横山康玄

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横山 康玄 (よこやま やすはる、天正18年(1590年) - 正保2年9月18日1645年11月6日)) は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将加賀藩家老小野姓横山氏加賀八家横山家第3代当主(名目上)[1]

父は加賀藩家老横山長知。母は前田長種の養女(長種の妹)。正室は高山右近の娘・ルチヤ(慶長19年、右近国外追放の際に離縁)[2]。継室は今枝直恒の娘。子は横山忠次横山康次奥村庸礼室、横山武右衛門室。幼名は三郎。通称は大膳。

生涯[編集]

天正18年(1590年)、前田家家臣横山長知の子として越中守山に生まれる。慶長2年(1597年)、8歳で初めて前田利長に拝謁する。慶長9年(1604年)、知行1000石を与えられる。慶長19年(1614年)、父長知が前田家を退身したため、同行し京都山科に居住する。同年大坂冬の陣が起こると父が前田家に帰参し、康玄も大津にて主君前田利常に拝謁して帰参・出陣する。元和元年(1615年)、大坂夏の陣に再び出陣し、四宮右五衛門を討ち取る戦功を挙げる。元和2年(1616年)、功を称され家老となり、4000石の加増を受ける。寛永8年(1631年)、主君前田利常が幕府より謀反の嫌疑を受けた際、老中土井利勝に弁明してその嫌疑を晴らす。その功績で4000石の加増を受け、合わせて禄高9000石となる。後に、父の所領の一部を譲られて15000石に至った。正保2年(1645年)9月18日、金沢に没す。享年56。墓所は石川県金沢市野田山墓地。父長知に先立って没したため、家督は嫡男の忠次が嫡孫承祖した。

富田重康富田重政次男)より富田流の剣術を学んだ。

脚注[編集]

  1. ^ 「加賀八家「殿様」たちの末裔 藩主支えた絆 旧男爵家の誇りは今も」『月刊北国アクタス』2014年8月号
  2. ^ 横山家 | 人物詳細 | ふるさとコレクション | SHOSHO”. 石川県立図書館. 石川県立図書館. 2022年12月18日閲覧。

参考文献[編集]