片山松斎

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片山 松斎(かたやま しょうさい、明和5年(1768年)-没年不詳)は、江戸時代後期の江戸幕府旗本天文家。松斎は号で、諱は国倀(くになが[1])。通称は権平[2]、後に円然(えんぜん/えんねん[3])。父は片山国雄、母は仁賀保誠章の娘、妻は田中義智の養女[2]

片山家は三河譜代の旗本と伝えられている[4]。『寛政重修諸家譜』によれば、平良文流で秩父重弘の末裔、片山国次の代に徳川家康に仕えたとされる[2]天明6年(1786年閏10月6日、父の死によって家督を継ぎ、武蔵国埼玉郡に100石・廩米250俵を与えられて小普請となった[2][5]。だが、長く無役の状態に置かれ、芝新堀の自宅で柔術を教えていたと伝えられている[4]。早くに3男に家督を譲って学問と文筆活動に励む[4][5][6]

元々、天台宗などの仏教思想に関心を抱いていたが、文化7年(1810年)頃に芝新銭座に居を構えていた司馬江漢と親しく交わり[4]、その門人となった[5][6]。特にコペルニクス地動説に大きな影響を受け、地動説をはじめとする西洋天文学の紹介に生涯を捧げた[4][5][6]

天文学に関する著作としては、文化7年(1810年)の『天学略名目』、文政4年(1821年)の『天文法語』、文政10年(1827年)の『地転窮理論』、天保6年(1835年)の『天学略名目羽翼』などが知られている[5]。また、享和3年(1803年)の『神道大綱集』、文化元年(1804年)の『続日本王代一覧後記』、文政2年(1819年)の『続唐土王代一覧』、天保4年(1833年)の『国学正義編』などの歴史神道関係の著作も多い[6]。国学正義編では、平田篤胤の「霊の真柱」を痛烈に批判。平田が日本を世界の中心のように主張することや、古事記等の神話を真実とみなしていることに対し「国土に上下本末いささかも有る事なし」「我国を以って万国の本国と褒め、外国を末国と貶すが如きは道理に於いて当ることなし」「天皇を万国の大君と称する事甚だ以って不通」「日本は万国の本国などと誇耀するが如きは皆小智小見のなすところ」「神代巻は夢幻也。うつつの事を以って談ずる事なかれ」などと論駁している。[7]

また、『蒼海一滴集』と呼ばれる随筆集も残している[4][5][6]。伝わっている著作はすべて写本で、刊行の形式をとったものはない。

没年は不詳であるが、著作である『天学略名目羽翼』を著した天保6年には68歳で健在であったからそれ以降であると考えられる[5]。また、墓所は谷中竜泉寺と伝えられている[6]

登場する作品[編集]

小説[編集]


脚注[編集]

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』。『朝日日本歴史人物事典』では「くにつぐ」と読ませている。
  2. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第1354(続群書類従完成会版・第20冊に所収)
  3. ^ 『日本洋学人名事典』・『国書人名辞典 5』は「えんぜん」、『朝日日本歴史人物事典』は「えんねん」と表記している。
  4. ^ a b c d e f 『朝日日本歴史人物事典』
  5. ^ a b c d e f g 『日本洋学人名事典』
  6. ^ a b c d e f 『国書人名辞典 5』
  7. ^ 『お言葉ですが…別巻4ことばと文字と文章と』P179-208

参考文献[編集]

  • 吉田忠「片山円然」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8 P429
  • 武内博 編著『日本洋学人名事典』(柏書房、1994年) ISBN 978-4-760-11104-6 「片山円然」 P112-113
  • 市古貞次 他編『国書人名辞典 5』(岩波書店、1999年) ISBN 978-4-000-80085-3 「片山円然」 P15 
  • 高島俊男著『お言葉ですが…別巻4 ことばと文字と文章と』(連合出版、2011年) ISBN 978-4-89772-261-0 「平田篤胤と片山松斎」 P179-208 (高島は文章の元として中野三敏「和本教室」(岩波書店「図書」掲載)を挙げている)