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山名豊国

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時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 1548年天文17年)
死没 1626年11月25日寛永3年10月7日
別名 元豊(初名)
諡号 禅高
官位 従五位下、中務大輔。宮内少輔
氏族 山名氏
父母 父:山名豊定、母:細川高国の娘
兄弟 山名豊数山名豊国
山名七郎山名豊政山名豊義

山名 豊国やまな とよくに)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

生涯

天文17年(1548年)、山名豊定の子として生まれる。生母は室町幕府管領・細川高国の娘である。

永禄3年(1560年)、父が死去すると、家督を継いだのは兄・山名豊数であったため、豊国は因幡岩井城主となる。兄の補佐を懸命に努めたが、その兄と共に家臣の武田高信によって領国を一時的に追われて但馬八束に逃れて伯父の山名祐豊を頼った。その後、山中鹿介ら尼子残党軍の支援を得て領国を取り戻し、山名氏の家督を継いだ。しかし、尼子残党軍と手を結んだために毛利氏の怒りを買うこととなり、天正元年(1573年)に吉川元春に攻められて降伏を余儀なくされた。

その後は毛利氏の家臣として尼子氏残党軍と各地で戦ったが、天正6年(1578年)から織田信長と誼を通じ、天正8年(1580年)に織田信長の命を受けた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍勢が侵攻して来ると、一旦は鳥取城に籠城する。だが、家臣の中村春継らが徹底抗戦を主張する中、一人で秀吉に降伏する。これは、豊国の娘を秀吉に人質にとられたからだとも、毛利側が暗愚な豊国を総大将として擁しているよりは城兵側にとってもずっといいと考えて豊国を追い出したのであるとも言われている。ちなみに豊国は、秀吉を通じて信長に会い、助命されている。このため、家臣団は豊国の子・山名七郎を城主として擁立している。

その後は秀吉に属し、天正9年(1581年)には豊国、そして七郎に替わって城主となった吉川経家が籠もる鳥取城攻めなどに従軍する。皮肉にも豊国が籠城したときには、豊国が備蓄対策を十分にとっていたために攻城側が何ら成果を見出せなかったとされる兵糧攻めによって陥落した。

後に秀吉の御伽衆となり、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣している。秀吉没後は徳川家康に属し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に属して従軍している。慶長6年(1601年)に但馬国内で6700石の所領を与えられ、山名氏は江戸時代を通じて交代寄合として存続することとなった。高家となったと言われることが時にあるが、これは誤りである。

その後は家康、そして徳川秀忠に仕え、駿府城の茶会などに参加するなどしている。寛永3年(1626年)10月7日に死去。享年79。後を子の山名豊政が継いだ。

人物・逸話

  • 様々な無用な振る舞いから、後世の評判は決して芳しくは無いが、征夷大将軍に就任した家康に謁見する際に室町幕府足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着て参上して家康から賞されたという話や、秀吉が豊国の娘を人質にとったのは実は豊国が巧みに鳥取城を守って城を落とせなかったからであるという説も伝わっているところを見ると、一概に暗愚な人物であったとも言い切れないようである。
  • 名門・山名氏の出身者だけあって、有職故実や和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化面には精通していた。そのため、儀礼的なことに関しては秀吉・家康から大いに重用されている。