後妻打ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
「往古うはなり打の図」 女たちが双方に別れ、箒や擂り粉木など日用の道具を持って争う。歌川広重画。

後妻打ち(うわなりうち)とは、日本中世から江戸時代にかけて行われた風習のこと。夫がそれまでの妻を離縁して後妻と結婚するとき、先妻が予告した上で後妻の家を襲うというものである。

解説[編集]

「うはなり」(うわなり)とは後妻のことで、かつては妻がいる上にさらに迎えた女性(など)を「うはなり」といったが、のちに先妻と離婚して新たにむかえた女性を「うはなり」といった。この「うはなり」を先妻が打擲することを古くは「うはなりうち」と云い、『御堂関白記』や『宝物集』などに「うはなりうち」のことが記されている。

この「うはなりうち」は時代が下ると大掛かりなものとなり、江戸時代の『昔々物語』には、後妻打ちについて「相応打」(または「相当打」)と称し以下のように記す。

一、百弐三拾年以前の昔は、女の相応打と云ふ事ありし由、女もむかしは士の妻、勇気をさしはさむ故ならん、うはなり打と云に同じ、たとへば妻を離別して五日十日、或は其一月の内また新妻を呼入たる時はじめの妻より必相当打とて相企る、巧者なる親類女と打より談合して是は相当打仕りては成まじと談合極ける時、男の分は曽てかまふ事にあらず、

扨手寄のたとへば五三人も有之女に、親類かたより若く達者成女すぐりて借、人数廿人も三十人も五拾人も百人も身代によりて相応にこしらへ、新妻のかたへ使を出す、此使は家の家老役の者を遣す、口上は御覚悟可有之候、相当打何月何日可参候、女持参道具は木刀なりとも棒なりともしないなりとも道具の名を申遣す、木刀棒にては、大に怪我有之故、大方しない也、

新妻かたにても家老承て新妻へ申達、新妻おどろき何分にも御詫言可申と申も有、また左様によはげ出し候得ば、一生の大恥に成ほど御尤相心得待可申条、何月何日何時待入候と返事有之、其後男の分一切かまはず最前申遣使一度男にて其後男出会事不有之法也、

扨其日限に至り離別の妻乗物にのり、供の女は何ほど大勢にても、皆歩行にてくゝり袴を着、たすきを懸髪を乱し又はかぶりものにて或は鉢巻などし、甲斐甲斐しく先手にしないを持、腰に挿、押寄る也。門を開かせて台所より乱入、中るを幸ひに打廻る也、鍋釜障子相打こわす、其時刻を考へ新妻の媒と待女郎に来る女中と先妻の昏礼の時女郎良したる女中同時に出会、真中へ扱ひ様々言葉を尽し返、供の女ども働に善悪様々あり、

昔は相当打に二度三度頼まれぬ女はなし、七十年計り已前、八十歳斗のばゝ有しが、我等若き時分相当打に、拾六度頼まれ出しなど語りし、百年斗已前は透と是なし[1]

これによれば後妻打ちは、男性が妻を離別して一ヶ月以内に後妻を迎えたときに行われる。まず前妻方から後妻のもとに使者が立てられ、その口上で「御覚悟これあるべく候、相当打何月何日参るべく候」と後妻打ちに行く旨を知らせる。当日、身代によって相応な人数を揃えて主に竹刀を携え、後妻方に押し寄せ台所から乱入し、後妻方の女性たちと打ち合う。折を見て前妻と後妻双方の仲人や侍女郎たちがともにあらわれ仲裁に入り、双方を扱って引き上げるという段取りであった。「待女郎」とは婚礼のとき、新郎の家に来た新婦を家内へ案内する女性のことである。『昔々物語』は享保17年(1732年)頃の成立といわれており、それに従えば上に記される「百弐三拾年以前」の「うはなり打」とは、およそ慶長のころ以前の話となる。また最後に「百年斗已前は透(過ぐ)と是なし」ともあり、このような後妻打ちの習俗が寛永を過ぎた頃にはすでに絶えていたのがうかがえる。

なおNHKの歴史番組「タイムスクープハンター」の「修羅場!決戦の妻たち」の回(2011年6月9日放送)では、後妻打ちをドラマ化したものが放送された。

脚注[編集]

  1. ^ 以上引用は、『日本庶民生活史料集成』第八巻所収の『昔々物語』より。ただし原文には濁点がないのでこれを補い、また読みやすさを考え適宜改行した。

参考文献[編集]

  • 『日本庶民生活史料集成』(第八巻) 三一書房、1969年 ※『昔々物語』所収
  • 日本大辞典刊行会編 『日本国語大辞典』(第2巻) 小学館、1987年(第2版) ※「後妻打」の項

関連項目[編集]