春雨 (春雨型駆逐艦)

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艦歴
計画 1900年度[1]
起工 1902年3月1日[1]
進水 1902年10月31日[1]
就役 1903年6月26日[1]
その後 1905年12月12日駆逐艦に種別変更[1]
1911年11月24日擱座沈没[1]
除籍 1911年12月28日[1]
売却 1912年8月1日[1]
性能諸元
排水量 常備:375トン[2]
全長 69.2m[2]
全幅 6.6m[2]
吃水 1.8 m[2]
機関 艦本式水管缶(石炭専焼)4基[2]
直立式4気筒三連成レシプロ蒸気機械2基2軸[2]
6,000馬力[2]
最大速力 29ノット[2]
航続距離 10ノットで1,200海里[2]
燃料 石炭:100トン[2]
乗員 62人[3]
兵装 7.6cm単装砲2基[2]
57mm単装砲4基[2]
45cm魚雷発射管単装2基[2]

春雨(はるさめ)は、大日本帝国海軍駆逐艦で、春雨型駆逐艦のネームシップである。同名艦に白露型駆逐艦の「春雨」があるため、こちらは「春雨 (初代)」や「春雨I」などと表記される。

艦歴[編集]

1903年6月26日、横須賀造船廠で竣工し、軍艦に編入され駆逐艦に類別[1]

1904年日露戦争が勃発し、旅順口攻撃黄海海戦に参加[1]。同年10月11日、旅順沖で触雷し士官室から後方の船体を喪失し、呉工廠で建造中の同型艦の後半部分を接合する工事を同年11月29日から着手し、翌1905年1月7日に修理完了して復帰した[1][4]日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊司令艦として参加し、5月27日の夜戦で僚艦夕霧と衝突事故を起こした[4]。その後、樺太の戦いにも参加した[1]

1911年11月24日、現在の三重県鳥羽市的矢湾菅崎半島付近で荒天により擱座沈没[1]。第十二駆逐隊司令大滝道助中佐以下44名が殉職した。地元の長岡村相差(おうさつ)町の村人らの救助活動により8名は生存。現在も事故現場を見渡せる菅崎半島八正道の厳頭に春雨殉難の碑が整備、保存されている。

同年12月28日、除籍。1912年8月1日、沈没のまま売却[1]

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艦長
  • 有馬律三郎 少佐:1903年4月24日 -
  • 関重孝 少佐:1904年9月1日 - 11月12日
駆逐艦長
  • 庄野義雄 少佐:1905年12月12日 - 1906年1月25日
  • (兼)水科三十郎 少佐:1906年1月25日 - 4月1日
  • 和田博愛 大尉:1906年4月1日 - 7月3日
  • (兼)水科三十郎 少佐:1906年7月3日 - 7月12日
  • (兼)藤田定市 中佐:1906年7月12日 - 10月20日
  • (兼)平岡善之丞 大尉:1906年10月20日 - 12月20日
  • 吉武貞輔 大尉:1906年12月20日 - 1907年4月5日
  • 丸尾剛 大尉:1907年4月5日 - 1908年4月20日
  • 柳原継雄 大尉:1908年4月20日 - 6月5日
  • (兼)神代護次 大尉:1908年6月5日 - 9月19日
  • 柳原継雄 大尉:1908年9月19日 - 1909年12月1日
  • 児玉兼三郎 大尉:1909年12月1日 - 1911年11月24日殉職

座礁[編集]

佐世保水雷団第十二駆逐隊の旗艦春雨は僚艦の磯波綾波浦波と共に土佐沖の海軍演習に参加した帰途であった。1911年11月23日夕刻、三重県の志摩沖にさしかかった時、大時化に遭遇して編隊行動の自由を奪われた。そこで司令大滝中佐は編隊をといて各艦に自由行動を令し、気象警戒海域での退避をはかった。

春雨の艦長児玉大尉は僚艦と別れて志摩市の的矢湾への避難入港を目指した。夜に入ると嵐はさらに強まり、海は大荒れに荒れた。真夜中近くに長岡村相差(現在の鳥羽市相差町)南岸、菅崎半島の八正道沖に差し掛かった際に春雨は余りに間近に菅崎半島から対岸の安乗埼灯台が明滅するのに驚き、後進に切り替えたことにより運悪く管崎海岸の三角形暗礁に艦の後部をのし上げて座礁した。

翌11月24日の早朝、嵐の翌日だったこともあり菅崎半島の崖下に海草取りに来ていた村人が崖下に流れ着いた春雨乗組員を発見したことで事故が発覚した。相差青年会により救助隊が組まれ現場の海域に到着したが、海は荒れており船で春雨に近づくことができなかった。そのため村人は命綱一つで重油も漂う荒れる海に飛び込み残っていた乗組員を救助した。

昼過ぎに湾口に現れた僚艦綾波や多くの村人達が見守る中春雨はマストを折り、煙突だけを波間に出しながら沈没した。この時春雨の捜索にあたっていた僚艦綾波は状況が把握できていなかったが、菅崎の台上から救助された乗組員が菅笠を両手に手旗信号で状況を送った。   

自力で岸までたどり着いた者も含め救助された8名の乗組員はその日の内に的矢湾に入港した綾波により日本赤十字病院(現在の三重県伊勢市)に運ばれて一命を取りとめた。乗組員の多くは座礁した春雨より短艇で脱出を試みていたが嵐の中こちらも暗礁に乗り上げるなどして多くは海に投げ出され岩礁に体をうちつけ亡くなったようである。海女や漁師など村人総出で44名の殉職者全員の遺体は収容された。多くの遺体は脱出のため軽装だったのに対し発見された司令大滝中佐の遺体は一装の軍服を着用し、真新しい白の手袋をはめ、靴下から靴に至るまで村人には死出の装いのように感じその覚悟が窺い知れたようである。

1937年志摩郡在郷軍人総合会により、事故現場を見渡せる菅崎半島の厳頭に記念碑が設立され事故から100年以上過ぎた今も整備保存されている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本海軍史』第7巻、288頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』28頁。
  3. ^ 『写真日本海軍全艦艇史』資料編「主要艦艇要目表」51頁。
  4. ^ a b 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、279頁。

参考文献[編集]

  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 『世界の艦船増刊第107集 日本駆逐艦史』、海人社、2012年12月。
  • 駆逐艦春雨『殉難救助顛末記』、相差町内会、1991年11月。

関連項目[編集]