志村鐵一

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札幌開祖 志村鐵一碑
札幌開祖 志村鉄一翁 居住之地跡

志村 鐵一(しむら てついち)は、札幌に初めて居住した和人で、札幌開祖と呼ばれている。

生涯[編集]

志村は元は信州の剣客だったが、江戸生まれの元幕臣で石狩役所に勤める荒井金助の誘いにより、蝦夷地開拓にやってくる。

『荒井金助事蹟材料』所収の、石狩役所の足軽・亀谷丑太郎が述べるところでは、志村は石狩在住兼学問教授方・鈴木顕輔の家来であり、石狩に来た折に荒井から豊平通行屋守を命じられたという[1]

当時の豊平川は橋もなく、現在の5倍から10倍の水量があり、交通の障害となっていた。そのため1857年安政4年)、箱館奉行によって銭函千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)が開削されると、幕命により志村は豊平川渡し守として現在の豊平橋付近に居を構えた。

志村の扱いは足軽格で、給与は2人扶持だった。渡し舟の業務は主に息子の仕事であり、和舟では渡りきれないような急流を、丸木舟を使い両岸に張ったコクワの蔓をたぐって渡ったという[2]

その後、猟師の吉田茂八が付近に居住するようになり、二人は親交を深める。やがて人の往来が多くなったため、志村は駅逓(宿泊と郵便を扱う仕事)も兼務することとなる。

だが1869年明治2年)、幕府に代わって明治政府が札幌に開拓使を置き島義勇が判官としてやってくると、志村は仕事を奪われ、代わりに吉田がその任につくことになった。理由は不明だが、幕府との関係が深かったのを恨まれてとも言われている。

1871年(明治4年)4月に豊平橋ができると橋守を務めたが、それも1874年(明治7年)10月に解任された[2]

職を失った志村は絶望し、定山渓で温泉を開いていた美泉定山という僧に会いに旅立つが、定山渓に姿を現すことなくそのまま行方不明となる。

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住居跡(現在の札幌市豊平区豊平3条1丁目付近 地図)の遺跡に顕彰碑が建立されたが、1967年昭和42年)、新豊平橋の架橋に伴い同市豊平4条1丁目(地図)に移転している。

この顕彰碑とは別に、遺跡には案内標が建てられている。

参考文献[編集]

  • 坪谷京子『さっぽろ むかし あったとさ』共同文化社、1986年
  • 片岡秀郎『札幌歴史散歩』ヒルハーフ総合研究所、2012年7月14日。ISBN 978-4-9906400-0-2

脚注[編集]

  1. ^ 片岡 2012, p. 242.
  2. ^ a b 片岡 2012, p. 243.

関連項目[編集]