瀧川清一
表示
瀧川清一(たきがわせいいち、1900年(明治33年)3月28日[1] - 没年不明)は、日本の実業家、教育者。
人物
[編集]1900年、兵庫県神戸市兵庫区生まれ。瀧川儀作の長男[2]。須磨浦小学校卒業、兵庫県立第二神戸中学校卒業、神戸高等商業学校卒業[3]。日本綿花入社[2]。青島燐寸社長をつとめる[2]。
1935年12月28日には、帰国してから銀国有令実施後の中国においての金融情勢について述べた内容が神戸又新日報に掲載された[4]。
1956年4月、学校法人瀧川学園理事長に就任し、1966年6月までつとめる[5]。住所は神戸市兵庫区水木通2丁目[2]。
家族・親族
[編集]- 瀧川家
- 父・儀作[6](1874年 - 1963年、東洋燐寸社長、貴族院議員)
- 妻・寿江(1903年 - ?、兵庫、八馬兼介の妹)[2]
- 長男(妻は阿部孝次郎次女)
- 次男
- 長女(小菅弘正(四日市倉庫会長)夫人)
- 親戚
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録 第23版 下』(人事興信所、1966年)た228頁
- ^ a b c d e 『人事興信録 第11版 下』タ232頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年2月12日閲覧。
- ^ “神戸っ子1965年4月号”. 服部プロセス. 2018年11月4日閲覧。
- ^ “神戸又新日報 1935.12.28”. 神戸大学経済経営研究所. 2018年11月4日閲覧。
- ^ “同窓会の歩み”. 瀧川学園同窓会. 2018年11月4日閲覧。
- ^ “月刊神戸っ子2017年9月号”. 服部プロセス. 2018年11月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第11版 下』人事興信所、1937 - 1939年。