柄井川柳
からい せんりゅう 柄井 川柳 | |
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![]() 国書刊行会『誹風柳樽全集』(1924)より柄井川柳 | |
生誕 | 勇之助 1718年??月??日 |
死没 | 1790年10月30日没 |
別名 | 八右衛門 |
職業 | 前句付けの点者・名主 |
柄井 川柳(からい せんりゅう、享保3年(1718年) - 寛政2年9月23日(1790年10月30日))は、江戸時代中期の前句付けの点者。名は正通。幼名勇之助。通称は八右衛門。柄井家は代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主(なぬし)の家系で、宝暦5年(1755年)に家を継いで名主となった。
概要[編集]
はじめは、談林派俳諧の点者であったといわれるが定かではない。宝暦7年8月25日(1757年10月7日)前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行している。これ以降、月3回5のつく日に句合を興行している。宝暦12年10月15日(1762年11月30日)の句合には総句1万句を超し、その流行ぶりがうかがえる。明和2年(1765年)7月、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)の協力を得て刊行された『誹風柳多留』で川柳万句合の人気が高まり、他の点者を圧倒して江戸第一の点者となる[1]。その結果、一句で意味が分かる一句立ちの句が「川柳」と呼ばれるようになった。寛政2年(1790年)9月23日、死去。辞世の句は「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳」であったと伝えられている。
2世川柳と3世川柳は初世川柳の息子で、4世以降は社中から後継者が選ばれ、川柳号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれている[2]。
初代川柳の出題は前句付の14字題と冠付のみであり、総句高に対する番勝句の比率も高い。新しい趣向を好み、選句眼にも優れていたことが、上級武士も含め江戸における前句付作者にこのまれた。
「川柳発祥の地」の碑[編集]
柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地に「川柳発祥の地」の碑がある。平成19年(2007年)川柳発祥250年を記念して、東京都台東区蔵前4丁目37(三筋二丁目交差点の南東角)に建立された[3]。刻まれた碑文は、以下の通り。
宝暦7年(1757年)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝寺門前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、遂には文芸の名をもって呼ばれ、今日に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって後学相諮り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めんと祈念するものなり。平成19年(2007年)8月25日、川柳250年実行委員会
脚注[編集]
- ^ 岡本勝・雲英末雄 『新版近世文学研究事典』 おうふう、2006年2月、390頁。
- ^ “実は人名、16代目「川柳」が"吐く"人間の本質 | 読書” (日本語). 東洋経済オンライン (2018年6月2日). 2020年4月21日閲覧。
- ^ “川柳発祥の地 | TAITOおでかけナビ | 上野・浅草・谷中・浅草橋・徒蔵など台東区の公式観光情報サイト”. t-navi.city.taito.lg.jp. 2020年4月21日閲覧。