毛内茂幹

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毛内茂幹
時代 江戸時代後期
生誕 不明
死没 天保8年7月28日1837年8月28日
改名 茂幹→雲林(号)
別名 有右衛門、辰次郎、左門次郎、春秋庵、子誉
主君 津軽信明寧親
陸奥弘前藩
氏族 桓武平氏千葉氏毛内氏
父母 毛内茂粛
兄弟 茂幹石山雅朝
裕胤
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毛内 茂幹(もうない しげもと)は、江戸時代後期の弘前藩士。

生涯[編集]

天明2年(1782年)、父・毛内茂粛が隠居し、家督300石を継いだ。寛政2年(1790年)より諸手足頭、持筒足軽頭、大組武頭、持槍奉行などを歴任した。寛政10年(1798年)より大目付、後に用人となる。文化3年(1806年)に留守居組頭となった。文化8年(1811年)に隠居し、剃髪した。号は雲林。

幼少より絵画や和漢、地理、暦法、茶道、華道、書道など多彩な分野に才能を示した。特に絵画は江戸で独学で学び、後に南画を習得した。津軽の南画の始祖といわれている。また邸内に春秋庵という庵を作り、身分の貴賤に捕われず、風流を楽しんだ。谷文晁比良野貞彦と交流し、門下生も数十人を超えていた。主な門下生として、松山雲章、工藤五凰、平尾魯仙、片谷楽斎、工藤立凰、矢部義貞など。後に溝城茂として、諸国を廻り、紀行画も多数残した。また、三上隆圭、石山月澗らと山水画も描いている。孫は新選組隊士の毛内有之助

参考文献[編集]

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社