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東方老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東方 老(とうほう ろう、生年不詳 - 556年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫安徳郡鬲県[1][2][3]

経歴

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家は代々貧しく身分が低かった。東方老が成長すると、その身長は7尺に達し、その膂力は常人を超えた。東方老は若くして粗野で無頼であり、軽薄陰険な者たちと結託して盗賊となって、郷里の患いとなっていた。北魏末の兵乱が起こると、東方老は高昂の下でその部曲を率いた。普泰元年(531年)、高歓が起兵すると、東方老は爾朱氏に対する征討に従軍し、軍功により殿中将軍の号を受けた。平遠将軍に累進し、魯陽郡太守に任じられた。後に南益州刺史に任じられ、宜陽郡太守を兼ね、長楽子の爵位を受けた。東方老は数年のあいだに少数民族や西魏と隣接する2郡の太守を歴任した。攻城戦や野戦においては、兵士の先頭に立って戦い、しばしば少勢で大軍を抑えたので、西魏の人々もかれを敬遠した。天保元年(550年)、北斉が建国されると、東方老は陽平県伯の別封を受け、南兗州刺史に転じた[4][5][3]。石泉で西魏の陳忻と戦って敗れた[6]。天保4年(553年)、郭元建が合肥に派遣されて水軍を運用すると、東方老は邢杲遠や歩大汗薩らとともにこれに合流した[7][8][9]。天保7年(556年)3月、東方老は蕭軌李希光裴英起王敬宝らとともに長江を渡って柵口に進出し、梁山に向かった。の帳内盪主黄叢の迎撃を受けて敗れ、前軍の船艦を焼かれた。軍を整えて蕪湖を保った。5月、秣陵故城に到達した[10][11]石頭城を襲撃して攻め落とした[12][13][3]。6月、蕭軌らとともに鍾山の西で陳霸先率いる梁軍と戦い、長雨に遭って敗れ、捕らえられて殺害された[14][15][16][17][18][11]

脚注

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  1. ^ 氣賀澤 2021, p. 297.
  2. ^ 北斉書 1972, p. 299.
  3. ^ a b c 北史 1974, p. 1150.
  4. ^ 氣賀澤 2021, pp. 297–298.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 299–300.
  6. ^ 周書 1971, p. 778.
  7. ^ 梁書 1973, p. 133.
  8. ^ 梁書 1973, p. 630.
  9. ^ 南史 1975, p. 240.
  10. ^ 陳書 1972, p. 10.
  11. ^ a b 南史 1975, p. 263.
  12. ^ 氣賀澤 2021, p. 298.
  13. ^ 北斉書 1972, p. 300.
  14. ^ 氣賀澤 2021, p. 91.
  15. ^ 北斉書 1972, pp. 61–62.
  16. ^ 北史 1974, p. 253.
  17. ^ 梁書 1973, p. 146.
  18. ^ 陳書 1972, p. 11.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『梁書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00311-7 
  • 『陳書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00312-5 
  • 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6