波多野秀香

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波多野秀香
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 伝承では永禄2年(1559年
死没 天正7年8月9日1579年8月30日)?
改名 酒井氏重→波多野秀香→二階堂秀香
官位 従五位下伊豆守
主君 波多野秀治
氏族 丹波酒井氏波多野氏
父母 実父:酒井重貞
養父:波多野元秀?
兄弟 秀治秀尚秀香
仲井市之進の女
久左衛門秀朝、定晴
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波多野 秀香(はたの ひでたか)は、安土桃山時代武将波多野秀治の弟。大路城主。二階堂家の家督を継ぎ、二階堂秀香とも名乗った。

生涯[編集]

丹波酒井氏の一族である油井城城主、酒井佐渡守重貞の次男として生まれる。酒井重貞は波多野氏重臣であった。その後、波多野元秀の養子として迎えられ、秀治の義弟となったとされる。

天正6年(1578年)3月より、波多野氏は居城・八上城に籠城し、織田氏の家臣・明智光秀と戦う(八上城合戦[1]。1年以上に及ぶ攻防ののち、秀香は兄の秀治、秀尚と共に捕らえられ、天正7年(1579年)6月8日、安土で磔に処された[1][注釈 1][注釈 2]

秀香については、秀治・秀尚が捕らえられた後、八上城に籠城したとする伝承がある。これによると、天正7年(1579年)5月5日に明智方から和議の申し出がなされ、6月1日に明智光秀の母を人質として預かると、秀治・秀尚は明智方の本目城に赴く[6]。しかしそこで捕らえられ、安土に送られて処刑された[7]。秀香はそれを受け八上城にて籠城の評議を行い、八上城内は万事秀香の采配に従うよう評議で決定する[8]。和議違約により光秀の母を磔殺の刑に処し、明智左近ら付き人の武士3人は切腹、腰元5人は光秀の母の亡骸と共に明智方に送還した[8]。その後、天正7年(1579年)8月9日、八上城方は打って出て戦い、秀香は本丸に火を放ち自刃したという[9]。享年21歳[9][注釈 3]

また、秀香にはこの時3歳の子・秀朝(久左衛門、幼名藤八)がおり、叔父・酒井彦右衛門に託されたとされる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 八上城落城の際に捕らえられ磔刑に処されたのは「波多野兄弟三人」であり[2]、三兄弟であれば秀治・秀尚・秀香の三人であると推定される[3]
  2. ^ 『丹波志』には、秀香から小嶋次郎四郎に宛てられた感状[4]が記載され、秀香は秀治の最期を見届けて辞世の句を預かったとされている[5]。しかし秀香は秀治らとともに磔にされたとみられるため、この感状については疑問視されている[5]
  3. ^ これらの伝承は『籾井家日記』などに基づいている[10]。また6月1日に落城した八上城には明智光秀の兵が入ったはずで、波多野方が再入城したとは考えられない[11]

出典[編集]

  1. ^ a b 細見 1988, pp. 65–69; 丹南町史編纂委員会 1994, pp. 591–599.
  2. ^ 信長公記』、『兼見卿記』。
  3. ^ 細見 1988, pp. 68–69; 丹南町史編纂委員会 1994, pp. 597–598.
  4. ^ (天正7年)6月2日付「二階堂(波多野)秀香感状」。
  5. ^ a b 丹南町史編纂委員会 1994, pp. 597–598.
  6. ^ 奥田 1958, p. 210.
  7. ^ 奥田 1958, pp. 210–212.
  8. ^ a b 奥田 1958, p. 212.
  9. ^ a b 奥田 1958, p. 214.
  10. ^ 奥田 1958, pp. 210–211.
  11. ^ 細見 1988, p. 69.

参考文献[編集]

  • 奥田楽々斎『多紀郷土史考 上巻』多紀郷土史考刊行会、1958年。 
  • 酒井辰夫『油井村の覚え書』私家版、2016年。 
  • 丹南町史編纂委員会 編『丹南町史 上巻』丹南町、1994年。 
  • 細見末雄『丹波史を探る』神戸新聞総合出版センター〈のじぎく文庫〉、1988年。ISBN 4-87521-455-3 

関連項目[編集]