横山雄偉

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横山 雄偉(よこやま ゆうい、1882年明治15年)12月[1] - 1962年昭和37年)12月3日[2])は、昭和時代の政治活動家玄洋社社員[3]。本名は横山勇[3]

略歴[編集]

福岡県糟屋郡、のちの勢門村(現篠栗町)で、横山久三郎の長男として生まれる[1]。1902年(明治35年)12月、京北中学校(現東洋大学京北中学高等学校)を卒業[1]。その後、英語専修学校、根本漢学塾でも学んだ[1]

1904年(明治37年)1月、信濃毎日新聞社に入社[1]日露戦争従軍記者として派遣された[1]。1912年(大正元年)12月、『世界雑誌』主筆となる[4]。1918年(大正7年)12月、国際日本協会が設立し、横山はその編集発行人となる[5]。1920年(大正9年)12月、横領事件で検挙され、1923年(大正12年)8月に懲役2年の判決を受けた[5]

その後、床次竹二郎の側近となり、床次の新党倶楽部の結成、立憲政友会へ復党などに係わった[6]。また、久原房之助の側近でもあった[7]。1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙で福岡県第1区から立憲政友会所属で立候補したが落選した[8][9]

1932年(昭和7年)8月、東京市大森町(現大田区)から神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現茅ヶ崎市)に転居[10]。戦時下には、帝国ホテルの一室に事務所を構え、各種外交工作にかかわった[11]。1945年(昭和20年)1月、独ソ和平を画策したとしてスパイ容疑で警視庁に検挙された[3][12]

敗戦で不起訴となり1945年8月22日に釈放されたが[13]、同年12月2日、A級戦犯容疑者に指名され、翌年1月に逮捕された(1947年12月釈放)[14]。その後、歌舞伎義太夫の研究者として講演活動などを行った[2]

著書[編集]

  • 『帝国建設者』民友社、1904年。
  • 『セシル・ローズ言行録』内外出版協会、1910年。※偉人研究 第61編
  • 『加藤高明論其他』世界雑誌社、1917年。
  • 『五大強国より四大強国へ』横山出版部、1919年。
  • 『講和条件の基礎をなせるウヰルソン氏の雄弁』横山出版部、1919年。※国際日本協会叢書 第1編
  • 『世界戦争に現れたる日本陸軍首脳部の無能力』横山出版部、1919年。
  • 『参政権のために』横山出版部、1920年。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』110頁。
  2. ^ a b 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』129頁。
  3. ^ a b c 『玄洋社・封印された実像』玄洋社社員名簿65頁。
  4. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』111頁。
  5. ^ a b 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』112頁。
  6. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』112-115頁。
  7. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』114-116頁。
  8. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第17回』529頁。
  9. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』115-116頁。
  10. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』116頁。
  11. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』120-124頁。
  12. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』124頁。
  13. ^ 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代』125頁。
  14. ^ 大西比呂志「ドン・ブラウンと横山雄偉」33頁。

参考文献[編集]

  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第17回』衆議院事務局、1930年。
  • 石瀧豊美『玄洋社発掘 増補版』西日本新聞社、1997年。
  • 大西比呂志 「ドン・ブラウンと横山雄偉」 横浜国際関係史研究会、横浜開港資料館編 『図説 ドン・ブラウンと昭和の日本』有隣堂、2005年。
  • 横浜国際関係史研究会、横浜開港資料館、横浜国際関係史研究会横浜開港資料館編 『GHQ情報課長ドン・ブラウンとその時代 : 昭和の日本とアメリカ』日本経済評論社、2009年。