平田佐十郎

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平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年明治26年) - 1918年大正7年)11月11日)は、三重県四日市市出身の実業家。平田家の3代目当主である。2代目平田佐次郎から一旦平田家の家督を継承した平田紡績の3代目社長。2代目平田佐次郎の長男。三重県三重郡富洲原村(現在の四日市市富田一色本町(現在の富田一色地区七軒本町)出身)でスペイン風邪病死者である。

平田紡績家[編集]

2代目平田佐次郎と吉川たきの長男として三重県三重郡富洲原村の富田一色本町で出生した。祖父は、平田紡績創業者の「初代平田佐次郎」であり、父は三重郡富洲原町議会議員の「2代目平田佐次郎」であり、幕末1859年安政6年)9月14日生まれである。

初代と2代目の親子2代で「平田佐次郎」を襲名していたが、3代目当主は「3代目平田佐次郎」ではなくて、「平田佐十郎」を名乗った。

平田佐十郎は三重県三重郡富洲原村(現在の四日市市富田一色地区)の実業家である平田紡績家の2代目当主の平田佐次郎の長男として出生する。8男4女の12人兄弟であり、母親の吉川家出身の平田たきは最後の子供の平田佐貞などの双子男子出産をした際に体調が悪化して病死した。2代目平田佐次郎の後妻のしな子は1852年嘉永5年)生まれである。

3弟は平田紡績の4代目社長で四日市市長の平田佐矩である。5弟は平田紡績番頭の宗村家に養子にいった暁学園の創設者の宗村佐信。7弟は大日本帝国陸軍軍人芸術家平田佐貞である。[1]

学歴は富洲原尋常小学校→四日市商業学校(現在の三重県立四日市商業高等学校)の卒業生である。甥が平田紡績6代目社長である宗村完治。他の甥は平田紡績7代目社長代行の宗村明夫。暁学園3代目理事長の宗村南男。平田佐矩の長男の平田佐造。妹の嫁ぎ先が川越村(現在の三重郡川越町高松地区)の光倫寺の僧侶の横瀬家で、義弟である横瀬善賢。もう1人の妹の嫁いだ家は川越村(現在の三重郡川越町南福崎地区)の法雲寺僧侶家である。

経歴[編集]

平田紡績の前身の平田商店は明治末期の明治40年代に入ると、ロシア(ロシア帝国)やイギリス大英帝国内)への平田商店からの漁網の輸出をはじめ、1909年(明治42年)から1910年(明治43年)頃には、ロシア帝国向けの伊勢湾沿いの富田地域・富洲原地域で生産される漁網の輸出が最盛期に達した頃には、綿糸網が小包として、平田商店から毎日約1000個の漁網が送り出されていた。

2代目平田佐次郎の後継者としてエリート教育を受け、平田商店に入社した。その後平田佐十郎が平田家の家業の平田商店を株式会社化して、「旭製網株式会社」となり、平田製網株式会社から→平田紡績株式会社となった。妻のえまと結婚した。平田製網を発達させるために、西洋諸国の優れた繊維生産技術を自身の調査で学習をして、明治時代工業化の進んだドイツ帝国から製網業を学ぶため、平田佐十郎のドイツでの語学留学を兼務して、ドイツ帝国の繊維業の企業に派遣された。

平田家の家督を継承し、平田紡績3代目社長に就任した後、三重県四日市周辺の富洲原にも広まっていた流行病のスペイン風邪に感染した。平田家は大金を払い佐十郎は医師による治療を受けたが、1918年(大正7年)11月11日に24歳で病死した。子供はなく、妻の平田えまは未亡人として平田家に残った。平田家の家督の後継者は3弟で桑名の堀家の養子として堀佐矩を名乗っていた平田佐矩が急遽2代目平田佐次郎の後継者となり平田家の家督を相続した。

平田佐十郎は平田家の悲劇の当主として、平田家では初代平田佐次郎・2代目平田佐次郎と同格とされ、特別に平田佐十郎個人の墓が建立された。残りの平田家子孫は、個人の墓を保有する事が許されず平田一族全員が同一の墓である。富洲原霊園の平田家の墓の西側から3番目に3代目の平田紡績社長で平田家当主として若死にした平田佐十郎の戒名が「慈照院西暁信士」として、妻の平田えまの戒名が「浄教院誓国信女」として平田佐十郎夫妻の墓がある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 三重県紳士録三重郡の部107ページ上段左側

参考文献[編集]

  • 四日市市史(第18巻・通史編・近代の富洲原地区の歴史の項目)
  • 四日市市制111周年記念出版本「四日市の礎111人のドラマとその横顔」
  • 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年発行)