日名子ホテル
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日名子ホテル(ひなごホテル)は、かつて大分県別府市流川にあったホテルである。旧名日名子旅館。
沿革
[編集]安政年間(1854年-1859年)に府内屋として開業した別府温泉で最も古いとされる旅館であった[1]。旅館を経営した日名子家は古くから別府温泉に関係のあった名家で、1272年(文永9年)に大友頼泰が日名子太郎左衛門尉清元を温泉奉行に任じたとの記録が残り、また、旅館の創業に先立つ文化年間(1804年-1818年)の別府温泉の湯株保有者18戸にも府内屋太郎兵衛が挙げられている。日名子家の当主は代々襲名して府内屋太郎兵衛を名乗った。旧別府町と旧浜脇町が合併した新別府町の初代町長日名子太郎も、当時の日名子家当主の長男である[2]
第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)又は1949年(昭和24年)に進駐軍関連の事業で急成長を遂げた建設会社星野組の岡本忠夫が買収し、合資会社日名子旅館を設立[3][4]。日名子旅館は社会人野球チームの星野組の宿舎としても使用された[5]。
1951年(昭和36年)9月に合資会社日名子ホテルに商号を変更し、1962年(昭和37年)には6階建・72室の新館を開業した[6]が、高度経済成長期における設備投資の失敗のために1985年(昭和60年)7月1日に倒産して歴史を閉じた。その後、跡地はマンションになっている[1]。
著名な宿泊客
[編集]日名子旅館は、冨士屋、米屋と並んで御三家と呼ばれた別府温泉を代表する旅館であり、数々の著名人が宿泊している。
- 1893年(明治26年)には、伊藤博文が湯治に別府温泉を訪れ、日名子旅館に宿泊[7]。「霊泉館」という別名を名付けた[8]。
- 1918年(大正7年)には、彦乃の湯治のために別府温泉を訪れた竹久夢二が逗留している[9]。
- 1949年(昭和24年)には大分県を巡幸した昭和天皇の宿所となった[10]。
- 1955年(昭和30年)には第10期本因坊戦の挑戦手合第2局が行われた。これは、大分県内で初めての囲碁のタイトル戦挑戦手合であった[11]。
脚注
[編集]- ^ a b 浦達雄「別府市における老舗旅館の経営動向」『大阪観光大学紀要』第13巻、大阪観光大学、2013年3月、21-27頁、CRID 1390853649729684608、doi:10.20670/00000034、ISSN 1881638X、NAID 110009560952。
- ^ 是永勉「デジタル版「別府今昔」流川物語り(10) (PDF) 」大分合同新聞社、2006年7月28日
- ^ 白石昇他「「私と戦争」体験記」『別府史談』第17巻、別府史談会、2003年12月、61-72頁、CRID 1050564287605996800、NAID 120001798388。「目次ではタイトルが「私の戦争体験記」になっている」
- ^ 浦達雄「高度経済成長期における別府温泉の形成過程」『温泉地域研究』第6号、日本温泉地域学会、2006年3月、21-30頁、CRID 1522825130142059648、ISSN 13487965、国立国会図書館書誌ID:8894760。
- ^ 闘将思い出の別府で知った「青春」 スポニチ Sponichi Annex、2017年1月5日
- ^ 浦達雄「別府温泉における旅館立地の変化 別府温泉における旅館立地の変化」[リンク切れ]
- ^ 別府市 年表 別府歴史資料デジタルアーカイブ
- ^ 懐かしの別府ものがたり:No1136 今日新聞、2011年1月6日
- ^ 大塚俊英「別府を訪れた文化人たち(明治期から昭和二〇年にかけて)」『別府史談』第10巻、別府史談会、1996年11月、58-82頁、CRID 1050282812629261696、NAID 120001798293。
- ^ 大分市報 第3号 (PDF) 大分市、1949年6月3日
- ^ 第31期名人戦七番勝負 第2局 朝日新聞、2006年9月20日
外部リンク
[編集]- オールド観光案内図コレクション/大分県 日名子旅館御案内 地図の資料館