松尾流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松尾流(まつおりゅう)は、松尾宗二に始まる茶道の流派。家元は名古屋市東区にあり、財団法人として松蔭会がある。

歴史[編集]

松尾家の家祖は堺の辻家の養子で、京都で呉服商(屋号は墨屋)を営んだ辻玄哉である。辻玄哉は武野紹鴎の門人であり、また千利休台子点前を伝授した兄弟子として知られている。以後、松尾宗俊までは呉服商を生業としながら茶の湯を楽しんでいた。このうち松尾宗二(物斎)は千宗旦の門人として著名であり、宗旦から「楽只軒」の書、「楽只」銘の茶杓と花入を贈られている。この3点は松尾家の家宝とされ、相続披露の茶事のみに用いられている。

初代松尾宗二(楽只斎)は元は近江の生まれで松尾家の養子に入り、始めは町田秋波に茶を学び表千家6代覚々斎のもとで奥儀を極めた。享保のころまで名古屋の町衆の間では宗和流が盛んだったが、このころ覚々斎は依頼によって町田秋波を名古屋に遣わして稽古をみさせていた。秋波はまもなく亡くなり、その代わりに享保9年(1724年)楽只斎宗二が名古屋へ派遣されるようになった。京都においては近衛家鷹司家より殊遇を得ており、たびたび京都と名古屋を往復して茶道普及に努めた。これより代々京都と名古屋を往復し、2代翫古斎の時からさらに尾張藩の御用も勤めるようになる。このうち5代不俊斎は4代不管斎の妹の婿だが、焼きもの・建築・造園、さらに詩歌に通じた非凡の人で、松尾流中興の祖と称せられている。

7代好古斎の時に幕末を迎え、鳥羽・伏見の戦いで京都東洞院押小路にあった家を焼失したため、名古屋に移住することになった。好古斎の長男は松尾流を継ぐべく大徳寺孤篷庵で禅の修行をしたのだが、一旦は名古屋に戻ったもののとうとう禅僧となってしまった。このため好古斎が急逝したあとは3男が8代汲古斎として家元を継いだのだが、汲古斎もわずか4年で台湾に渡ってしまう。結局、長男が還俗して9代半古斎として家元を継ぐことになる。半古斎も早世したため、10代不染斎は13年間に渡って表千家12代惺斎のもとで修行を積んでから継承した。この間家元不在の松尾流は妹の松尾実知が中心になって支え後に11代を贈られた。

歴代[編集]

松尾流
斎号 生没年月日 備考

辻玄哉
不詳-1576年11月11日

辻五助
不詳-1631年5月1日

松尾宗二 物斎 1579年-1658年5月24日

松尾宗政
不詳-1691年

松尾宗俊
1639年-1688年
松尾宗二 楽只斎 1677年-1752年9月5日 養子
松尾宗五 翫古斎 1701年-1771年11月25日
松尾宗政 一等斎 1741年-1802年9月13日
松尾宗俊 不管斎 1781年-1805年6月27日
松尾宗五 不俊斎 1792年-1830年6月16日 3代一等斎の婿
松尾宗古 仰止斎 1820年-1856年4月29日 伏見稲荷中社の松本家から養子
松尾宗五 好古斎 1847年-1888年3月21日
松尾宗幽 汲古斎 1872年-1918年 7代好古斎の3男
松尾宗見 半古斎 1866年-1917年10月1日 7代好古斎の長男
松尾宗吾 不染斎 1899年4月13日-1980年5月27日

松尾実知 浄照院 1903年-不詳 10代不染斎の妹
葆光斎により11代を譲られるが妙玄斎により撤回
十一 松尾宗倫 葆光斎 1936年-1984年12月10日 10代不染斎の子
十二 松尾宗典 妙玄斎 1962年- 当代

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 松尾宗倫「松尾流の歴史と代々」『日本の茶家』河原書店
  • 宮帯出版社編集部「茶道家元系譜」『茶湯手帳』宮帯出版社