdrahmen)を、外的な構造として一般化するのである。このことは換言するならば人間と大地(Erde)の関連性ということができる。

以上のことから引き出される歴史の外的な構造化について、一般的な諸傾向を子細に論じることはここではできない。ここで述べることは次のことだけである。人間と大地の関係性という観点の下では、紀元前4000年から3600年ごろの高度文化の成立以来、以上のような多様な構造化原理によって外的な構造化に、三つの異なった時代が存在した。第一は大変に長い時代であり、互いに連関しあう普遍史がまだユーラシア大陸に限定されていた時代である。この時代は数千年にわたる人口の圧迫の背景となっており、中近東地域やアラビアの枯渇によって、これらの地域からの継続的な人口の移動の波がこの時代の歴史を構造化している。地中海から黄河にいたるまでの肥沃な地域は、この人口の波によって満たされた。これらの地域では農耕によって幾層にもわたって歴史体が形作られてきた。東方では常に新たな人口の波が押し寄せ歴史の構造を新たにしつづけた。西方では常に新たな歴史体の中心点を生み出しつづけた。この構造化の事実が、私の「文化社会学としての文化史」の基本的な特徴である。これは近年になってA.リュストウの手で彼の『現代の位置づけ』("Ortsbestimmung der Gegenwart",Bd.1,1951)のなかで理論的に彫琢され、私が考えたような上記の構造化の事実が、確かに一種の内的な構造化に一般的な形で拡大していくことが示されている。それから第二の時代は拡大し技術を積み重ねていく西洋が中心となった1500/1600年以来の大開墾時代である。この時代は1880年以来飽和時代に入り、それ以前からの西洋の人口拡大、植民地支配の拡大、ヨーロッパ中心の世界経済の発展によって、もはやそれまでの時代に覆いかぶさった層としてではなく、根底からの構造転換をもたらしたのである。人間と大地の関係性の変化は、歴史の外的構造化の諸要素を決定する。ヨーロッパの諸国家間の競合関係は、地上を征服しようとする指向と結びつき、最終的には帝国主義的な地上再分割闘争へと向かうことになった。ここでは第一の時代の層は、外的形成要因として消滅していった。そして内的な構造変化から生じてきた布置連関(die Konstellationen)は、世界史的で、歴史の外的構造化にとって決定的な意義をもっているのである。すなわちアメリカ合衆国の独立と建国、フランス革命によるフランスの拡大と、それが同国に与えた国民的な影響[国民国家としてのフランスの成立]である。歴史の外的な構造化からなる第三の時代への移り行きは、まさにわれわれがその始まりに立ち会っているものである。縮小した大地の上で支配や共同体による世界史的な連関を産み出していくこの時代は、次のようなことに特徴づけられる。すなわち継続的でより強化された歴史の外的構造の形成における内的構造の布置連関の出現である。二つの互いに対立しあう内的構造システム(innere Struktursysteme)が、大地の支配をめぐる地球規模での闘争において対峙しあっており、外的歴史までも構造化しつつある。 6.内的構造と外的構造によって構成された歴史・文化社会学研究では、両方の側面が常に相互浸透し、今日この相互浸透が外に向かって及ぼしている影響を示しているため、実際のところ以下の課題を担わなければならなっくなっている。すなわちそれは一般的な入れ物を構想し、今日発展しつつある概観的社会学(Querschnittsoziologie)や個別社会学のすべてに共通の基盤を、その中に見つけだすことである。「社会学」と呼ばれている今日の概観的な議論の多くは、子細にみるならば、社会研究(Gesellschaftslehre)において、それぞれの研究の段階に応じて社会過程の概観分析を行おうとしている。それらは、たとえ現に分析される社会が、それぞれの文明的な層や文化形態に該当する一般的な歴史状況の結果であるとしても、特定の要素について社会過程のすべての観点から観察する。これまで歴史・文化社会学は狭義の意味での社会学の任務を果たしていないように思われる。またそれ以外の専門社会学は、歴史的構造もしくは特殊な因果結合からなる特定の領域を研究しているが、それぞれの個別社会学としての位置づけは不明のままである。ここでは以下のことを確認しようとするにとどめる。すなわち今日の科学的社会学全体の組織に何らかの明確さを与えることである。 7.歴史・文化社会学はここで論じるような立場に立つならば、科学として拒絶されるのが当然であった十九世紀の歴史社会学を克服し、それよりも優れた前提と限定付けを得ることができるのである。 早い時期の歴史社会学はその出発点からして間違っていたわけではなかった。それらはむしろ特定の問題設定をめぐって構想されており、特定の限定された問題だけに答えるものであり、それぞれの範囲内では正しかったのである(コントの場合には、科学と思考能力から神話を取り除くこと。マルクスの場合には、資本主義的な発展に基づく諸矛盾に起因する人間の自己疎外や、それに伴う理念のイデオロギー化その他)。ここでわれわれが論じてきた歴史・文化社会学の意図は、ただすべての社会学の一般的枠組みとなることだけである。その前提とは、思考しうる、経験的に把握可能な社会学的諸条件や自然的諸条件のなかで、人間の運命に関する中心的な問いや、人間の産み出した諸事象についての問いから出発することである。そして以上の問題設定から歴史の構造(der Strukturaufbau der Geschichte)を規定するのである。 歴史・文化社会学は以上の事柄と同時に、自然的要素と社会的要素の組み合わせによる人間の類型そのものや、その変動に与える影響をテーマとするのであり、それが純粋な社会学の方法を乗り越え、経験的な人間学の領域へ踏み込まざるをえないことは明らかである。 そしてそれと同時に歴史の過程について問うのであり、偉大な宗教的、文化的世界化の諸現象が歴史の経過の中でどのようにして出来上がってきたのかを問う。このことは、世界化の本質と起源について同様に把握しなければならないのであり、それを社会学的考察としなければならないのである。歴史・文化社会学は、歴史のなかにある客観的な内在的超越性(eine objektive immanente Transzendenz)に光を当てるのである。そしてそれは内的超越性の研究となり、ここから次第に特殊化していく力や、解放すると同時に精神的に隷従させる力、積極的であるとともに暗いデーモン的な力を考察にいれるのである。 8.次のことは明らかである。すなわち歴史・文化社会学は、それが経験的な社会学としてあらかじめ与えられた任務として、客観的に与えられた歴史の意味を追及しながらも、これに対して懐疑的な態度をとること。歴史・文化社会学は客観的に与えられた歴史の意味の過程を発見しようとはしないで、上記の世界化・解放化時代(die universalisierend-befreienden Perioden)や人間類型や布置連関にについての問題設定に立ち返るのである。これらは客観的に与えられた歴史の意味に対応するものであるが、しかし歴史的実在の意味に対する別様の問いかけなのである。このような問いかけは次のことを問うのである。歴史のなかで解放的世界化(befreiende Universalisierung)の可能性や世界化を担った人間類型の可能性といった問いを展開し、そしていかなる人間類型が、またいかなる諸条件が、今日可能な解放的世界化において重要になってくるのかということを明らかにするのである。 歴史・文化社会学は以上のように単なる歴史の社会学であることはできないのであり、同時に今日の歴史のなかで可能な意味実現を指し示さなければならないのである。

文献:項目"Zivilisationsprezess"を見よ。

(寄稿:犬飼裕一2005年8月14日)

著書

  • Über den Standort der Industrie: Reine Theorie des Standorts (1909年)
  • Industrielle Standortlehre (1914年)
  • Religion und Kultur (1924年)
  • Die Krise des modernen Staatsgedankens in Europa (1925年)
  • Ideen zur Staats- und Kultursoziologie (1927年)
  • Kulturgeschichte als Kultursoziologie (1935年)
  • Das Tragische und die Geschichte (1943年)
  • Farewell to European history ... (1947年)
  • Der dritte oder vierte Mensch. Vom Sinn des geschichtlichen Daseins (1953年)
  • Einführung in die Soziologie (1955年)

関連文献

  • Nicolaus Sombart: Rendevous mit dem Weltgeist. S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main, ISBN 3-10-074422-5, 内 Zweiter Teil, Kapitel "Alfred Weber"

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