河万濮
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河 万濮(ハ・マンボク、朝鮮語: 하만복/河萬濮、1911年[1]または1914年1月30日[2] - 1965年8月2日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の実業家[3]、政治家。第2代韓国国会議員。本貫は晋陽河氏[4]。河 万僕(読み、ハングル同/河萬僕)という表記も見られる[2]。
経歴
[編集]慶尚南道晋州市大谷面丹牧里生まれ。漢文修学。朝鮮時代は海産物の委託販売で大金を稼いで、晋陽郡で河信商事会社を経営し、釜山でゴム工場も設置した資産家だった。地元の行事や水害にもよく寄付をした。解放後は南朝鮮過度政府立法議員、反民族行為特別調査委員会委員を務めた。1948年の初代総選挙では4895票を得て落選したものの、1950年の第2代総選挙では無所属で晋陽郡選挙区から出馬して、11164票で国会議員に当選した[1][2]。
エピソード
[編集]1934年、多くの住民が戸税(住民税)を払えないと聞くと、親の残した遺産を使い2000ウォンを代納した[2][6]。
脚注
[編集]- ^ a b “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2024年8月31日閲覧。
- ^ a b c d “진주성-하만복(河萬僕)전 국회의원”. 경남도민신문 (2018年1月31日). 2024年8月31日閲覧。
- ^ “模範的實業靑年(모범적실업청년) 河萬濮氏(하만복씨)”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1937年8月17日). 2024年8月31日閲覧。
- ^ “晉陽河氏大同譜 六卷”. p. 404. 2024年8月31日閲覧。
- ^ “조용수 (趙鏞壽)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院) 2024年8月31日閲覧。
- ^ “六千餘極貧者戶稅(육천여극빈자호세) 二千餘圓(이천여원)을代納(대납)”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1934年6月18日). 2024年8月31日閲覧。