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源顕国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源顕国
時代 平安時代後期
生誕 永保3年(1083年
死没 保安2年5月29日1121年6月15日
別名 正字:顯國
官位 従四位上左近衛少将
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 村上源氏顕房流
父母 父:源国信、母:高階泰仲の娘
兄弟 顕国国教雅国信時俊国、信顕、延信、仁信、信智、信子、俊子、女子
越後守仲宣の娘、藤原宗忠の娘
国通、恵珍
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源 顕国(みなもと の あきくに)は、平安時代後期の貴族歌人村上源氏顕房流、権中納言源国信の長男。官位従四位上左近衛少将

経歴

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父・国信と共に堀河天皇に仕え、歌壇で活躍した。

嘉保3年(1096年)11月に元服。加冠は中宮大夫源師忠で、理髪は源顕実が務めた。永長2年(1097年)正月の除目中務侍従に任ぜられる。当時の位階従五位下承徳2年(1098年)には昇殿を聴され、承徳3年(1099年)従五位上に陞叙。

康和2年(1100年正五位下に叙せられる。康和4年(1102年五位蔵人に補され、左近衛少将を務める。康和5年(1103年)に備前介に任ぜられるが、当時の備前守は同母弟の国教であったため、顕国は同母弟の下につくことになってしまった。その際に藤原宗忠も、兄である顕国を弟の下に置くことはどうしたことだろうか、とこの人事を訝しんだ[1]長治2年(1105年従四位下に叙され、嘉承2年(1107年)12月に令子内親王皇后となった際には皇后宮権亮を兼任。備前権介も務めた。また、天永4年(1113年権大納言源雅俊の子・憲俊の元服の儀において理髪を務める。

藤原宗忠と交流がありその娘を娶った。後に恵珍を出産、宗忠は「最愛の孫」とその日記で述べている。また、元永2年(1119年)には宗忠・宗能と共に熊野詣を行った。

皇后宮権亮を兼ねた後は新たに官職を経ることなく、没するまで左少将を務め上げた。保安2年(1121年)5月29日に卒去。享年39。

人物

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和歌に長じた[2]。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に七首が入集。天仁3年(1110年)4月29日に行われた源師時山家五番歌合や、永久3年(1115年)10月26日、元永元年(1118年)10月13日、元永2年(1119年)7月23日に行われた藤原忠通内大臣家歌合に出詠した。

官歴

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  • 嘉保3年(1096年)11月29日:元服[3]
  • 永長2年(1097年)正月30日:中務侍従に任ず。位階は従五位下[4]
  • 承徳2年(1098年)7月9日:昇殿を聴す[5]
  • 承徳3年(1099年)正月6日:従五位上に叙す[6]
  • 康和2年(1100年)正月7日:正五位下に叙す[7]
  • 康和4年(1102年)正月15日:五位蔵人に補す[8]
  • 時期不明:左近衛少将に任ず。
  • 康和5年(1103年)2月30日:備前介に任ず[1]
  • 長治2年(1105年)6月8日:従四位下に叙す(勧賞)[9]
  • 嘉承2年(1107年)12月5日:皇后宮権亮を兼ぬ[10]
  • 天永2年(1111年)5月29日:復任除目にて備中権介に復任す。
  • 天永4年(1113年)正月13日:源憲俊元服の儀にて理髪を務む[11]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 。『中右記』康和5年2月30日条
  2. ^ 今鏡
  3. ^ 中右記嘉保3年11月29日条
  4. ^ 『中右記』永長2年正月30日条
  5. ^ 『中右記』承徳2年7月9日条
  6. ^ 本朝世紀』承徳3年正月6日条
  7. ^ 殿暦康和2年正月7日条
  8. ^ 『殿暦』康和4年正月15日条、『中右記』康和4年正月15日条など
  9. ^ 『中右記』長治2年6月8日条
  10. ^ 『中右記』嘉承2年12月5日条
  11. ^ 『長秋記』天永4年正月13日条