植木幸明
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植木 幸明(うえき こうめい[1]、1914年11月3日 - 1986年11月24日)は、日本の医学者、新潟大学名誉教授[2]。新潟県における第二水俣病を確認したことなどで知られる[3]。
経歴
[編集]新潟県北蒲原郡堀越村大字里に生まれ、新潟医科大学を卒業した[2]。
1951年に東京帝国大学助手となり、1956年に新潟大学医学部助教授として外科学講座に着任した[2]。当時は、中田瑞穂教授らとともに大脳の半分を摘出する手術をおこなった[4]。
1958年にはジョンズ・ホプキンズ大学へ留学し、1962年には新潟大学医学部教授に昇任した[2]。この間、1959年から1967年まで医学部附属脳外科研究施設長を務め、1967年からは新潟大学脳研究所脳神経外科学部門教授となり、その後1972年から1976年、また1978年から1980年にかけて脳研究所所長を務め、1980年に定年退官した[2]。
この間、1965年には、椿忠雄とともに新潟県における第二水俣病を確認した[3]。また、長く脳死をめぐる議論に関与して、脳死の判定基準の取りまとめなどにも寄与した[5]。
1966年に日本脳神経外科学会が認定医制度を発足させた際には、14名の認定医制度準備委員会の委員となり、最初の認定医のひとりとなった[6]。
定年後は、新潟大学名誉教授となり、また、医療法人桑名病院顧問も務めた[2]。
脚注
[編集]- ^ “植木幸明氏(新潟大名誉教授)死去”. 読売新聞・夕刊: p. 19. (1986年11月25日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ a b c d e f “歴代教授”. 新潟大学脳研究所 脳神経外科教室. 2022年6月12日閲覧。
- ^ a b “[焦点]新潟にも出た“水俣病” 工場廃水説が有力”. 読売新聞・夕刊: p. 2. (1965年6月16日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “大脳の半分取除く手術成功 新潟大学 残った分で代わりの働き”. 読売新聞・朝刊: p. 7. (1956年6月28日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “脳死 心臓は動いている 人工呼吸器の副産物 「人間の死」揺れる判定”. 読売新聞・夕刊: p. 5. (1985年2月1日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ 佐野圭司. “歩み・沿革 日本脳神経外科学会のあゆみ”. 日本脳神経外科学会. 2022年6月14日閲覧。