渋川義基 (九州探題)

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渋川義基
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
改名 貞基(初名)→義基
官位 左兵衛督
幕府 室町幕府 九州探題
氏族 渋川氏
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渋川 義基(しぶかわ よしもと)は、戦国時代武将。史料上確認できる最後の九州探題

概要[編集]

渋川氏の何れの系統か不詳であるが、周防国大内義隆によって九州探題に擁立された。初め貞基を名乗り、天文10年(1541年)に12代将軍足利義晴の偏諱を受け義基と名乗り、併せて左兵衛督に任官した。

大内氏の北部九州統治の正当性として、歴代の渋川探題と同様に擁立され続け、これに対して大友義鑑は義基を否認して自らが九州探題に就任する方策を探っていたが、失敗に終わっている。天文19年(1550年)に大友義鑑が暗殺され(二階崩れの変)、翌天文20年(1551年)に大内義隆が滅亡すると(大寧寺の変)、大内氏と大友氏の対立が解消されたことで存在価値は薄まり、同23年(1554年)を最後に史料上からその姿を消す。翌24年(1555年)に最後の探題領である筑前国早良郡姪浜が大内氏に接収されている事から、これまでに死去もしくは引退したものと思われる。その後、永禄2年(1559年)に大友義鎮が九州探題に任じられている。

出典[編集]

  • 黒島敏『中世の権力と列島』(高志書院、2012年)P78-81・85.