沈法興

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沈 法興(しん ほうこう、生年不詳 - 621年)は、中国隋末に割拠した群雄の一人。本貫呉興郡武康県

生涯[編集]

南朝陳広州刺史沈恪の子として生まれた。隋の大業末年、呉興郡守に任ぜられ、東陽の楼世幹を討伐した。義寧2年(618年)3月、煬帝江都で殺されると、宇文化及の処断を名目に丹陽で兵を起こした。東陽を発し、江都を抜き、余杭を下し、烏程にいたって兵6万に達した。毗陵で路道徳をだまし討ちにしてその城に拠り、江南道行軍総管を自称した。越王楊侗が立つと、大司馬・録尚書事・天門公となった。陳果仁を司徒とし、孫士漢を司空とし、蒋元超を尚書左僕射とし、殷芊を左丞とし、徐令言を右丞とし、劉子翼を選部侍郎とし、李百薬を掾とした。楊侗の死の報が届くと、武徳2年(619年)9月、梁王を自称し、延康と元号を立てた。

武徳3年(620年)、李子通による攻撃を受け、沈法興は部将の蒋元超を派遣して迎え撃ったが敗北し、沈法興は毗陵を放棄し呉郡へと逃れた。杜伏威輔公祏中国語版に精鋭数千人を率いさせて李子通を攻撃すると、敗れた李子通は太湖へと逃れ、この地に逃れていた沈法興を再度攻撃し、沈法興は城を捨て数百の部下を率いて呉郡の聞人遂安に投降した。聞人遂安は部将の葉孝弁を遣わしてこれを迎えようとしたが、沈法興は直前に心変わりし、葉孝弁を殺害しようと企てた。しかしこの企ては露見し、葉孝弁の軍により攻撃を受け、退路を失った沈法興は河に飛び込んで自殺した。

伝記資料[編集]

  • 旧唐書』巻56 列伝第6「沈法興伝」
  • 新唐書』巻87 列伝第12「沈法興伝」