氷川神社 (渋谷区東)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渋谷氷川神社から転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
氷川神社
Shibuya Hikawa-jinja8.JPG
氷川神社
(2015年5月9日撮影)
所在地 東京都渋谷区東二丁目5番6号
位置 北緯35度39分18.28秒
東経139度42分38.92秒
座標: 北緯35度39分18.28秒 東経139度42分38.92秒
主祭神 素盞嗚尊稲田姫命大己貴尊天照皇大神
創建 寛治6年(1092年)
例祭 9月16日
地図
氷川神社の位置(東京都区部内)
氷川神社
氷川神社
テンプレートを表示

氷川神社 (ひかわじんじゃ)は、東京都渋谷区東二丁目にある神社。渋谷氷川神社とも称される。

歴史[編集]

古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であった。創始は非常に古く、今これを詳かにすべきものがないが、1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあり、1713年(正徳3年)宝泉寺から幕府に出した書上には「起立の年数知れ不申候」と見えている。1782年(天明2年)正月5日阿部備中守へ差出した書類に別当宝泉寺の庫裡から出火2間3間の土蔵が炎上したことが記され、宝物史料などは、この時焼失したと伝えられている。

渋谷地区の最古の神社で、源頼朝が勧請したとか、金王丸が信仰したというのは後世に附いた伝説と見え、1732年(享保17年)に出来た「江戸砂子」にあるのが始めである。往時はの類が鬱蒼と茂り真に昼猶暗く渋谷川が門前を流れていかにも神さびた宮であったらしいことは「江戸名所図会」の絵にもうかがわれる[1]

境内社[編集]

境内[編集]

境内は1693年(元禄6年)2月25日、及び1748年(延享5年)正月28日、奉行所へ差出の図面には何れも境内余地6840坪とあり、1713年(正徳3年)、1749年(寛延2年)などの寺社奉行から下した朱印状のも同様になっており、以後それがつづいて今日に及んでいる。境内には、「江戸名所図会」によると神木とある老松があって「常盤松」と呼ばれ、常磐御前が植えたという伝説もあり、その松の枝にかけたという自筆の色紙というのも残っている。この松は780年前に枯れて、古株だけが後年まで「守武萬代石」という石の傍、今の神楽殿の後辺に残っていたという。1877年(明治10年)差し出しの明細書にも「現ニ枯木根幹アリ」とある。之が所謂常磐松の元祖である[2]。 

社殿の造営[編集]

社殿は「氷川宮再造栄記」等によっても起立のくわしいことは判らない。当時中興宝円法印が本社を再建したことや、その後何回か修復があり、また宝永年中、山口伊豆守が祈願のため黄金15両を寄附して、本殿を修復拝殿を建立したことがわかる。今の社殿は何度目の改築に当るのかは不明だが、氏子町内の寄附によって営まれ1938年(昭和13年)11月3日正遷座したもので、同20年5月25日の空襲にも社殿は被災せず、今では都内有数の神社建築である[3]

文化財[編集]

  • 紙本著色氷川大明神幷宝泉寺縁起絵 - 区指定有形文化財

例祭[編集]

古来より祭礼として相撲が奉納されており、大井鹿嶋神社世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていた。

例祭は、もと9月29日で、この日には昔から参道傍の相撲場で大相撲が行われ、「渋谷の相撲」「金王の相撲」などといわれ、近郷近在は勿論、江戸表からも見物人が多く集まり、ある年凶年のため休んだところ、集まった面々によって遂に大相撲になった事もあるという位で、将軍家でさえ「渋谷の相撲なら見に行こう」といわれたと伝えている。昔からなかなか有名なもので、今でも神事の一つになっている。江戸時代からの由緒ある東京の相撲場で、現在にも伝わっているものとして興味がある[4]

氏子[編集]

昔の下渋谷村、下豊澤村で、今の渋谷区の南端の地域を占め、区内の神社中最も広い町内を有している。北は大体もとの鎌倉街道の辺を境として、金王八幡宮の氏子町内と隣り合い、東は笄ヶ谷をもって今の麻布と接し、西丘陵の峯をもって目黒区と分かれ、南はやや開けて麻布、芝、品川に続いている。

並木橋より天現寺橋に至る其の間、渋谷川が中央を北から南に流れ、その流域は平地になっているが、笄川、井守川、代官山、長谷戸の流れ、向山、伊達の流れなど、ささやかな流れの本川にそそぐ中を山笄宮代十豊分地域、羽澤上智、代官山猿楽、長谷戸衆楽、向山伊達、と自らそれぞれ壷地になっている。この様に高低起伏の多い土地であるため住み付きやすい所であるのか、先住民の遺跡や遺物等も所々に発見されていることは、その地名表に示されてある所である。

しかし山林や畑地の多い所のため、江戸が開けるようになってからも広尾町や渋谷橋辺を除いては、町屋として発達した所が少なく、大名屋敷等が多かったようである。明治2年の記事に「氏子諸侯ノ内島津家、黒田家、宇和島家、堀田家、渡辺家、戸澤家、氏子内ナレバ武運長久ノ祈願仕リ、毎年ノ祭禮ノ節ハ弊畠料奉納アリシ由紀セリ」とある。

近年では市街地もあり、住宅地もあり、小工場のある地域もあり、町名も旧渋谷町の大半と麻布に一部で40余町に呼び分られるほどで、終戦前一時は世帯数も一万六千戸を数えたこともあった。また終戦前までは東伏見宮家、久邇宮家、同別邸、李鍵公等の宮家をはじめ華族、名士等の邸宅も多く、大日本神祇会、国学院大学など棋界の機関もあって神社の氏子町内としての性格から見る時は、他に類例を見ない地域であった。終戦後はこの有様もやや変わったが、それでも東宮仮御所や、渋谷文教地区をその氏子町内に持っていることは大きな特色である[5]

氏子地域[編集]

  • 渋谷区東一丁目~四丁目
  • 渋谷区猿楽町1~5・7~23
  • 渋谷区代官山町
  • 渋谷区恵比寿西一丁目~二丁目
  • 渋谷区恵比寿南一丁目~三丁目
  • 渋谷区恵比寿一丁目~四丁目
  • 渋谷区広尾一丁目~五丁目

※広尾五丁目のうち旧元広尾町の町域は廣尾稲荷神社との二重氏子。

交通[編集]

鉄道
路線バス

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 樋口清之、田村善次郎編著者『渋谷の歴史・渋谷昔ばなし』渋谷氷川神社、昭和29年11月15日発行、氷川神社(俗称渋谷氷川神社)由緒。
  2. ^ 樋口清之、田村善次郎編著者『渋谷の歴史・渋谷昔ばなし』渋谷氷川神社、昭和29年11月15日発行、氷川神社(俗称渋谷氷川神社)境内。
  3. ^ 樋口清之、田村善次郎編著者『渋谷の歴史・渋谷昔ばなし』渋谷氷川神社、昭和29年11月15日発行、氷川神社(俗称渋谷氷川神社)社殿の造営。
  4. ^ 樋口清之、田村善次郎編著者『渋谷の歴史・渋谷昔ばなし』渋谷氷川神社、昭和29年11月15日発行、氷川神社(俗称渋谷氷川神社)例祭。
  5. ^ 樋口清之、田村善次郎編著者『渋谷の歴史・渋谷昔ばなし』渋谷氷川神社、昭和29年11月15日発行、氷川神社(俗称渋谷氷川神社)氏子。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度39分18.28秒 東経139度42分38.92秒 / 北緯35.6550778度 東経139.7108111度 / 35.6550778; 139.7108111