沈浚

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沈浚(しん しゅん、生年不詳 - 549年)は、南朝梁官僚は叔源。本貫呉興郡武康県

経歴[編集]

の散騎常侍の沈憲の孫にあたる。若くして博学で、才幹があり、山陰県呉県建康県の県令を歴任して、有能で知られた。入朝して中書郎・尚書左丞となった。

太清2年(548年)、侯景が反乱を起こして建康に迫ると、沈浚は御史中丞に転じた。やがて梁の諸侯の援軍がやってきたため、侯景は講和を求めた。太清3年(549年)、講和が成立したが、ときに建康城内に疫病が発生したことを侯景が知ると、軍を撤退させようとしなかった。皇太子蕭綱が沈浚を侯景のところに使者として派遣すると、侯景は撤退の意志を示さず、刃を膝に横たえて沈浚を脅そうとした。沈浚は「どうして逆臣の刀をおそれようか」といって退出した。侯景は「これ真の司直なり」と評しつつ、ひそかに恨みを抱いた。侯景が張嵊を撃破すると、沈浚の身柄を求めた。沈浚は捕らえられて殺害された。

伝記資料[編集]