浄光寺 (中津川市)
浄光寺 | |
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所在地 | 岐阜県中津川市川上村194 |
位置 | 北緯35度36分38秒 東経137度30分2秒 / 北緯35.61056度 東経137.50056度座標: 北緯35度36分38秒 東経137度30分2秒 / 北緯35.61056度 東経137.50056度 |
山号 | 大慈山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
創建年 | 寛文7年(1667年) |
開山 | 天庵正堯 |
開基 | 舜屋大堯 |
法人番号 | 1200005009008 |
浄光寺(じょうこうじ)は、岐阜県中津川市川上(かわうえ)にある曹洞宗の寺院。山号は大慈山。本尊は釈迦牟尼仏。
歴史
[編集]寛文5年(1665年)、民衆は宗門改の改正の際に檀那寺の請印が必要となった。すなわち民衆は自分が住んでいる村に存在する寺院、自分が住んでいる村に寺院がない場合には近隣の村にある寺院の檀家に必ず属するように定められた。
享保10年(1725年)3月、尾張藩の三ヶ村代官[1]の小菅半右衛門が、木曾材木奉行の市川甚左衛門宛に送った村内除地の申達書状の浄光寺の条に、建立のいきさつが記されている。
当時、川上村には浄土教系の無人の堂宇はあったものの、住職が在住する寺院は存在していなかった。
そこで隣村である恵那郡坂下村の長昌寺[2]に請印を依頼していたが、川上村は尾張藩領であるのに、坂下村は苗木藩領であったため、他藩の寺に依頼することは公用・私用とも不便があった。
そこで川上村に寺を建立する機運が高まり、既に存在した浄土教系の阿弥陀堂を整備して寺として住職を置き宗門請印を頼むこととし、尾張藩の三ヶ村代官に申請し許可を得た。
寛文7年(1667年)、坂下村の長昌寺の舜屋大堯が開基し、美濃国武儀郡下有知村にある曹洞宗の龍泰寺17世の天庵正堯を招いて開山して浄光庵という寺院が創建された。
以降住職の交代の際には龍泰寺から入寺することが慣例となった。
当時、川上村の庄屋であった原権兵衛政勝は未だ若年であったため、先々代の長𠮷正家が創建に尽力した。後年、原権兵衛政勝は寺域や堂内の充実に尽力した。
延宝3年(1675年)、原権兵衛政勝は、寺の飯米用として久保田で1反7畝28歩の田と、山を数カ所を寺に寄進している。
浄光寺の戒壇石の銘文に、貞享2年(1685年)7月15日に「原権兵衛政勝の喜捨により大慈山浄光寺の当住の中峯が、これを建てる」と刻まれていることから、この年に浄光庵に寺号が許可されて浄光寺に昇格し、中峯が、浄光寺の一世となったことを示すものではないかと考えられる。
後に寺名を記す際には、「濃州武儀郡下有知村龍泰寺末寺 恵那郡川上村禅宗浄光寺」となった。
貞享5年(1688年)8月2日、浄光寺を開基した舜屋大堯が遷化し、坂下村の長昌寺の墓地に埋葬された。
享保9年(1724年)の浄光寺什物帳によると仏像・仏具の大部分は原権兵衛政勝の寄進となっている。この年に庫裡と阿弥陀堂の改築を行っている。
文久2年(1862年)、本堂をはじめとする建物が大破した。その修繕のため境内の桧類2,143本の払下げをすることで、その見積代金535両3分をもって修復したいと正眼寺を通じて寺社奉行に願い出たが、寺社奉行所からは、約半額の267両が下された。
明治27年(1894年)3月23日、庫裡から出火し建物の全てを焼失。過去帳も失った。
明治35年(1902年)5月10日、本堂及び全ての建物を再建した。これが現在の建物となっている。
大正13年に弘法堂、昭和3年(1928年)に鐘付堂が完成した。鐘は太平洋戦争中に供出したが、戦後に再鋳された。
昭和47年(1972年)には檀家の寄進により位牌堂が増築された。
浄光寺守護神弁財天
[編集]境内の池の中にある島に祀られている。
貞享4年(1687年)9月、浄光寺の繁昌の祈願をこめて祀られたものである。現在の祠は天明2年(1782年)に6世の岱嶽による再建である。
末寺の地蔵院
[編集]浄光寺の末寺の地蔵院は、岐阜県加茂郡坂祝町黒岩583-1にある。
宝永2年(1705年)11月、浄光寺2世の円通の弟子の竹鳳の開基による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『川上村史 通史編・史料編』 第11節 信仰と神社・寺 浄光寺の起源 p667~p672 1983年
- 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年